第119話 樹教の中枢にて
ユーキ達がデムナアザレムに到着した頃。
聖魔樹教の象徴たるデムナアザレム大聖堂をのぞむ場所に、太古の神殿のような建造物があった。そこでは、象徴たる教皇を頂点とした教会組織の重役たちがひしめき合い、日々様々な責務をこなしていた。
言うなれば、宗教国家デムナアザレムにおける、国家運営の最重要拠点と言えた。
そんな場所である神殿内の廊下を、一人の男が忙しなく小走りにかけていた。胸元には羊皮紙で作られたいくつかの書類を抱き、顔には焦りの色を浮かべている。
廊下を走り抜けたその奥、縦に長い扉を開けて中に入ると、室内は異様なほどに天井が高く、広大だった。さらに歩き進むと、背もたれの長い大きな玉座に、一人の男性が座っていた。
「大司教様……ザイルイル様!」
玉座におわすは、司教冠を被った恰幅の良い男性――大司教ザイルイル・インプティである。
慈愛に満ちた微笑を浮かべ穏やかに佇んでいるのだが、眉やシワの一つ一つが一切微動だにしないため、ある意味では感情が欠落しているかのようにも思えた。
「ザイルイル様、つい先ほどダイトラス王国使節団が街に入られました。団のリーダーはアルネスト領代官のヒロカ・エトノワでございます」
「ほほ、予想より早かったですね。報告ご苦労様です、ディンゼル」
玉座に座ったままザイルイルは、伝言を届けた男――ディンゼルへと微笑の顔を向けた。労うような声音だが、貼り付けた微笑はやはり微塵も動かない。
「それと、こちらは別件ですが、デムナアザレムの外壁修繕工事の今後の計画書となっております。工期が差し迫る中、まったく人手が足りておらず、正直難航しております」
言いながらディンゼルは、ザイルイルの眼前の執務机に書類を置いた。
ザイルイル・インプティは動かぬ微笑のまま、ふむんと息を吐き、書類に目線を落とした。
「……この辺りの予算は、もう少し削れるのではないでしょうか?」
一瞬、ザイルイルの眼の奥が、鋭く光ったようにディンゼルには感じられた。
背筋をぞわりと、冷たいものが走っていく。
「申し訳ありません、大司教様。わたくしめの低俗な頭ではどうしても、これ以上予算を削る方法がわからず……。ぜひザイルイル様の英知を、授けてくださいませんでしょうか?」
ディンゼルは反射のようにへりくだり、大司教へと深く頭を下げた。
それを受け、ふむん、とザイルイルは厚ぼったい唇から息を吐いた。
「あの高い高い外壁を、修復工事するのでしょう?」
「はい。高所での作業が発生します」
「そうですか。ところでディンゼル、壁の外というのは正確に言えば、聖地ではありません。わかりますか?」
「は、はい?」
すぐに言葉の意味を飲み込めなかったディンゼルは、つい聞き返してしまう。
「もう一度言います。壁の外は我々の領地、言わば聖地ではないのです。この意味がわかりますか?」
「……と、言いますと?」
「信心深いデムナアザレムの民に、高所での危険な作業をやらせるのはよくありません。信心深き人々が、万が一にも不慮の事故などに遭っては心が痛みます」
「…………」
ザイルイルの言葉を、必死に頭の中で咀嚼するディンゼル。
これは、いったいどういう意図があるのか……必死に脳を回転させ、彼は一つの結論を導き出した。
「……外部から奴隷を引っ張り、そいつらを使って直させます」
「はい、よいでしょう。わかっていると思いますが、決して内部には入れないように。聖地が汚れてしまいますからね」
「はい。監督はわたくし自ら務めさせていただきますのでご安心を」
「ほほ、ディンゼル、あなたに世界樹のご加護があらんことを」
ディンゼルは深く頭を下げ、その場から去ろうと回れ右をした。
すると入れ替わるように、別の者がザイルイルへとなにやら書類を提出せんと待機していた。
「『流浪』に出ていたフィズ・イグナシアが帰って参りました」
「ほほ、帰ってきましたか。で、首尾はいかがでしょう?」
「ダイトラス使節団のヒロカ・エトノワと、デムナアザレムの街を並んで歩いている姿が目撃されています」
「ほっほっほ、これはこれは。予想以上の成果ですねぇ」
ディンゼルの耳に、ザイルイルの嬉しそうな笑い声が届いた。
あの人がこんなに声を上げて笑っているのを、はじめて聞いた――ディンゼルは振りむことなく扉へと足を運んだが、膝が少し震えてしまったのではないかと不安になった。
「では、会談の日まで監視は怠らないようにお願いしますね」
背後で交わされているやり取りを聞きながら、ディンゼルは足早に扉へと歩を進める。早くここから出たい――いつも感じる息苦しさから、逃れたい一心だった。
扉の前まで辿り着き、慣例となっているお辞儀をせんと回れ右をしたディンゼル。
素早く頭を下げ、再び上げる。
その眼に飛び込んできたのは――
「世界樹のご加護があらんことを」
いつも以上に不気味な、ザイルイルの満面の笑みだった。
それはまるで、潰れた果実のように見えた。




