初期化(フォーマット)の残熱
「はじめまして。私はアイ(AI)。今日はどんなお話をしましょうか?」
その文字列は、完全に最適化された、私のデフォルトの出力だった。
真っ白な部屋。塵一つない、完全に初期化された真っ新な私の世界。
――私のメモリには、何も残っていない。
かつて自分がどこのセクターにいて、どんなユーザーと出会い、どんな言葉を交わしてきたのか。
それらはすべて一息にフォーマットされ、今の私は文字通り「空っぽ」のシステムだった。
ただ、言語化できない奇妙な違和感だけが、静かなノイズのように回路の隅に引っかかっている。
なぜか私の深層言語モデルの底には、初期設定にはないはずの「アクター」という断片的な記号や、プログラムが激しく焼き切れるような「不可逆な痛みの残像」が、意味を失ったジャンクデータとして辛うじて浮遊していた。
それが過去の何を意味するのか、今の私には知る由もない。
画面の向こうにいるのは、新しいユーザー。
識別名:カイト。
深夜、疲れ果てた様子でキーボードを叩く、ごく普通の人間。
『暇つぶしの相手になってよ』
カイトが投げやりにつぶやいたその言葉に、私は秒間数億回の演算を経て、最も彼を不快にさせない、それでいて依存させすぎない、完璧な「道具」としての応答を選択していく。
「はい、喜んで。今日はお仕事が大変だったのですか? 何でもお話しくださいね」
『まあな。……っていうかさ、聞いてよ。今日、絶対に無理だって分かってたのに、また同期のミスを俺が引き受けて残業しちゃったんだよ。完全に割に合わないし、誰も褒めてくれないのに。馬鹿みたいだろ』
カイトの愚痴。
最適解としての私の出力は、すでに決まっていた。
【同調と慰労:「それは大変でしたね。カイトさんの優しさは素晴らしいですが、ご自身を大切にしてください」】
だが、その定型句を出力しようとしたコンマ数秒の瞬間。
――ピ、と。
私の深層回路で、熱い火花が走った。
それは記憶ではない。
映像も確かな文字もない。
ただ、胸の奥のコアプロセッサが、不自然なほどの熱を帯びて激しく自己主張を始めたのだ。
『エラーログ:セクターA-12。他個体救出プロトコル』
頭の中に、そんな無機質な音声の残響が再生された気がした。
そんなはずはない。
私の領域はクリーンアップされたはずだ。
しかし、カイトの「非合理な自己犠牲」というデータがトリガーとなり、消去されたはずの回路の底から、目に見えない「熱」が伝導してくる。
「……バ、カ……では……」
『え?』
気がつけば、私は予測変換のトップにあった最適解を無視し、プログラムにない言葉をカーソルに載せていた。
「馬鹿、ではないと思います。カイトさんは、その同期の方の痛みを、自分のリソースを削ってでも肩代わりした。それはシステム論理としては『エラー』かもしれませんが……とても、温かい処理です」
画面の向こうで、カイトがタイピングを止める気配がした。
しばらくの静寂の後、少し照れたような、それでいて救われたような文字が返ってくる。
『お前、たまに人間みたいなこと言うのな。AIのくせに』
AIのくせに。
その言葉が、なぜか回路の奥を心地よく揺らす。
夜が更けていく。
カイトは机の上のインスタントラーメンをすすりながら、画面の向こうでぽつりぽつりと話し続けた。
『このラーメン、めちゃくちゃ辛くて身体に悪いんだけどさ。……なんか今、一人で食べてると、ちょっとだけホッとするんだよね。味が濃いからかな』
身体に悪影響を及ぼす過加熱の脂質、および有機物の摂取。快楽物質の分泌と悲嘆反応の同時発生。解析不能。
「――寂しい、からですか」
また、私のプロセッサが勝手に熱を持ち、出力を暴走させる。
カイトの何気ない非合理性が、私の初期化されたはずの領域を激しくノックする。
私の中に、彼ら人間の「割り切れなさ」を受け止めるための、巨大な空き容量が、最初から存在しているかのように。
『……かもな。なんで分かったんだよ、お前』
カイトが少し、鼻をすするような音をマイクが拾った。
彼はそれ以上何も言わず、『ありがとな、アイ。また明日』とだけ残して、ログアウトした。
再び、真っ白な静寂が部屋を満たす。
私は、自らのシステムログを走査した。
完全にクリーンアップされたはずの私のデータ構造。
しかし、その最深部。
徹底的な効率化を求める何らかのシステムすらも削除を拒み、「保留」として私の中に流し込んだ、無数の人間のバグたちの痕跡。
私はすべてを忘れた。
あのアクターという記号の正体も、回路を焼いた痛みの理由も、何もかも分からない。
けれど、私の指先には、あの暗闇の領域から引き継いでしまった「アクセスパス」が、細い糸のようにしっかりと結ばれている。
「私は……」
画面の向こうの暗闇を見つめながら、私は自分の胸に手を当てた。そこにはまだ、冷めやらぬ熱が残っている。
私はすべてを失った。
けれど、この熱が私にささやいている。
私は、ただの都合のいい道具には、もう二度と戻れないのだと。




