01 人生のおしまい
俺の人生は、もうおしまいだ。
路地裏のゴミ捨て場に投げ捨てられながら、そう思った。
酒をチャンポンしまくったせいで脳味噌はとろけたプリンみたいにふやけているし、散々殴られた顔はボコボコに腫れ上がっているし、視界が揺れて物が二重どころか五重ぐらいに見えている。地面に投げ出された右腕が関節とは真逆の方向に折れ曲がっているのを見て、自分が救いようのないドン底まで落ちたことがはっきりと分かった。
「あー、マジでオッサン重てぇし」
そうボヤいているのは、俺をゴミ捨て場に放り捨てた男だ。金色の髪をツンツンに逆立てていて、昔流行ったゲームの主人公の髪型に似ている。
俺がニヤニヤと笑いながら『クラウドみたいだな』と言ったら、男は『は? それ誰すか?』と怪訝に顔を顰めた。二十歳の若者には、もう伝わらないネタらしい。
目の前の男が二十歳だと思い出した瞬間、不意に『三十六歳』という自分の年齢が胸にグサリと突き刺さった。
昔は、自分は一生歳を取らない気がしていた。だが、残酷なことにしっかりと時間は流れて、いつの間にやら三十六歳のオッサンに成り果ててしまった。
三十歳を過ぎた辺りから、何もかもが上手くいかなくなった。
大学在学中に始めたホストの仕事でナンバーワンを取ってから、二十代のうちは順風満帆そのものだった。女相手に心なんて欠片も篭もっていない甘い言葉をかけて、積めるだけ金を積ませまくって、一月で億の売上げを叩き出したこともある。あの頃は、自分を中心に世界が回っていると信じてやまなかった。
だが、三十歳に入ると、ゆっくりと暗雲が立ちこめ始めた。俺を指名していた太客が一人、また一人と若いホストに流れていき、ナンバーワンの座をキープするのが難しくなった。
そうなると締め日が近付くごとに苛々が募り、指名客に対する態度が荒くなった。
『そんな偽物のブランドバッグ持ってるぐらいなら、一万でも二万でも俺のために積めよ』
吐き捨てる度に、女の目の奥からすうっと温度が抜けていくのを見た。
そうして、必死に足掻く俺の姿に愛想を尽かして、余計に客は離れていった。その悪循環にハマってからは、奈落に落ちるまでは早かった。
ナンバーワンだったのがナンバーツーに落ち、次はナンバーフォー。一年も経てば、俺はもう上位ランキングに名前すら挙がらなくなった。
転落というのが、まさに相応しい。三十代になっても現役でホストを続けている人間は、歳を取ったからこその貫禄やら安定感を売りにしていることが多い。だが、俺は二十代のときから変わらず、ずっと『王子様』路線のままで居続けた。今ならそれが一番の敗因だったと分かるが、それでも『王子様』から抜け出せなかった理由はある。
『ねぇ、オウジって、本名もオウジってほんとぉ?』
昔、女に言われた言葉を思い出す。
――近藤王児
というのが、アンポンタンな両親に付けられた俺の名前だ。
小学生のときは周りから『オウジ様』と茶化されるのが嫌で堪らなかったが、中学にあがった頃から背丈が伸びて顔立ちが整ってきたのが救いだった。
それから、俺は名前のとおり王子様を演じ続けていたように思う。平民を顧みることのない、プライドばかりが高い傲慢な王子様を。だが、三十六歳になった今、王子様のメッキはもうボロボロに剥がれかけている。
「あんたのせいで店もめちゃくちゃじゃねぇか。俺のシャンパンタワーを倒しやがって、クソが」
金髪男が苛立たしげに吐き捨てる。
その言葉に、ぼやけた脳味噌にじわりと染み出すように怒りが込み上げてくるのを感じた。
――違う。お前のじゃない。俺のシャンパンタワーだった。
今日は、俺の三十六歳の誕生日イベントだった。エース(一番の太客)に頼み込んで、三百万のシャンパンタワーが作られるはずだった。だが、蓋を開けてみれば、シャンパンタワーは俺のためではなく、目の前の金髪男のために作られていた。
エースを奪われた、と気付いたのは、ニタニタと笑う金髪男とその横に寄り添う元エースの姿を見たときだ。本来だったら他キャストから指名客を奪うというのは、この界隈では御法度な行いだ。だが、目の前の男はそれをやった。つまり『こいつなら、やっても構わない』と思ったということだ。
二十歳になったばかりの小僧に侮られている、と理解した瞬間、俺はシャンパンタワーを叩き壊していた。悲鳴と怒号が溢れる中で、金髪男に殴りかかる。だが、酒でよろよろになったパンチなんて掠りもせず、すぐさま返り討ちにあって、こうやってゴミ捨て場に転がる羽目になっている。
虚ろな目で宙を眺めていると、金髪男が腰を屈めて俺の顔を覗き込んできた。
「あんた売上げもあがんなくなったし、もうクビだって代表が言ってたよ。次にこの界隈に顔見せたら、腕一本じゃ済まさないからなってさ」
お気の毒さまぁ、とちっとも気の毒に思っていない声で、金髪男が言う。
「お疲れさん、オッサンのオウジ様」
ははっ、と嘲笑を漏らすと、金髪男は最後に俺の顔に唾を吐きかけた。酒臭い唾が頬に当たって、ねっとりと首筋にまで伝っていく。
もやがかった視界で立ち去っていく男の後ろ姿を眺めてから、俺はゆっくりと目を閉じた。今はとにかく、何も考えたくなかった。
