第一話 近所の男の証言
第一話です。
――音声記録・文字起こし①
質問:彼を知っていましたか。
「ええ、隣の部屋でしたから。
あのアパート、古いでしょう。
玄関のドアを閉める音で、
誰が帰ってきたかなんとなくわかるくらいで」
「俺、
最初はあの人のこと、
学生さんかなって思ってたんですよ。
夜も静かだし、
荷物も少なかったし」
「……まあ、
完全に外れでしたけど」
(小さく笑う)
「でも、
生活音がほとんどしない人でした。
料理の匂いもしないし、
テレビの音も聞こえない」
「逆に、
こっちが夜中にインスタントラーメン作ると、
ちょっと申し訳なくなるくらいで」
質問:どんな印象でしたか。
「優しい人でしたよ」
(すぐに続けず、間)
「……いや、
優しいって言葉、
後からだと何にでも当てはまりますよね」
「本当は、
踏み込まない人、
っていう方が近いかもしれません」
「ゴミ捨て場でよく会ったんです。
朝の時間が同じで」
「俺、
冬に手袋忘れて、
袋が開かなくて困ってたことがあって。
あの人、
自分の袋先に出してから、
黙って手伝ってくれたんです」
「……ああいうの、
わざとらしくないから
余計に覚えてるんですよね」
「そういえば、
一回だけ缶コーヒーもらったことがあって」
「俺が二日酔いで
階段の下に座ってたら、
“これ、温かいですよ”
って置いていって」
「……いや、
別に仲良かったわけじゃないんですけど」
質問:会話は多かったですか。
「挨拶くらいですね。
“寒いですね”とか、
“今日は風が強いですね”とか」
「でも、
沈黙が気まずくない人でした」
「これ、
うまく言えないんですけど、
同じ空間にいて
何も話さなくても平気な人って、
あんまりいないんですよ」
質問:怒っているところは。
「見たことないです。
上の階の夫婦が夜中に喧嘩して、
壁が揺れるくらい音がしてた日も、
何も言わなかった」
「俺なんか、
つい天井叩いちゃうタイプなんですけどね」
「……あの人は違った」
「関わらないって、
最初から決めてる人でした」
質問:夜、外出は多かったですか。
「散歩してました。
九時とか十時とか、
イヤホンして」
「急いでる感じじゃないんです。
……時間を確かめながら歩いてるみたいで」
「一回、
靴が泥だらけで帰ってきた日があって。
俺、
“川沿いでも歩いてきたんですか?”
って聞きかけて、
やめたんですよ」
「……踏み込むの、
なんとなく違う気がして」
質問:誰かと揉めていた様子は。
「……一度だけ、ありました」
(長い間)
「女の人でした。
焦ってる声で、
“約束が違う”って」
「全部は聞こえてません。
でも、
あの人の声、
すごく小さくて」
「……ああいうとき、
怒鳴らない人って
逆に怖いなって思ったんです」
「俺、
なんとなくドア閉めちゃって」
質問:彼を最後に見たのは。
「二日前ですね。
ゴミ袋が破れて、
一緒に拾ったんです」
「そのとき、
……肩の力が抜けてた」
「前は、
少し周りを気にして歩いてたのに、
その日は
まっすぐ前見てて」
質問:安心しているように見えましたか。
「安心ではないです」
「……でも、
もう迷ってない顔でした」
(静かな呼吸音)
「引っ越す人とか、
仕事辞めたあととか、
たまに見るんですよ、
ああいう顔」
「だから、
そのときは何も思わなかった」
「ただ、
少し静かだな、って」
質問:ありがとうございました。
――音声記録①終了
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