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第48話 地図にない景色

アーデルの冒険者ギルドでは、朝から数人の職員が地図を囲んでいた。


前日に帰還した冒険者五名の報告を受け、グランデル山脈への調査が決まっている。問題は、どこまで踏み込めるかだった。


「ここから先が通れない、と」


上席の担当者が地図に引かれた線を指でなぞる。隣の職員は、五人から聞き取った内容を読み上げた。


「はい。山道は大きく崩れ、途中から別の尾根へ迂回したそうです。戦闘があった付近では、落石や地割れも確認されています」


「そちらは分かった。ほかの道への影響は?」


「まだ確認できていません」


担当者は地図から顔を上げた。


「なら、まず人が通れるかどうかだな。危険なら入口で止める。奥の遺跡まで調べる必要はない」


「分かりました」


「崩落した場所へ無理に近づくな、とも伝えてくれ。調査員まで遭難したら何の意味もない」


ほどなく、山歩きに慣れた職員と案内役を含む調査隊が出発した。地図、方位を確かめる道具、記録用の紙、それに数日分の食料。特別な魔物討伐を行う装備ではなく、通れなくなった道を調べるための支度だった。


「……山道が崩れただけなら、迂回路を確認すれば済むんだがな」


先頭を歩く案内役が言った。


その言葉に、地図を持つ調査員も頷いた。


「落石が続いているなら、近づくのはやめましょう」


「ああ。あの辺りは岩場が多い。無理はするなよ」


彼らはまだ、五人が見たものと、自分たちがこれから見るものが同じ範囲だと思っていた。


◇


山へ入ってしばらくは、目立った変化はなかった。


細い山道にはところどころ石が転がっていたものの、歩けないほどではない。遠くの山肌には茶色く崩れた部分も見えるが、この辺りでは珍しい光景ではなかった。


「これなら、途中までは通れそうですね」


「まあ、山の様子は奥へ行かないと分からん」


案内役はそう答え、足元の石を避けながら歩き続けた。


やがて、道の脇に落ちている岩の数が増え始める。拳ほどの石に混じって、両腕でも抱えられそうにない岩塊が転がっていた。近くの木は根元から傾き、地面には新しい亀裂が走っている。


「……ずいぶん派手に崩れたな」


調査員が地面へしゃがみ込み、亀裂の奥を覗いた。


「ここはまだ歩けます。でも、荷車は無理でしょうね」


「もともと荷車が通れるような道じゃないぞ」


「それはそうですけど」


案内役は小さく笑ったが、すぐに真顔に戻った。少し先で、道を横切るように斜面が崩れていたからだ。


調査員たちは足を止めた。崩れた土砂は山道を埋め、反対側まで乗り越えられるかも分からない。しかも上の方には、今にも落ちてきそうな岩が残っている。


「五人が言っていたのは、ここでしょうか」


「いや、もっと奥だ。報告にある分岐はまだ先のはずだ」


「……じゃあ、ここも別に崩れているんですね」


「そうなるな」


地図を持つ調査員は、一つ目の印を書き込んだ。


しばらく様子を確認してから、彼らは危険な斜面を避けて上の尾根へ回った。そこなら少し遠回りにはなるが、足場は比較的安定している。


ただ、尾根へ近づくにつれて、周囲の木々の様子が変わっていった。折れた枝があちこちに散らばり、幹の表面が黒く焼けている木もある。倒木は一本や二本ではなかった。


「……火事でもあったんでしょうか」


「山火事なら、もう少し燃え方が違うと思うんだが」


案内役は、葉をほとんど失った木を見上げた。幹は残っているのに、山の奥へ向いた側だけがひどく傷んでいる。その隣では、大木が根ごと地面から引き抜かれ、横倒しになっていた。


「風か……?」


「ここまで木を倒す風なんて、そうありませんよ」


「そうだな」


二人はそれ以上言葉を交わさず、尾根へ続く斜面を登った。


◇


尾根の上に出たところで、先頭の案内役が立ち止まった。


「……おい」


後ろの調査員が顔を上げる。


「どうしました?」


案内役は答えなかった。目の前に広がる山々を、ただ見つめている。


調査員もその隣へ出た。


そして、足を止めた。


眼下に広がっていたのは、見慣れたグランデル山脈ではなかった。


手前の山腹は、巨大な何かに削り取られたかのように深く抉れていた。剥き出しになった岩盤には無数の亀裂が走り、崩れ落ちた岩石が谷底を埋め尽くしている。谷を挟んだ向かい側の斜面からは、森林がほとんど消えていた。


それだけではない。


さらに奥の山でも、尾根の形が変わっていた。稜線の途中が大きく欠け、その下には砕けた岩が何段にも積み重なっている。山肌の広い範囲が黒く変色し、そこから外側へ向かって、倒れた木々が帯のように続いていた。


