04 何もかも、大嫌いだ
普通の住宅地に建っていると思っていたのに、メグルの家の付近はなぜか携帯の電波が通じなかった。適当にぐるぐると周辺を歩き回って、スマホのマップを出そうと奮闘する。十分ほど四方八方に歩いたところでようやく電波が戻って、今いる場所が自宅から一駅ほど離れた場所だと分かった。
腹も満たされていることだし、のんびりと腹ごなし感覚で自宅までの道を歩くことにする。昨日あれだけ殴ったり蹴られたりしたのに、不思議と身体はまったく痛まなかった。むしろここ数年で一番調子が良いくらいだ。それもメグルの妻のおかげだとしたら、有り難いを通り越していっそ気味が悪い。
気味が悪いという言葉が頭を過った瞬間、『あぁ、それだ』と一人で納得した。あの家族は、どこか得体が知れず、ひどく不気味だ。理由は分からないが、あの家のモノたちと話していると、じっとりとした黒い粘液に包まれているような感覚に襲われる。自分とは住む世界が違う何かと対峙しているような、奇妙なおぞましさすらあった。
俺を見る、まるで底なし沼のような真っ黒な瞳を思い出して、ぞくりと背筋がそそけ立つ。その寒気を振り払うように、両肩をバタバタと掌で乱暴に払う。だが、不意にその手がピタリと止まって、動かなくなった。
俺が心底腹立たしく思ってしまうのは、あの家族はとんでもなく薄気味悪いのに、俺が今まで感じたこともないような温かさを孕んでいるからだ。互いを思いやり、愛し合い、いたわり合っている。おためごかしではなく、本物の無償愛をもって。それが心底、妬ましかった。そして、奴らを妬ましく思う自分自身が耐えられないほど疎ましかった。
不意に、温かい親子丼が入った胃袋をねじ切りたい衝動に駆られた。捨て犬の頭を撫でるような、気まぐれに与えられた善意を握り潰して、地面に叩き付けてやりたい。
「俺は、犬じゃねぇんだぞ……」
先ほど双子に言い返した台詞を、もう一度咽喉の奥でうなるように呟く。
俺は、今まで一人で生きてきたし、きっとこれからも一人で生きていく。俺に金だけ与えて欠片も関心を向けなかった親という名の生き物も、俺から薄っぺらい愛情を求めるだけの女という名の肉も、俺から金も矜持も奪い取っていった仲間という名の虫ケラ共も、何も要らない。本当は、最初から何も要らなかった。
歩けば歩くほど無駄な思考が巡って、苛立ちが込み上げてくる。こんなことなら、いつも通りタクシーに乗ればよかった。俺はいつもこうだ。やることなすこと何でも裏目に出る。
腹立ち紛れにコンビニに入って、ストロング缶を購入する。レジのバイトに投げ付けるようにして金を払って、レジ前に立ったままプルタブを開けてあおった。咽喉を通っていくアルコールの美味くもない味に安心する。あの親子丼の優しい味が、泥水みたいなアルコールの味で上書きされていく。
一気に半分ほど飲み干すと、脳みそがぐちゃりと大きな足で踏み潰されたみたいに朦朧とするのを感じた。目がどろりと濁って、視界が霧がかったようにぼやける。
ストロング缶をあおる俺を、バイトの若い男が気味悪そうに眺めていた。
「あぁ? 何だよ」
脅し掛けるように訊ねると、バイトは『関わりたくない』と言うようにさっさと視線を逸らした。
はっ、と鼻先で笑って、酒を飲みながらコンビニを出る。ふらふらと左右に蛇行しながら歩く俺を、通行人が次々と避けていく。時折、掠めるように向けられる視線から滲んでいるのは嫌悪だとか侮蔑といった感情だ。
――あぁ、いいね。どんどん避けてくれ。誰も俺に近付くな。俺を見るな。気持ち悪いんだよ、お前ら全員。吐き気がする。湿った肌も、生ぬるい息も、脈打つ心臓も、何もかも、大嫌いだ。
ぶつぶつと譫言を漏らしながら、自宅までの帰路を辿る。家賃が月五十万もする高層マンションの一室だ。見栄を捨てられなくて、貯金を切り崩してまで住み続けた俺の砂上の城。
その城の扉を開いた瞬間、ガツンッと脳天に衝撃が走った。まるで重力に引っ張られるようにして身体が地面に倒れて、力が抜けた掌から空っぽになったストロング缶が転がっていく。
酩酊していた頭がズキズキと痺れるように痛む。頭蓋骨の内側で火花が散っているかのような痛みだった。玄関に倒れ伏していると、両腕が誰かに掴まれるのを感じた。そのまま、ずるずると身体を引き摺られていく。
「おー、やーっと帰ってきたかー」
やたらと語尾を伸ばした声が聞こえてくる。その無駄に朗らかな声には聞き覚えがあった。
痛む頭をのろのろとあげると、広々としたリビングの中央に置かれたL字型ソファにどっかりと腰掛ける男が見えた。もう五十近いくせに、若作りのためか日焼けサロンに通って肌を焼いて、ポマードで髪をテカテカに撫で付けている。
左右を見やると、俺の両腕を掴んでいるのは屈強な黒服の男二人だった。その二人の黒服共は、目の前のポマード男が『護衛』と称して連れ歩いている男たちだと思い出した。