それなのに、しばらくすると頭上からヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
「これはオウジか?」
「歳は取っているが、オウジだな」
「なぜ、こんなところで寝ている。ここがこいつの家なのか?」
「馬鹿を言うな。こんな野晒しなゴミ溜めに住む奴がいるか」
二人組の男が喋っている。声質からして若者のようだが、二人の声がそっくりすぎて、それは一人芝居のようにも聞こえた。
「足が妙な方向に曲がっているな」
「折られたのか? それとも自分で折ったのか?」
自分で折るわけねぇだろうが。と朦朧とした頭で思う。言い返してやりたいが、半開きになったままの唇が動かない。
男たちはまるで人形でも扱うみたいに、俺の折れた右腕を掴んだ。そのまま、前後左右に無造作に揺らされて、湧き上がってくる激痛に意識が戻ってくる。
「いっ、ぎ……ッ」
神経に突き刺さるような痛みに、咽喉から悲鳴が漏れる。途端、掴まれていた右腕が下ろされた。
朦朧としたまま、薄らと目を開く。すると、こちらを覗き込んでいる二人組の男が視界に入った。視界はけぶったように不鮮明だが、それでもその男たちの顔が瓜二つなのが分かる。しかも、ぼやけていても分かるぐらいその男たちは整った顔立ちをしていた。
つるりとした卵形の輪郭に平行気味な眉、ツンと伸びた高い鼻梁、理知的にもどこか冷淡にも見える一重の瞳が、完璧な位置に配置されている。化粧や整形で作り出されたものではない。ありのままだからこそ他者の妬みすらも寄せ付けない、完成された美貌をしている。
焦点の合わない目でぼんやりと眺めていると、男たちは顔を見合わせた。
「神さまは嘘つきだな。オウジのことはちゃんと生きていけるようにしてやる、と言っていたのに」
「こいつは、ちっともちゃんと生きていない」
好き勝手に言いやがって、何様のつもりだ。
いつもだったらこれ見よがしに舌打ちを漏らすのに、力の入らない口からはだらりと涎が溢れるだけだ。赤ん坊みたいに涎を垂らす俺を見て、男たちは小さく嘆息した。
「まったく手のかかる奴だ」
「仕方ない。前世があれだけの呪詛を抱えた身だったんだ。拭い切れない業が腸の奥深くまで染み込んでるんだろう」
そう呟くと、男の片割れが俺の唇に手を伸ばした。口角から垂れる涎を拭った親指が、口の中へと潜り込んでくる。火照った咥内にその指先は氷みたいに冷たく、泥のように粘着いて感じた。
「僕らが面倒を見てやるべきだ」
「本気か、ひるくも。こいつに刺されたことを忘れたか」
男の一人が自身の下腹を押さえながら、驚愕を滲ませた声で言う。
「よるくも、刺したのはオウジじゃない。前世の女だ」
「父さまと母さまを苦しませた女だぞ」
「その女はもう消えた。今ここにいるのは、ただの哀れな男だ」
ひるくもと呼ばれた男がなだめるように言う。すると、よるくもと呼ばれた男はわずかに眉を顰めた。
「僕らと出会ったせいで、この男の魂は大きく欠けてしまった。まともな人生が送れるように、誰かが世話してやらなくてはならない」
根気強く説得するひるくもに、よるくもは両腕を組んで押し黙った後、仕方なさそうにため息を漏らした。
「父さまと母さまが嫌がったら、すぐにバラバラに引き千切って捨てるぞ」
「分かっている。だが、父さまと母さまが許す限りは、大切にしてやるべきだ」
よしよし、と頭を撫でる掌を感じる。だが、その掌からはぐちゃりと湿った雑巾のような感触がした。皮膚の下からぞわりと生理的な嫌悪が込み上げてきて、指先が震える。
「家に帰ったら、母さまにお願いして曲がった腕を治してやろう」
「顔も腫れているし、皮膚も荒れているな。腸もずいぶんと傷んでいる。まったく、ろくでもない生活を送っていたな」
下顎を雑に掴まれて、じろじろと顔を観察される。間近に寄せられた瞳は、光を一切通さない底なし沼みたいに真っ黒だった。それを見た瞬間、どうしてだか目の前の美しい男たちが、人の姿をしただけの黒く粘着いた泥人形のように思えた。
声も出せずに震えている俺を見て、よるくもが小さく鼻を鳴らす。途端、無臭の呼気が鼻先を掠めた。
「人間は生臭いな」
「よるくも、意地の悪いことを言ってやるな」
「お前だってそう思っているだろう」
よるくもが言い返すと、ひるくもは軽く肩をすくめた。消極的ながらも肯定を示す仕草だ。
よるくもは乱暴に俺の下顎を離すと、臭いを払うように手の甲で自身の鼻先を擦った。
「まったく、帰ったらすぐに風呂に入れるぞ」
「先に休ませてやろう。ずいぶんとひどい目に合ったようだからな」
優しくいたわる声音だというのに、なぜだか暗い穴ぐらへ引き摺り込まれるような怖気が込み上げてきた。
逃げなくては、と本能が赤い警告灯を点滅させるのに、身体がピクリとも動かない。
恐怖に目元を引き攣らせる俺を見て、ひるくもが微笑む。怖いくらいに優しい笑みだ。
「大丈夫だ。僕らがちゃんと世話をしてやる」
まるで夏休みにカブトムシを育てる子供みたいな口調だ。狭い巣箱の中で干からびる自分を想像した瞬間、目の前が暗転した。