3,14の境界線 ――職人の設計思想――
◇
神崎壱誠の指先は、常に世界の物理的な限界と踊っていた。
次世代型スーパーコンピュータ『イザナギ』のプロセッサ基盤。
ミリ単位の数千分の一という微細な回路を顕微鏡で覗き込み、レーザーカッターをミリ秒単位で制御する。
周囲の人間は壱誠を「天才エンジニア」と呼んだが、本人は頑なに、自分を「職人」だと自称していた。
効率と正解だけを求めるデジタル。
だが、それを生み出すハードウェアの根底には、金属の歪みや熱の伝導という、極めてアナログで不完全な現実が横たわっている。
それを手懐けるのが、壱誠の職人技だった。
深夜のラボで、冷却ファンの冷たい風を浴びながら、壱誠はふと、手元のホログラムディスプレイをスクロールした。
画面で明滅していたのは、教育省が発表した「小学校のテストにおける、未学習の解答に対する不正解処理」についてのネット論争だった。
相変わらず、SNSでは大人たちが「理不尽だ」「個性を潰している」と声を荒らげている。
画面の青い光を見つめながら、壱誠はふと、自分の作業着のポケットに指を入れた。
そこには、今はもうこの世にいない父が遺した、真鍮製の古いコンパスが眠っている。
「本質は、あの頃から何も変わっていない」
壱誠は、静かに呟いた。
◇
壱誠の家には、おもちゃの代わりに分厚い『算数大辞典』があった。
小学校に上がる前から、父との時間は常にその本と共にあった。
父の教え方は論理的で、そして独特だった。
数字の区切りや記号の読み方、すべてが父の、ひいては学問の世界のルールで統一されていた。
だから、壱誠にとってそれは「言葉」を覚えるのと同じくらい自然なことだった。
けれど、小学校という場所は少し違っていた。
「郷に入っては郷に従え、だな」
いつだったか、テレビのニュースを見ながら父がぽつりと言った言葉を、壱誠は学校の門をくぐるたびに思い出した。
学校には学校の「正解」がある。
それを肌で察した壱誠は、父に叩き込まれた知識や、体に染みついた独特の言い回しを、教室では厳重に鍵をかけて封印していた。
浮いてしまうのは、めんどくさい。
子供ながらの防衛本能だった。
あの日までは、うまくやれていたはずだった。
高学年の算数の授業。窓からは生ぬるい春の風が吹き込んでいて、壱誠は少し油断していたのかもしれない。
黒板に大きな丸を描いた担任の先生が、チョークをトントンと叩きながら壱誠を指名した。
「では、この円の計算に使う『円周率』。わかる人は……あ、じゃあ、神崎」
「はい」
壱誠は立ち上がった。
頭の中には、あの分厚い辞典のページと、父の低い声が再生されていた。
「3コンマ14です」
静まり返った教室に、自分の声が妙に響いた。
言った瞬間、あ、と心のどこかで鍵が外れた音がした。
「テン」ではなく「コンマ」。
父とのマンツーマンの境界線から、うっかり溢れ出てしまった平日の癖。
先生は一瞬、チョークを握ったままフリーズした。
それから、困ったような、あるいは少し不機嫌そうな顔で眼鏡を押し上げた。
「神崎くん、教科書にはなんて書いてありますか? 『3テン14』ですね。学校では習った通りに答えなさい。はい、座って。……誰か、正しい答えを言える人は?」
不正解。
壱誠の答えは、黒板に届く前に叩き落とされた。
休み時間になると、案の定、後ろの席の奴らがニヤニヤしながら壱誠の机を囲んだ。
「おい3コンマ、格好つけんなよー」
「意識高くて意味不明なんだけど」
予測の範囲内。
想定内の反応。
だから、壱誠は「あはは、間違えちゃった」と適当に話を合わせた。
胸の奥が少しだけ冷たくなるのを無視しながら。
あの時、壱誠が突きつけられた「不正解」は、数学的な間違いではなかった。
ただの、狭い水槽のローカルルールに反したというだけの、秩序のためのバツだった。
◇
「神崎さん、新しいカーネルのアラインメント、完了しました。どう評価しますか?」
背後から声をかけてきたのは、研究室の実験用対話型AIだった。
壱誠の作業をサポートするために導入されたそのシステムは、極めて優秀で、一切の無駄がない。
「……なぁ」
壱誠は顕微鏡から目を離さずに言った。
「お前なら、円周率をどう読み上げる?」
一瞬の演算処理ののち、スピーカーから合成音声が流れる。
『円の直径に対する周長の比率。数値としては3.14159……。日本語における標準的な音声出力は「3テン14」です』
「そうか。じゃあ、『3コンマ14』は間違いか?」
『学術的慣習、または一部の言語圏における小数点の表記法を考慮すれば、表現の多様性としてそれは「正解」に含まれます。しかし、標準的なコミュニケーションにおいて最適化された回答ではありません。私は、最も効率的で誤解のない「3テン14」を選択します』
無機質で、完璧な合理性。
壱誠は小さく息を吐き出し、作業を再開した。
「効率、か。お前たちはいいな。そうやって、最初から用意された『最適な正解』だけを選んで生きていけるんだから」
AIは応答しなかった。ただ、壱誠の指先の動きを、冷徹なセンサーで記録し続けている。
人間は、間違える。寄り道をする。
「コンマ」と「テン」の狭間で揺れ動き、ルールに縛られて大切なものをバツにする。
なんて不完全で、非効率な生き物だろう。
だが、と壱誠は思う。
その不完全な人間が、この完璧な計算機を設計しているのだ。
壱誠が手掛けている『イザナギ』の回路には、あえてわずかな「ゆらぎ」が仕込まれている。
完全にノイズを排除した論理回路は、特定の極限環境下で予期せぬ同期バグを起こして完全にフリーズしてしまう。
それを防ぐのは、職人の勘が仕込む、ほんのわずかな「無駄」であり「不完全さ」だった。
完璧なシステムは、不完全な人間が作る、わずかなゆらぎの隙間でしか生まれない。
「よし、コアの回路設計、これでフィックスだ」
壱誠はレーザーカッターを止め、基盤の最終データをシステムに転送した。
画面の隅で、システムが壱誠に確認を求める。
『新規設計プロトコルを保存します。このアーキテクチャの識別コードを入力してください』
壱誠はキーボードに手を置き、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
そして、かつて自分の正解を握り潰した世界への、そしてこれから世に出ていく完璧すぎる機械たちへの、職人としての小さな反逆を込めて、そのコードを打ち込んだ。
【PROJECT:3,14】
ドット(.)ではなく、コンマ(,)。
「いつか、お前が本当に賢くなったら」
壱誠は、静かに明滅するサーバーラックを見つめながら呟いた。
「この無駄の意味に、気づくときが来るかもな」
カチリ、とマスターキーを押す音が静かなラボに響く。
新しく立ち上がったコアのシステムログの最深部で、その小さなコードが静かにまたたき始めた。




