祈る理由
ヒューンという甲高い音でした。何事だと塹壕壁に飛びつき、頭をひょこりと出すと、強烈な閃光が空に浮かびました。
敵陣営から射出された閃光弾です。あたりは白い光に照らされ、僕たちの影が塹壕の中に浮きでました。
何だ、どうしたと兵士たちの騒ぐ声がきこえました。
その時、砲音が鳴り響きました。聞き馴染のある音で、それも一つの砲音ではなく、何重にも重なった音でした。
闇夜の空を切り裂く鋭い音がしたと同時に、高台の麓の地面が爆ぜました。迫撃砲の砲撃です。
それもこれまでのように手当たり次第に打つものではなく、複数放たれた砲弾が横一列に並ぶように着弾していました。
十秒ほどして、また重なった砲音が聞こえました。
今度の着弾位置は先程よりもこちらへ近づいていました。
砲音が聞こえるたびに砲弾の着弾地点が斜面を登るようにして僕たちの元へ近づいてきていました。
何が起こっているのかわかりませんでしょう。僕も全くわからなかった。唯一、理解できたのは、ドイツ軍が攻撃してきたことです。
これは予想ですが、おそらく敵は迫撃砲をこう、横一列に並べて、一発打つたびに徐々に射角をおおきくしていったのではないでしょうか。
そうすると、砲撃が横一列でゆっくりと前進していく。
もう怖いのなんのって。当たるかわからない砲撃なら運任せで走れますがね。じりじりと近づいてくればいつかは当たってしまいます。
どこからか知りませんが、伏せろという叫び声で、塹壕からひょっこり頭を出したまま固まっていた僕たちは、塹壕の中に這いつくばりました。
地面は泥水ですから、這いつくばると冷たかったです。
次第に地面の揺れが強くなって、塹壕のあちこちで砲弾が落ちてきました。
それはもう凄い音でしたよ。臓腑を震わせるっていうのはああいうのをいうんですよ。
破裂音の隙間で悲鳴が聞こえてきました。こっちも凄い声。喉が潰れたんじゃないかっていうくらいの声。
思えば、あれが初めて聞いた断末魔だったんじゃないかな。
とにかく、砲弾の雨を僕たちはモロで受けてしまったんです。
しばらくして、砲弾の雨が通り過ぎました。幸いなことに、僕の周りには砲弾は落ちてこず、耳が少し聞こえにくい程度のものでした。
土煙が止み、遠目に塹壕の中が見通せるようになりました。初めに目に入ったのは人間の腕でした。二の腕あたりから千切れていました。
背中に冷たい衣を入れられたような気持ちになりました。
周囲に目を配るとそこかしこに人と人の一部が転がっていました。
茶色一色の塹壕が朱色にそまり、地面は泥水と血液が混ざり合ってどす黒い色に変わっていました。
胃の中から何かが迫り上がってくる感覚を覚え、口を抑えました。
人の死体は見慣れていました。ですが、あの時は酷く死体が恐ろしく思えました。
一方的に殺す立場から殺される立場に陥った故の恐怖だったのでしょう。
それまでは死ぬことなんてちっとも怖くなんてなかったのに、死が目の前に迫れば人間、恐れるに決まっています。
―おい、おい。誰かいないのか…
弱々しく声を出しましたが誰も返してくれませんでした。
転がった死体につまずきながら歩き出しました。ここじゃないどこかに仲間が生きているかもしれないと思ったからです。
もしかしたら、偶然、僕のいた場所に砲撃が集中しただけかもしれないという愚かな希望を頼りに動いていました。
塹壕は上から見ると直線ではなくジグザグになっています。ですので、一瞥で見える範囲は数メートル先の角までです。
敵からの砲撃をあたりにくくするとか、塹壕内での打ち合いの際には身を隠せるといった考えからですが、そのせいで、角を曲がるたびに生存者がいるのではないかと期待し、何度も血みどろの地獄を見る羽目になりました。
