五章十一話目
二人の会話を聞きつつ、弟は呆れかえっているようだった。
「守り手がいれば、スパイ一人相手なら、よっぽど大丈夫だろう。問題は複数人に一度に襲われた時だけれど」
弟はあごに手を当てて考え込む。
「ノートゥン元枢機卿、イヴン先生、それに対する対抗策は、既に講じてあるんですよね? まさかイストアのスパイを野放しにはしていないのでしょうから」
その問いに、ノートゥン先生はすぐには答えなかった。
『まあ、のう。そうしたいのは、山々なんじゃが。何分いま人手が足りなくてのう』
ノートゥン先生は申し訳なさそうに言う。
イヴン先生がマース語に通訳し、すかさず言い添える。
「お前の昔のつてで、何とかならないか。こちらもあちこちに人を出して手いっぱいなんだ。お前なら何とかなるのだろう?」
イヴン先生に問い掛けられ、弟の方が黙り込む。
「組織の人間に声を掛ければ人を集めることは、出来ないこともないけど。でもその場合、仕事料が高くつくけど、その点は大丈夫なんですか?」
弟は眉を寄せ、イヴン先生を見る。
イヴン先生はぐっと言葉に詰まる。
二人のやり取りを見守っているレインとリシェンは互いに顔を見合わせる。
レインとリシェンにとっては、二人の話はちんぷんかんぷんだった。
『まあ、その話は後ほどにして』
ノートゥン先生はおほんと咳払いをする。
『今できる範囲のことをするべきではないのかね、イヴン大司祭』
「そうでしたね」
イヴン先生は額に手を置いて溜息を吐く。
弟は肩をすくめる。
「イストアでも、現在政治上で様々な勢力が入り乱れているからね。イストアのスパイと一口に言っても、どの勢力に属するスパイかがわからなければ、その素性を特定することは難しい。けれど、生徒たちの素性を洗っていて、何となくこいつを狙っている奴の目星は付いてはいるけれど」
『そ、それは誰じゃ?』「それは誰なんだ?」
ノートゥン先生とイヴン先生が同時に身を乗り出す。
テーブルにもたれかかっていた弟は目を丸くする。
「スミルノフ君は、イストアのスパイが誰かわかるの?」
レインとリシェンもそろって振り返る。
弟はばつが悪そうにそっぽを向く。
「それは、ここでは言えない」
『ど、どうしてじゃ?』
「我々に言えない誰かなのか?」
ノートゥン先生とイヴン先生に問われて、弟はちらりとレインを見る。
「先生達になら話しても大丈夫だけれど。他の二人は、スパイの素性を知らない方がいい。きっとまともに顔に出てしまうから。嘘を吐けないだろうから」
「ど、どうしてさ」
レインが尋ねる。
弟はむっつりと不機嫌な顔でレインを見る。
「じゃあ聞くけど、お前は嘘が吐けるのか? 見るからに人の良いお前が、隠し事なんて出来るのか? スパイと言っても、相手はこの学校に入り込んだ怪しい部外者、という訳ではないんだ。このジョゼ神学校で情報を集めるために、怪しまれない素性を持って入り込んでいる。僕たちと同じ生徒かもしれないし、先生達のよく知る同僚かもしれない。お前はその相手と会って、平静でいられるのか? 自分を狙っている相手と一緒に同じ授業を受けられるのか?」
問い詰められてレインは返答に困る。
「じゃ、じゃあ、スミルノフ君は、嘘を吐けるって言うのかい?」
レインはむっとして尋ねる。
弟は淡々と答える。
「必要ならば、嘘も吐くさ。必要ならば、どんな親しい相手でも敵に回さなくてはならない時もある」
言ってから、辛そうな顔をする。
「たとえ、相手が肉親だろうと家族だろうと。人は疑ってかかるべきものだと、僕はずっと教えられてきた」
触れてはいけないことだった、とレインは感じた。
「ごめん、スミルノフ君」
「別にいいさ。人には得手不得手がある。嘘なんて吐く必要がないのなら、吐かない方がいい」
レインは弟が自分とリシェンを気遣ってくれたのだとわかった。
「リシェン、もう話は終わりみたいだから、行こう」
椅子から立ち上がる。
リシェンも話の後半の方がよくわからないようだった。
けれど、レインと弟とのやり取りを見て、事情を察したようだ。
レインにつられて立ち上がる。
「ノートゥン先生、イヴン先生、ありがとうございました」
レインは二人に向けて頭を下げる。
それから弟を見る。
「スミルノフ君も、また教室で」
レインは弟に手を振る。
「失礼シマシタ」
リシェンもぎこちなく言って、頭を下げる。
連れ立って二人は部屋から出ていく。
扉が閉まってから、ノートゥン先生は溜息を吐く。
「現段階で、レイン・アマナギには話せないことが多すぎるのう」
イヴン先生が腕組みをして応じる。
「それは、そうでしょう。あの方に口止めされているのですから。危ないことに巻き込みたくないあの方の心境はお察しいたしますが」
「だからと言って、これ以上隠し立てしておくのものう。レイン・アマナギはリタ・ミラに選ばれてしまったのだから、遅かれ早かれ真実を知っていくことじゃろう」
「それを少しでも遅らせたいと、あの方はお思いです。孫を思う気持ちとしては、自然なことだと思います」
「儂は家族を持ったことがないので、よくはわからないがのう。そんなものなのか」
「きっとそうなのでしょう。私にも妻や子どもは、まだいませんが」
先生達の会話を聞きながら、弟は椅子にどっかりと座る。
背もたれにもたれ、足を組む。
「でも、甘やかし過ぎるのも、問題だと思う。あいつも、姉さんと同じように人が良すぎるところがある。そんなんじゃ、悪い奴に良いように利用されるに決まってる。特に、あいつとか」
弟はある男のにやけた顔を思い浮かべ、額に青筋を立てる。
椅子を蹴り飛ばし、勢いよく立ち上がる。
「やっぱり、今からでも僕は姉さんの後を追います。イストア側に指定された場所を教えてください」
憤怒の表情を浮かべ、拳を握りしめる。
「お、落ち着け、スミルノフ。今回の交渉にはカルロやエレナ、デイヴィッドが同行している。だから、大丈夫だ」
イヴン先生は何とか弟の怒りをなだめようとする。
まさか今回のイストアとの交渉を取り持ってもらう条件の一つに、弟を同行させないことが含まれているとは、口が裂けても言えないイヴン先生だった。
「イストアとの国境沿いの街だから、数日すればきっと帰って来るだろう。だから今はここで待っていてくれ。きっとスミリャスカもすぐに戻ってくるつもりで、交渉に応じたのだろうから。お互い行き違いになったら大変だろう?」
弟は何も言わずにイヴン先生を睨んでいる。
「わかりました」