第125話 壁を越えるために
「ヒロカちゃん。これはさすがに退却した方がいいんじゃ……?」
俺は隣のヒロカちゃんに目配せをし、進言した。
ヒロカちゃんの眉間には、シワが寄っている。
「…………」
ヒロカちゃんは、すぐには答えなかった。
その間にも、小窓の向こう側ではグラウンドドラゴンがその巨体を蠢かしている。
特殊な石壁で作られたこの関所が壊されるということはないだろうが、ヤツがこちらに気付いていないうちに撤退を決めてしまう方がいいのは明らかだ。
ギィィ
と、そこで。
待機所の扉が、音を立てて開かれた。
「ほほ、ここが関所の待機所ですか。存外、過ごしやすそうな場所ではないですか」
ザイルイル大司教が、従者たちを引き連れて部屋に入ってきた。その中にはフィズの姿もあった。
大人数が押し寄せたせいで、待機所が一気に手狭になる。
「ザイルイル大司教、すぐそこにグラウンドドラゴンがいます。ここは安全第一に、退却すべきではないかと」
「グラウンドドラゴン……ほう、かの有名な『聖魔樹海の門番』、地竜ですか」
俺の言葉を受け、ゆっくりと小窓に近付く大司教。窓から向こう側の景色へと目を凝らすように、目を細めた。
その横顔は、いつもの穏やかな笑みのままだ。
……あまり、いい予感はしなかった。
「ほほ、ヒロカさんがいれば、地竜一匹程度は、困難とは呼べないのではないですか?」
穏やかな笑みを貼り付けたまま、ヒロカちゃんへ期待の視線を向ける大司教。
……いや、そういう問題じゃない。今のヒロカちゃんなら地竜にも負けないと思うが、だからと言って何もないとは絶対に言い切れない。
それに、ここで地竜に勝てたとしても、その後にも地竜クラスの魔物が現れでもしたら、非戦闘員の従者の人たちを守り切れるかわからない。
「ここで簡単に退却の判断を下してしまっては、わたしたちがこうして行動した意味、たくさんの人員の時間と労力、準備等にかけた予算……あらゆるものが水泡に帰す。それこそそれは、様々な人々の行動や熱意、苦労が踏みにじられることに他ならないと思うのです」
「で、ですが……!」
ザイルイル大司教は穏やかな笑みを崩さぬまま、俺を制するように言った。
表情が変わっていないということは、要するに、こちらの提言が一切彼の心を揺らしていないことを意味する。
「……わかりました。ここは私がなんとかします」
「ヒロカちゃん!?」
それまで黙って話を聞いていたヒロカちゃんが、そこで何かを決意したかのように息を吐いた。
いや、ここは退却一択だろ!?
「先生。すごく勝手なことなのですが……私も地竜と戦いたいって思っていたんです」
「え?」
「最初の聖魔樹海遠征で受けた自分の中のトラウマを、克服したいんです。そうじゃなきゃ私、本当の意味でちゃんとした勇者になれないような気がして」
「……!」
決意を宿した目で、俺を見つめるヒロカちゃん。
彼女はこの世界にクラス転移してきたばかりの頃、クラスメイトたちと共に聖魔樹海派遣に出ている。その際、地竜にトラウマを植え付けられているのだ。
――目の前で、何人ものクラスメイトを地竜に食い殺された。
そんな強いトラウマを、彼女は乗り越えたいと言うのだ。
「今の私なら、対等以上に戦えるはず。だから今ここで、私は過去の自分を乗り越えたいんです」
「ヒロカちゃん……」
「先生の言わんとしていることはわかりますし、安全面だけを考えるなら絶対に言う通りにすべきだってわかってます。でも……私は、もっと成長したいし、強くなりたい。先生や大切な人たちを守り通せるぐらいに」
力強く言い切るヒロカちゃんに、俺はもう何も言い返せなかった。
澄んだ眼差しには、一切気負いはないように感じられた。
「ほほ、さすがヒロカさんだ。その強い決意、しかと見届けましょうぞ」
「ありがとうございます、ザイルイルさん」
口元を扇子で隠しながら、ザイルイル大司教が言った。
「……わかった。ヒロカちゃんの意思を尊重する。ただし、俺も出るよ。もしトラウマの影響で身体が思うように動かなかったりしたら、それこそ大変だからね。サポートする」
「ありがとうございます、先生」
ぺこり、とポニーテールを揺らしてお辞儀をするヒロカちゃん。
教え子自らトラウマの克服を目指して前進しようとしているのだ、先生が手助けしてやらなくてどうする。
「「では、いってきます」」
俺とヒロカちゃんは魔力を練り上げながら、石壁の向こう側へと出陣した。
◇◇◇
向こう側――聖魔樹海。
濃い魔元素が、甘い香りを漂わせている。
俺とヒロカちゃんは並んで深く息を吸い、体内に魔力を目一杯生成していく。
「……先生、基本は私一人で相手させてください。じゃないと、トラウマを乗り越えられないから」
前を見たまま、ヒロカちゃんは言った。
「わかった。ただし、なにかあればすぐに手を出す。俺が地竜の相手になるかはわからないけど、絶対にヒロカちゃんを手助けしてみせる」
「ありがとうございます。これで安心して――全力を出せそう」
一歩を踏み出したヒロカちゃんからは、すでに威圧感のようなオーラがにじみ出ていた。
そう、これは……グラーデスとの戦いで見せた、覚醒状態に近い。
「GRR……GHRYAAaaaa!!」
ヒロカちゃんの気配に気付いたのか、地竜が鼓膜をつんざくような咆哮を上げ、こちらをロックオンしたのがわかった。
それを合図にして――
「勇者ヒロカ・エトノワ……いきますっ!」
「GHGRYAAAAaaaaaaaa!!」
――遠征の可否を決める戦いが、はじまった。