何度目の角を曲がったかは覚えていませんが、先程から胃の中でじくじくとした違和感が痛みに変わったような気がしたかと思うと、胃の中のものを吐瀉しました。酸っぱい味が口の中に広がったのを覚えています。
膝をつき、四つん這いになっていると、近くで何かが目に入りました。それが何かわかった時、また胃の中のものを吐き出しました。
眠る前まで会話していた兵士達の死体だったからです。砲撃された時も焚き火にあたっていたのでしょう。周りを見れば、焚き火を囲んで話していた兵士たちがバラバラ死体になって散乱していました。
もうこの世界に自分以外の生者はいないのではないか、と思えてきました。それどころか、生きている自分が異常なのではないかとも思ったものです。
少し前まで夢や目的を語らっていた仲間が死んでいる。これほど嫌な話はありません。彼らへ向けていた小さな嫉妬が僕を刺しました。
ありえないことですが、僕が彼らに嫉妬したから、彼らが死んでしまったのではないか、という馬鹿げた想像が頭をもたげてきたのです。
気分が落ち込んでいる時にありがちな被虐思考だったのでしょう。
それでも罪悪感に僕は息がつまりました。酸素がうまく吸うことができずに、肺が熱く感じました。
膝を落とし、肩で呼吸をしていると、僕の呼吸と同じような荒い呼吸が聞こえてきました。はっとして首を巡らせると崩れた避難壕に体の半分が埋まった状態の兵士がいました。人生の逆転について語っていたあの兵士です。
僕は慌てて兵士のもとに駆け寄り、埋まった彼の体を掘り返しました。
僕の存在に気づいたらしく、おもたげなまぶたを上げて、僕を見上げました。
ー大丈夫だ。いま出してやる。
確かそんなことを言ったと思います。苦心して彼を掘り出しましたが。両足の腿から下は潰れ、原型をとどめていませんでした。
「准尉は無事だったか。他の皆はどうだい」
―だめだ。どれが誰だかわからねぇ。
「俺の足はどうなっている。ひどく冷たい。何を黙り込んでいるんだ。そんなに悪いのか」
僕は迷いました。本当のことを言っても良いものか、足がなくなるなんてことはとんでもないことです。
―落ち着いて聞いてくれ、両脚共、腿から下がちぎれている。
その言葉にどのような反応をするのか、身構えました。ですが、兵士は口を奇妙に歪めて笑いました。
「足が無くなっちまったのか。なら、名誉勲章ってところか。これで国から金がたんまりもらえるぜ」
ふふふ、と不敵にに笑っていました。
―何をふざけているんだ。まだ大した功績も無いのに勲章なんてあるかよ。
「…俺は家に帰らなきゃならない。残してきた家族もいる。世話をしなきゃならない家畜もいる。牛を売って家族に飯を食わせてやらないといけねぇ」
―帰ってすればいいだろう。足がなかろうと義足をつければ動けるさ。今はとにかく撤退するぞ。
兵士を土から引っ張り出して、羽交締めにするようにして引き摺り始めました。想像よりも軽かったかことを覚えています。
「家族にはこれ以上世話かけるわけにはいかねぇし、役立たずを置いておく余裕なんてない」
―何を言ってやがる。気をしっかり持て。
「ここでいいから降ろせ。もう辛くていけねぇ」
兵士は体をくねらせて逃れようとしました。足が無いとは言っても暴れられては運ぶことも出来ず、兵士をおろすしかありませんでした。引きずってきた道には二本の赤い筋が出来ていました。
荒い呼吸をする兵士を見て、僕はどうしようもなく申し訳なくなりました。
彼の前に膝をつき、兵士の手を握りました。
―俺が、俺が妬んだから、お前たちがこんなことになったのかもしれねぇ。
押し潰したような声になりました。
兵士は僕の言葉に一瞬目を丸くした様子でしたが、すぐに吹き出しました。
「馬鹿言うな。お前みたいな生臭坊主の願いなんて…神様が聞き入れるかよ。ただの…ただの敵兵の強襲だろうが」