調査員は地図を開いた。


地図には、二つの尾根の間を通る山道が描かれている。その先で谷を回り込み、さらに奥へ続く道だ。


しかし、肝心の谷の形が違っていた。尾根の一部はなくなり、以前なら向こう側を見通せなかったはずの場所から、さらに奥の山肌まで見えている。


「……ここに、尾根がありますよね?」


調査員が地図の一点を指した。


「ああ」


「この先へ回り込むはずなんですけど……」


「分かってる」


案内役は、地図から目を離さずに答えた。


「俺はここを何度も歩いてる。あそこには、もっと高い岩壁があった」


調査員は顔を上げた。


「じゃあ……」


「なくなってるんだよ」


二人はしばらく黙っていた。


冷たい山風が吹き抜けた。足元では枯れた草が揺れているのに、谷の向こうには葉を残した木がほとんどない。黒い山肌は見渡す限り続き、その先は別の尾根に遮られていた。


「……山道が崩れたっていう報告でしたよね」


「ああ」


「道だけじゃ、ないですよね」


「……ないな」


案内役はようやく地図を畳んだ。


「山が変わってる」


◇


調査隊はその尾根から、見える範囲の被害を記録し始めた。


斜面の崩壊だけなら、雨や地震でも起こり得る。しかし、向かいの山腹には大きな亀裂が幾筋も走り、その周囲の木々は揃って倒れている。さらに離れた場所では、木の幹が焼けたまま立っていた。


「ここから見えるだけでも、かなり広いですね」


調査員が遠くの山を指さした。


「向こうの斜面も黒くなっています。あれも同じ時に?」


「分からん。だが、少なくともあの辺りまで何かが起きている」


「……どこまで続いているんでしょう」


案内役は答えず、少し高い岩の上へ移動した。そこからは、折り重なる尾根の間に、さらに別の谷が見えた。


谷底には土砂がたまり、以前は見えていた細い水の流れが確認できない。流れそのものが失われたのか、岩の下を通っているのかは、ここからでは分からなかった。


「谷も埋まっているぞ」


「……あんなところまで?」


「雨が降れば、あの土砂はまた動くかもしれん。今すぐ下へ入るのは危ないな」


調査員は頷き、地図に印を付けた。その印の数は、最初に想定していた山道の崩落箇所をはるかに超えていた。


「報告では、あの魔族は大きな斧を使ったとありましたね」


「ああ。もう一人の魔族や、巨大な存在とも戦っていたらしい」


「……これを、戦闘で?」


「それも、まだ確かめようがない。ここへ来た時には、もうこうなっていたんだからな」


案内役は焼けた斜面へ視線を戻した。


「だが、少なくとも『山道が崩れた』という部分は、間違いじゃなかった」


調査員は五人の報告書を思い出した。彼らが示したのは、通れなくなった道と、迂回する際に危険だった箇所だ。実際に歩いて確かめた場所を中心に説明していたのだから、当然と言えば当然だった。


