五章二十三話目
いい加減慣れてきた弟と青年のやり取りを背後で聞き流しつつ、レインはベッドに座るオルグに話しかける。
「オルグ、聞いてたかい。お姉さんが手助けしてくれるから、もう安心だよ?」
レインは生気のないオルグの顔を覗き込む。
実際に事態が動かないことには何の励ましにもならないかもしれない、とレインはひそかに思ったが、オルグはわずかに顔に微笑みを浮かべる。
『ありがとうございます、オリガ様、アレクセイ様』
オルグは姉と青年を交互に見る。
レインの知らない言語で話す。
『身分も階級も持たない私などを助けていただけるなど、このご恩は一生忘れません』
恐らくはイストア語なのだろう。
姉は落ち着いた様子で返す。
『いいのです。それよりも、あなたはどうしてこの学校に来たのですか? その目的を教えていただけませんか?』
レインはリタ・ミラの種を介して、二人の言葉の意味を読み取る。
『それは』
オルグは口ごもる。
ここで本当のことを話していいのか迷っているようだった。
『よろしければ、わたしたちに本当のことを話してもらえませんか?』
姉は真剣な顔でオルグの返事を待っている。
部屋に長い沈黙が落ちる。
狭い部屋の中に、レインをはじめ、リシェンと姉と弟、イヴン先生とノートゥン先生とシェーラ先生、青年とそのお付きの黒服の男たちがいる。
皆が一様にオルグの返事を待っている。
「ぼ、ぼくは」
オルグは両手で顔を覆い、悩んでいるようだった。
部屋の中の誰かが大きな溜息を吐く。
「話に、ならないね」
溜息を吐いたのは、青年だった。
青年はレインの隣をすり抜け、ベッドに座るオルグの前に立つ。
「やあ、初めまして、だね。君はサラの命の恩人の親しい友人と聞いているよ。君がイストア出身だと聞いているけれど、詳しいことは聞いていなくてね。出来れば詳しい話を教えてくれないかな?」
青年はにこやかに笑みを浮かべ、オルグに手を差し出す。
オルグは呆然として青年の手を握る。
その途端、青年の態度が豹変する。
柔らかな笑みを残しつつ、その深緑の瞳は眼光鋭くオルグを見据えている。
「さて、おれはサラほど甘くはないよ。慈善で動く気はさらさらないからね。ビジネスの話に移ろうか」
レインは青年の言葉を聞いてぎょっとする。
「兄さま!」
姉が非難めいた口調で訴える。
「サラ。いい子だから黙ってそこで見ておいで。彼は自分の身の保身のために、周囲に嘘を吐いてきた人種だ。いわば、スパイの片棒を担いでいた奴だ。そんな奴を信用し、サラが親身になって助けてやる必要はないよ。彼が助けるだけの価値のある人間かどうかは、おれが判断する。君や、その背後にある財閥を、彼を助けたせいでみすみす窮地に陥らせるわけにはいかないからね」
青年は振り返りもせずに答える。
それには姉もレインも返す言葉がなかった。
二人して黙り込む。
オルグは乾いた笑みを浮かべる。
「財閥副総帥のアレクセイ様は、ずいぶんと用心深い方なのですね。ぼく一人を助けたところで、財閥の地位は決して揺らがないと思われますが」
「決して揺るがないものなど、この世界にはないとおれは思ってるよ? イストア出身の頭の良い君が、今の国の現状を知らないとも思えないがね。どんな小さな失態からでも、盤石に思われた組織がいともたやすく壊れてしまうことは多いからね。さて、君は北軍と南軍のどちら側のスパイなのかな?」
オルグと青年は睨み合ったまま、握手を交わしている。
レインは姉に小声で話しかける。
「お姉さん、北軍と南軍って?」
姉は同じように小声で返す。
「現在、聖イストア皇国の国政を取り仕切っている皇帝陛下の背後にいる二つの派閥のことです。北の軍務大臣を中心とした北軍、南の国務大臣を中心とした南軍、と一般的には呼ばれています。北軍と南軍は、それぞれの思想や政策が違うので、常に対立している状態です。北軍は主に外征を主張し、南軍は支配した地域の安定を第一だと考えています。兄さまは、オルグさんがどちらの軍に所属しているのか、それを知ろうとしているのだと思います。それはどちらの軍に所属しているかによって、どの人物と掛け合うかが変わって来るからです。オルグさんを助けるには、それぞれの上の人物に掛け合わなければなりませんから」
「そ、そうなんだ」
自国の政治経済でさえあまり詳しくないレインにとって、自国とは言え、政治の情勢をよどみなく答える姉に驚かされる。