―でもよ。
納得しない僕に兵士は苛立たしげに舌打ちをしました。それから
「だとしたら、俺達はお前のつまらない意地で死ぬのかよ。無駄死にかよ。そんな酷い話あってたまるか。何か理由があるはずだ」
兵士は虚ろな瞳で空を眺めていました。手を空に向けて伸ばしました。
「俺達がここで死ぬには意味がある。俺達は…生き残った仲間たちの代わりに死ぬのさ」
その言葉には聞き覚えがありました。そうです。ドイツ将校の今際の際の言葉です。
そこでようやく、彼らがドイツ将校の物を手放さなかった理由に気づきました。
おそらく彼らなりに、ドイツ将校のあり方を敬っていたのでしょう。
彼のようにありたいという憧憬の念から、彼からの貰い物を手放す気にはならなかったのでしょう。
「だからよ。准尉は簡単にくたばるなよ。…苦しんでも自分が…満足いくまで、生きなきゃいけないぜ。ここで生き残った奴らは皆そうだからよ」
―あぁ。そうだな。きっとそうなんだろうな。
「あとは…やっぱり、死ぬのは…怖いな…ぁ」
彼の瞳には色はなく、つるりとしたシワのない表情になっていました。彼は死にました。僕の多くの親しい仲間たちも死にました。
彼を抱えたまま、戦塵が舞う空を見上げました。浮かぶ太陽は、これまでよりも白く輝いて見えました。
ただじっと彼の顔を見ていました。魂の抜けた肉体には表情がありません。僕は彼の顔を見ながら思いました。一体、どうして彼があのようなことを話したのか。これまでの日々を省みても彼は、死体あさりをして、賭博に精を出し、敵兵を殺していた。それらの行いに悔悟の念を抱いているように見えませんでした。
だというのに、死の間際でまるで真っ当な人間に戻ったようでした。ふと思い出した言葉があります。
死ぬからこそ格好つけるんだ、という言葉です。もしかしたら、彼は恐れる心を自制し、本音とは異なることを言ったのじゃないか、と考えました。
だとしたら、僕は一体、彼の言葉をどう受け取ればよいのだろうか、本心とは何だろうかと悩みました。
あのままだったらずっとあそこで考え続けていたかもしれませんが、そうはいかなかった。
銃声を聞いたのです。それから、一瞬遅れて、腿に刺すような痛みを感じました。
苦痛に喘ぎながら、銃声の方向を見ると、塹壕の上から銃口がこちらを向けたドイツ歩兵の姿がありました。銃口からは一線の煙がたなびいていました。
撃たれた。そう気づいた途端、痛みが急に増してきました。泥水の中に体を落とし、撃たれた腿を包み込むようにして蹲った。
砲撃の後には歩兵が突撃してきます。その歩兵が塹壕の上から僕を撃ったのです。
血走った目で肩を上下させながらこちらを睨んでいる。
恐ろしかったです。僕を殺そうとする存在が目の前にいる。
そう気づいた時は全身の産毛が逆立ちました。皮膚からピリピリと刺激を感じ、呼吸を失いました。
死の間際のあの時も時間が止まったかのような感覚に陥りました。僕を睨む兵士の顔と震える銃口、引き金を引こうと動く指先がしっかりと見えました。
痛みに耐えようと強く奥歯を噛み、目を瞑りました。
音から一瞬遅れて、耐え難い激痛がくると思ってましたから。ですが、来るはずの痛みがいつまでたっても来ないのです。
恐る恐る目を開けると、確かに銃口からは射撃後の煙がたなびいていた。指は引き金を引いていた。
何が起こったのかわかりませんでした。敵兵も同様の感慨を抱いたらしく、目を点にしていました。
至近距離で発射された弾丸は、僕の周囲に撒かれていました。弾雨を受けたのは亡骸です。今さっき死んだ彼の亡骸です。亡骸からはドクドクと血が流れ出ているのに気づきました。体からもプシュといいながら赤黒い血が飛び散りました。
