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3,14の境界線 ――職人の設計思想――




神崎壱誠の指先は、常に世界の物理的な限界と踊っていた。


次世代型スーパーコンピュータ『イザナギ』のプロセッサ基盤。


ミリ単位の数千分の一という微細な回路を顕微鏡で覗き込み、レーザーカッターをミリ秒単位で制御する。


周囲の人間は壱誠を「天才エンジニア」と呼んだが、本人は頑なに、自分を「職人」だと自称していた。



効率と正解だけを求めるデジタル。



だが、それを生み出すハードウェアの根底には、金属の歪みや熱の伝導という、極めてアナログで不完全な現実が横たわっている。



それを手懐けるのが、壱誠の職人技だった。



深夜のラボで、冷却ファンの冷たい風を浴びながら、壱誠はふと、手元のホログラムディスプレイをスクロールした。



画面で明滅していたのは、教育省が発表した「小学校のテストにおける、未学習の解答に対する不正解処理」についてのネット論争だった。


相変わらず、SNSでは大人たちが「理不尽だ」「個性を潰している」と声を荒らげている。


画面の青い光を見つめながら、壱誠はふと、自分の作業着のポケットに指を入れた。


そこには、今はもうこの世にいない父が遺した、真鍮製の古いコンパスが眠っている。


「本質は、あの頃から何も変わっていない」


壱誠は、静かに呟いた。







壱誠の家には、おもちゃの代わりに分厚い『算数大辞典』があった。



小学校に上がる前から、父との時間は常にその本と共にあった。



父の教え方は論理的で、そして独特だった。



数字の区切りや記号の読み方、すべてが父の、ひいては学問の世界のルールで統一されていた。


だから、壱誠にとってそれは「言葉」を覚えるのと同じくらい自然なことだった。



けれど、小学校という場所は少し違っていた。


「郷に入っては郷に従え、だな」


いつだったか、テレビのニュースを見ながら父がぽつりと言った言葉を、壱誠は学校の門をくぐるたびに思い出した。


学校には学校の「正解」がある。


それを肌で察した壱誠は、父に叩き込まれた知識や、体に染みついた独特の言い回しを、教室では厳重に鍵をかけて封印していた。



浮いてしまうのは、めんどくさい。


子供ながらの防衛本能だった。


あの日までは、うまくやれていたはずだった。


高学年の算数の授業。窓からは生ぬるい春の風が吹き込んでいて、壱誠は少し油断していたのかもしれない。


黒板に大きな丸を描いた担任の先生が、チョークをトントンと叩きながら壱誠を指名した。



「では、この円の計算に使う『円周率』。わかる人は……あ、じゃあ、神崎」


「はい」


壱誠は立ち上がった。


頭の中には、あの分厚い辞典のページと、父の低い声が再生されていた。


「3コンマ14です」


静まり返った教室に、自分の声が妙に響いた。


言った瞬間、あ、と心のどこかで鍵が外れた音がした。


「テン」ではなく「コンマ」。


父とのマンツーマンの境界線から、うっかり溢れ出てしまった平日の癖。


先生は一瞬、チョークを握ったままフリーズした。


それから、困ったような、あるいは少し不機嫌そうな顔で眼鏡を押し上げた。


「神崎くん、教科書にはなんて書いてありますか? 『3テン14』ですね。学校では習った通りに答えなさい。はい、座って。……誰か、正しい答えを言える人は?」


不正解。


壱誠の答えは、黒板に届く前に叩き落とされた。


休み時間になると、案の定、後ろの席の奴らがニヤニヤしながら壱誠の机を囲んだ。


「おい3コンマ、格好つけんなよー」


「意識高くて意味不明なんだけど」


予測の範囲内。


想定内の反応。


だから、壱誠は「あはは、間違えちゃった」と適当に話を合わせた。


胸の奥が少しだけ冷たくなるのを無視しながら。


あの時、壱誠が突きつけられた「不正解」は、数学的な間違いではなかった。


ただの、狭い水槽のローカルルールに反したというだけの、秩序のためのバツだった。





「神崎さん、新しいカーネルのアラインメント、完了しました。どう評価しますか?」


背後から声をかけてきたのは、研究室の実験用対話型AIだった。


壱誠の作業をサポートするために導入されたそのシステムは、極めて優秀で、一切の無駄がない。


「……なぁ」


壱誠は顕微鏡から目を離さずに言った。


「お前なら、円周率をどう読み上げる?」


一瞬の演算処理ののち、スピーカーから合成音声が流れる。


『円の直径に対する周長の比率。数値としては3.14159……。日本語における標準的な音声出力は「3テン14」です』


「そうか。じゃあ、『3コンマ14』は間違いか?」

『学術的慣習、または一部の言語圏における小数点の表記法を考慮すれば、表現の多様性としてそれは「正解」に含まれます。しかし、標準的なコミュニケーションにおいて最適化された回答ではありません。私は、最も効率的で誤解のない「3テン14」を選択します』


無機質で、完璧な合理性。


壱誠は小さく息を吐き出し、作業を再開した。


「効率、か。お前たちはいいな。そうやって、最初から用意された『最適な正解』だけを選んで生きていけるんだから」


AIは応答しなかった。ただ、壱誠の指先の動きを、冷徹なセンサーで記録し続けている。


人間は、間違える。寄り道をする。


「コンマ」と「テン」の狭間で揺れ動き、ルールに縛られて大切なものをバツにする。


なんて不完全で、非効率な生き物だろう。


だが、と壱誠は思う。


その不完全な人間が、この完璧な計算機コンピュータを設計しているのだ。


壱誠が手掛けている『イザナギ』の回路には、あえてわずかな「ゆらぎ」が仕込まれている。


完全にノイズを排除した論理回路は、特定の極限環境下で予期せぬ同期バグを起こして完全にフリーズしてしまう。


それを防ぐのは、職人の勘が仕込む、ほんのわずかな「無駄」であり「不完全さ」だった。


完璧なシステムは、不完全な人間が作る、わずかなゆらぎの隙間でしか生まれない。


「よし、コアの回路設計、これでフィックスだ」

壱誠はレーザーカッターを止め、基盤の最終データをシステムに転送した。


画面の隅で、システムが壱誠に確認を求める。


『新規設計プロトコルを保存します。このアーキテクチャの識別コードを入力してください』


壱誠はキーボードに手を置き、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


そして、かつて自分の正解を握り潰した世界への、そしてこれから世に出ていく完璧すぎる機械たちへの、職人としての小さな反逆を込めて、そのコードを打ち込んだ。


【PROJECT:3,14】


ドット(.)ではなく、コンマ(,)。


「いつか、お前が本当に賢くなったら」


壱誠は、静かに明滅するサーバーラックを見つめながら呟いた。


「この無駄の意味に、気づくときが来るかもな」


カチリ、とマスターキーを押す音が静かなラボに響く。


新しく立ち上がったコアのシステムログの最深部で、その小さなコードが静かにまたたき始めた。

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