五章六話目
弟はぽつりとつぶやく。
「え?」
それにはレインだけでなく、シェーラ先生も驚いた顔をする。
「姉さんはあいつにそそのかされて、イストアに行ったっきり、戻って来ないかもしれない」
「それは、どういうことなの?」
シェーラ先生は戸惑う。
レインも事情が分からず、立ち尽くしている弟と座っているシェーラ先生の顔を交互に見比べている。
「あいつは、姉さんの立場を自分のために利用しようと考えている。たしかに一時期は、姉さんもあいつのために財閥をまとめるために、婚約者として一緒に表舞台に立っていたこともある。けれど、それは一時期の間だけだ。財閥の権力争いが落ち着いた後は、姉さんも僕も、こうしてラスティエまで亡命して、ひっそりと暮らしている。あいつとも、財閥とも、無関係な生活を送っている。だから、突然姉さんがあいつに呼び出されるなんておかしいと思ったんだ。あいつはラスティエにいる姉さんの居場所を調べ上げ、連絡を取った。あいつが姉さんをイストアに連れ戻そうとしていることは明らかだ」
弟は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「でも、ラスティエとしてはそっちの方が都合がいいのかもしれない。イストアとのパイプ役が出来るという点では、有利かもしれない。財閥に戻っても、姉さんはラスティエで受けた恩を忘れないだろうし、お互いの国のために動くと思うから。ああ見えて、姉さんは財閥内では人気があるんだよ? 事故で視力を失った薄幸の令嬢として、一時期は国内の新聞にも取り上げられていたから」
レインもシェーラ先生も弟の話を黙って聞いていた。
シェーラ先生の表情が曇る。
「でも、彼女が国内に戻るのを快く思わない人々もきっといると思うわ。注目されるということは、好意と同じだけの悪意も向けられると思わないと」
「それは、きっと姉さんもわかっていると思う。姉さんは自分のことより他人のことを優先するところがあるから。だから僕は姉さんがあいつにいいように利用されるんじゃないかと心配しているんだ」
そこでふと疑問に思ったことがあった。
気になったレインは弟に尋ねる。
「ねえ、スミルノフ君。もしもお姉さんがイストアに帰ったら、スミルノフ君はどうするの? この学校に残るの?」
弟の返答はすぐに返って来る。
「そんなの決まってるだろ? もちろん姉さんの後を追うよ。僕は姉さんから受けた恩を返し切れていない。それにあんな奴を義兄さんとは認めたくない。あいつが姉さんに手を出すのを、絶対に阻止してやる!」
途端に弟の目の色が変わる。
レインは弟の怒りの気配に後ずさる。
そんな時、医務室の扉が勢いよく開かれる。
「シェーラ先生!」
女生徒が息を切らして駆けこんでくる。
それはレインと同じクラスのナンナだった。
てっきりリシェンと一緒にいると思っていたレインは面食らう。
「あらあら、ナンナさん。どうしたの?」
ナンナは血相を変えてシェーラ先生に訴える。
「リシェンさんが、リシェンさんが校庭に竜を連れて来て。それで」
「竜?」
シェーラ先生は医務室の窓を見る。
何か言う前に弟が走り寄り、窓を開ける。
校庭に面した窓の外には、生徒たちの人だかりが見える。
皆空を見上げ、騒いでいる。
「校庭の上空を竜が飛んでいるな。白い竜だ」
弟が窓から空を見上げ、目を細める。
「え? どこ?」
つられてレインも窓に寄る。
空を見上げると、翼を広げた白竜が気持ちよさそうに飛んでいる。
「本当だ。竜だ」
レインがそうつぶやくと、リタ・ミラの種が興奮したように言う。
――りしぇん、さらい、だよ。きもちよさそう。
祈りの言葉も必要とせず、リタ・ミラの種のその一言で法術が発動される。
レインの体がふわりと浮き上がり、空に引っ張られる。
「へ?」
開け放たれた窓から飛び出していく。
「レイン君?」
シェーラ先生が手を伸ばしたが、レインは医務室の窓を越え、空を旋回する白い竜に向かって飛んで行く。
「うわわわぁぁぁ!」
レインは驚いて手足をばたつかせたが、彼自身に制御できるものではなかった。
「あの馬鹿」
弟がそんなレインを見て、舌打ちするのが聞こえてくる。
生徒たちが驚いて見上げる中、レインはサライの飛んでいる高さまで浮かび上がる。
旋回するサライと並ぶ。
サライの背にまたがり手綱を握っているリシェンがレインに気付き微笑む。
「レイン、風キモチイイ。サライ、風キモチイイと言ってる」
片言のマース語で話しかける。
レインは飛行の法術の制御が出来ていない。
焦りながらもうなずく。
「う、うん、気持ちいいね。今日は晴れていて、風も穏やかだから」
レインが白竜のサライについて飛んでいると、リシェンがまたがっている背中のすぐ後ろを叩く。
「レイン、ウシロ座る?」
「え?」
一緒に飛んでいたサライが同意するように鳴き声を上げる。
――れいん、すわろう。さらい、れいんがすわっても、だいじょうぶ、といってる。
「そ、そう?」
それならば大丈夫だろうか、とレインは考える。
リタ・ミラの種の制御の下、サライの背にそろそろと近付く。
白竜サライの鱗だらけのごつごつした背に座る。
ふっと体が重くなり、リタ・ミラの種が法術を解いたのがわかった。
リシェンの後ろに座り、眼前に広がる空を見上げる。
――そう言えば、アンリさんの時も、こうして竜の背に乗ったんだよな。
レインはアンリたちのことを思い出す。
アンリたちがどのような仕事をしているのか聞いたことはなかったが、実の娘とは会えない何らかの理由があるのだと察する。
――アンリさんも、リシェンに会いたいよね。
レインは長らく会っていない故郷にいる父親のことを思い出す。
ジョゼ神学校ではほとんどの生徒が寮生で、家族から離れて暮らしている。
家族と会えるのは一年に何度かの長期間の休みの間だけで、寮母や寮父や先生たちが学生たちの親代わりだった。
――リシェンは故郷を一人で離れて、僕なんかの守り手で、本当にいいのかなあ。
そんな気持ちがレインの頭をよぎる。
考え込んでいるレインとは対照的に、リシェンはうれしそうに笑っている。
「レイン、鳥」
リシェンが前方を指さす。
見ると空に溶け込むような水色の鳥が群れとなって空を滑っている。
「アマイトツムギドリだ」
レインは目をしばたたかせる。