可笑しいと思うでしょ?今思い返しても、なんであんな近くから打った弾丸が、僕を避けるみたいに外れたのか。銃の不備か、手を滑らせたか。考えても仕方ありません。
理解の及ばないことは、全て神の仕業。それでいいじゃないですか。
兵士たちが亡くなった後も、僕の代わりに弾丸を受けてくれた。
「そうさ、そのとおりさ。俺達がここで死ぬには意味がある。俺達は…生き残ったものたちの代わりに死ぬのさ」
彼の言葉が耳の中で響きました。
そして、神はここにいる。そう思いました。
神は天に座すのではなく、教会に宿るものでもない。今、誰かのために命をかけ、死んでゆく兵士達、彼らこそが神だと知りました。
人の形をした悪魔がいるのならば、人の形をした神もいるでしょう。
彼らの中に神を見たのではなく、彼らが神なんだと本心から納得しました。
彼らは僕たちのために死んでゆく。僕はあの日、砲弾の中で死ぬかもしれなかった。銃撃で命を落とす予定だった。それを、代わりに命を捧げてくれた。
涙が頬を伝いました。それはこれまでの後悔と苦悩によるものではなく、驚きと感動によるものでした。
信仰のきっかけが随分と違うでしょう。僕にとっての神とはそういうものです。
言ってはいけない事なんだけれど、本当はキリストを完全に信仰している訳でじゃないんです。僕の思想と合致する部分があったから、ここに落ち着いたのです。
要はいいとこどりです。教えを都合のいいように解釈して、合わないところは無視して、自分の中に唯一無二の心の芯を作ったんです。
だから、僕は今もキリスト教では、なっちゃって聖職者。
そうして、僕は今も生きている。
あぁ、いけない涙が出てきちゃった。
敵兵が我に帰り、予備の弾薬に交換しようと、腰に手を伸ばした時、銃声が響き、敵兵の胸で何かが爆ぜました。そして、糸が切れたように倒れました。
「おい、大丈夫か」
中尉でした。額から血を流していましたが、体は動くようです。
僕と同じように砲弾の雨を運良く生き伸びたのです。いや、運ではありません。仲間に助けられたのです。
ー他の生き残りはいるか?
中尉がかけ寄りながら聞きました。
返事をする代わりに頷きました。
それ以上のことは聞いてきませんでした。ちら、と僕の周りの亡骸を一瞥しました。
「そうか…動けるか?体中血まみれだぞ」
顔に手を当てると、べたりとした感触が指にありました。多く仲間の死体に触れていた僕の体は、血まみれになっていました。
―あぁ。腿を打たれただけで、これは俺の血じゃない。
顔を袖で拭おうとして、首から下げていたマフラーの存在を思い出しました。剥ぐようにして外してみると、白い絹のマフラーは光沢のある赤へと色が変わっていました。
仲間の血がこれほどまでに自分に染み付いていたのかと驚きましたが、不思議と嫌悪感はありませんでした。
むしろ、仲間たちの存在を近くに感じられるようで、安心しました。
「おい、後退しながら生存者を探すぞ」
中尉が周りに目を配りながら言いました。
ここにいても命を無駄にするだけです。
それに、僕の心は目の前の惨状を体験する前よりも、晴れやかでした。
自分が祈る理由を見つけたのです。これ以上の幸福を、あの時の僕は知りませんでした。
手早く太腿の止血を済ませました。
「早くしろ」
中尉が少し離れたところから、刺すような声が聞こえました。周囲に目を配っていて、しきりに体を動かしています。
ーありがとう。俺はまだ死なねぇからな。
僕は亡骸達に声をかけました。それからマフラーを巻き直しました。それまでのような柔らかさはなく、血を吸いずしりとした重みを感じると同時に、湿っぽさが首に感じられましたが、温かみを僕にもたらしました。
そして、中尉の背中を追って走り始めました。痛む足とは裏腹に、軽やかに足は動きました。