まるでボロ布みたいに引き摺られてきた俺を見て、ポマード男は歯を剥いて笑った。一本差し歯になった上の歯には大粒のダイアモンドが埋め込まれていて、涎に濡れて下品に光っている。
「お前さー、帰ってくるの遅いよー。入院したのかと思ったら、どこの病院に聞いても入院してないって言われるしさー。女んところにでも逃げたのかと思ったけど、お前みたいな落ち目の奴を匿ってくれるような女ももういねぇだろうしさー」
初めて会ったときから、この男のネチネチとした話し方が大嫌いだった。店のオーナーだという肩書きがなければ、酒瓶で頭を殴り飛ばしてやりたかったくらいだ。
痛みとアルコールでグラグラする頭を感じながら、唇を鈍く動かす。
「なんすか……もうクビじゃなかったんすか……」
昨日、俺をボコボコにした男が『代表が俺をクビにした』と言っていたはずだ。なのに、なぜこいつが俺の自宅にいるかが理解できない。
だが、部屋に入れた理由は想像がつく。俺から昨日の金髪男に鞍替えしたエース(太客)に渡していた合鍵を使ったのだろう。自宅の合鍵を大盤振る舞いしすぎた結果がこれだ。ろくでもない虫ケラ共に、こうやって勝手に入り込まれる。
「いやー、クビはクビだよ。当たり前だろ、クビしかないだろお前みたいな奴。よくも俺の店に損害与えやがってよー。恩を仇で返すとはこのことだな。これだから顔だけの脳みそカスカスな奴は嫌いなんだよーボケがー」
間延びした罵言は、どこか歌舞伎役者の長唄のようにも聞こえた。それがひどく滑稽に思えて、込み上げてきた笑いに肩が小さく震える。
悪態を吐きながら、オーナーが俺をじろじろと見やる。
「というか、アオトもカスだなー。お前の腕折ってやったとか自慢げに言ってたけど、全然折れてねぇじゃねぇかクソがー。折るつったんだったら、ちゃんと折っとけよー。これだから有言実行できねぇバカは嫌いなんだよー」
アオトというのは、昨日俺を殴り飛ばした金髪男のことだ。俺をどんな風に痛め付けたのか、意気揚々と喋るあのバカ男の姿が思い浮かぶ。
「クビつったけどな、全然足らねぇことに気付いたんだよー。お前、シャンパンタワーぶっ壊したし、女にも掛け(ツケ)させまくってただろうがー。トータルで五千万ぐらい俺に損害与えてんの。お前さぁ、五千万って分かる? すげぇ金額よ? 払える? 払えんの?」
オーナーがソファから立ち上がって、俺に近付いてくる。そのまま、髪の毛を鷲掴まれた。無理やり引っ張られて、頭皮がギチギチと傷む。
「だからな、回収に来てやったんだよー」
「……回収?」
俺がオウム返しに呟くと、オーナーはにやりと目元を歪めた。まるで泥人形みたいに醜く、薄汚い笑みだ。
「俺の知り合いがな、良い臓器探してんだよー。お前はもうそこまで若くねぇし、内臓も活きはよくねぇだろうけど、まぁまだ使える臓器を持ってるだろー? それを人様の役に立てねぇと勿体ないからなー」
ニヤついた声音で告げられた言葉に、ゾワッと一気に全身が総毛立った。全身の血の気が下がって、指先が小刻みに震える。
つまり、それは俺の内臓をヤバい輩に売り飛ばすということだ。それも口調からして、腎臓や角膜の一対だけでなく、全身の臓器すべてを摘出するのだろう。もちろん俺は生きていられるわけがない。
絶句する俺を見て、オーナーが笑みを深める。
「お前はクズの中のクズだけど、せめて最期ぐらい人の役に立とうなー」
馬鹿な子供に言い聞かせるような口調で言うと、オーナーは片手をあげた。同時に、俺の両腕を掴んでいた男たちが、俺の身体を床に叩き付けた。そのまま、口の中に布を突っ込まれて後ろ手をキツく縛られる。床の上で無我夢中で暴れるが、すぐさま殴られてねじ伏せられた。
高らかな笑い声が聞こえる。藻掻く俺を見て、オーナーがゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。その姿を見て、はらわたが焼け焦げるような怒りを覚える。
――許さない。許してたまるか、ちくしょう。てめぇら全員、ぶっ殺してやる。全身の骨を一本残らず叩き折って、腹を裂いて内臓を引き摺り出して、頭蓋骨を割って脳みそを握り潰してやる。よくも俺を、俺を踏み躙りやがって。
恐怖をはるかに凌駕する強烈な殺意が、血とともに全身を奔流していた。真っ赤に血走った眼球で、オーナーを睨み据える。オーナーは薄笑いを浮かべたまま、小馬鹿にするように呟いた。
「お前、最後までアッタマ悪いなぁ」
単純な、単純だからこそ一番腹が立つ罵言だ。
頭の神経が憎悪で焼き切れそうになったとき、不意に場違いなぐらい穏やかな声が聞こえてきた。
「だから、父さまが僕らに送ってもらえと言っていたんだ」
「まったく、何度同じような目にあえば気が済むんだ。学習能力がないのか」
声の方へ視線を向けると、呆れ果てた顔をした双子が立っていた。