「……見たところしか報告できませんよね」


「ああ。あの中を歩いて帰ったんだろう。こんな遠くの尾根まで調べに来る余裕はないさ」


調査員は改めて、眼下の山々を見渡した。


五人が通った道は、この広い被害の中の一本に過ぎなかった。道が崩れたという報告が小さな話に思えるほど、周囲の山々は変わり果てている。


「……私たちも、全部は調べられませんね」


「今日の人数じゃ無理だ。危険な場所も多すぎる」


「どうします?」


「戻って報告する。通行止めにできるところは先に止めないとな」


案内役は地図を指さした。


「迂回路を探すつもりで来たが、まず山のどこが安全なのか調べ直さないといけない」


調査員は静かに頷いた。


彼らは日が傾く前に安全な場所まで戻ることにした。山の奥に残された破壊の全容は、まだ見えない。だが、今回の調査だけで終わらないことは分かっていた。


◇


その頃、アーデルの宿では、エイルたちが遅めの朝食を取っていた。


前日はギルドへの報告を終えたあと、宿に戻って休んだ。十分に眠ったはずなのに、ロディオは椅子へ深くもたれかかっている。


「……今日くらい、本当に何もしなくていいよな?」


「昨日も同じこと言ってたぞ」


エイルが答えると、ロディオは真顔で頷いた。


「昨日はギルドに行った。だから休みじゃない」


「……まあ、それはそうだな」


「今日こそ休みだ」


クラウスは笑いながら、水の入った杯を置いた。


「たまにはいいんじゃないかな。みんな疲れてるし」


「そうそう。クラウスは分かってる」


ロディオは満足そうにパンをちぎった。


メルディアは席についていたが、あまり食事に手を付けていなかった。窓の外へ目を向け、ときどき何かを考え込んでいる。


「メルディア、食べないの?」


ルシエラが尋ねると、メルディアは顔を戻した。


「……食べるよ」


そう答えて、ようやくパンを手に取った。


「山のこと、考えてた?」


「……うん」


メルディアは少し間を置いた。


「グランのお墓、ちゃんと残ってるかな」


エイルたちは顔を見合わせた。墓は岩を積んで作った小さなものだ。あの場所では、今後も落石や崩落が起きるかもしれない。


「……分からないな」


エイルは正直に答えた。


「でも、今すぐ確かめに行くのは危ないと思う」


「うん。分かってる」


メルディアは頷いた。無理に戻ろうと言い出すことはなかったが、表情は少し寂しそうだった。


ロディオはしばらく黙っていたものの、やがて口を開いた。


「……俺が見つけた道も、次に通れるとは限らないからな」


「そうなの?」


ルシエラが尋ねる。


「斜面がかなり緩んでた。戻るなら、また道を探し直さないと」


「……そっか」


メルディアは小さく呟いた。


クラウスが、彼女の前にある皿を見た。


「まずはちゃんと食べよう。身体を休めてからでも、できることはあると思う」


「……うん」


メルディアは今度こそ、パンをひと口食べた。


窓の外では、いつもどおり町の人々が行き交っていた。五人はまだ、自分たちが歩いてきた山道の向こうで、どれほど広い土地が姿を変えていたのか知らなかった。


◇


調査隊がアーデルへ戻ったのは、出発から数日後のことだった。


ギルドの上席担当者は、差し出された地図を見て眉を寄せた。


「……印が多すぎないか?」


「見えた範囲だけです」


「見えた範囲?」


「はい。危険で近づけなかった場所もあります。奥の尾根の向こうは、まだ確認できていません」


担当者は地図を広げ直した。冒険者五人が報告した山道には、確かに崩落の印が付いている。しかし、調査隊が書き足した印はそこに留まらず、谷を越え、複数の山腹へと広がっていた。


「……何が起きたんだ、これは」


「分かりません」


調査員は、見たものを順番に説明した。削り取られた岩壁、形の変わった尾根、埋まった谷、広い範囲で倒れた木々。そして、山の向こうまで続いていた黒い斜面。


担当者は途中から口を挟まなくなった。


「これが本当なら、道を直すどころの話ではないぞ」


ようやく出てきた言葉に、調査員も頷いた。


「ええ。どこを通せば安全なのか、今の地図では判断できません」


「……新しく道を作るにしても、まず地形を調べ直す必要があるな」


担当者はしばらく考え、地図に付いた印を見つめた。


「入山の注意だけじゃ足りん。問題のある経路は当面通行止めにしよう。すでに山へ入っている者がいないかも確認してくれ」


「分かりました」


「調査も追加だ。ほかの尾根から見られる場所があれば、そこを調べる。危険な谷には入らせるな」


指示を受けた職員が退出すると、担当者は五人から受け取った報告書を机に並べた。


そこには、巨大な存在と魔族との戦闘、山道の崩壊、そして魔族の死亡と蘇生について記されている。


「……大げさな話だと思っていたわけじゃないが」


担当者が呟いた。


「むしろ、あの五人は控えめに報告していたことになりますね」


「見えていなかったんだろう。周囲があの状態なら、無理もない」


担当者は書類の一枚を手に取った。


ディモス。


ロザリア。


二人の魔族の名前がそこに記されていた。


調査で確認できたのは、山脈の広い範囲が破壊されているという事実だけだ。それをどちらの魔族がどのように引き起こしたのか、現場に残る痕跡だけでは分からない。しかし、五人が遭遇した相手が非常に危険だったということは、被害の大きさからも十分にうかがえた。


「軍へ送る報告にも、今回の調査結果を添えよう」


「はい」


「ただし、原因は決めつけるな。現地で確認したものと、冒険者たちの証言は分けて書いてくれ」


「承知しました」


担当者は、地図の端に残った空白を見た。


調査員が確認できなかった部分だ。その向こうにも、被害が続いている可能性がある。


「……これ、まだ全体が分かっていないんだな」


「はい」


「そうか……」


担当者は椅子にもたれ、しばらく天井を見上げた。


「山道の調査を頼んだつもりだったんだがな」


職員は何と答えればよいか分からなかった。


机の上には、調査前の地図が一枚。その隣には、破壊された範囲を示す印で埋め尽くされた地図が置かれている。


同じ山脈を描いたはずの二枚は、もはや同じ景色を表していなかった。


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