胎動
僕たちがこうして、道徳的に廃れた遊びを楽しんでいましたが、その日々も突然パタリと終わりを迎えました。思えばその予兆は確かにありました。
あの日も僕たちは死体漁りに出掛けていました。前日の晩、雨の中でドイツ兵の強襲があり、それを僕たちは大した労力もなく撃退しました。
夜が明けると、既に敵兵の姿はなく、あるのは泥の中で死んでいる敵兵たちばかりでした。
水を吸っている死体は重たく、服一枚脱がすのにも随分と往生したものです。
皆、泥まみれになっていました。僕は積み重なった死体を上から順に引き摺り下ろしていました。すると、突然死体の中から手がぬっと伸びてきました。あれには肝を冷やしました。
間抜けな声をして驚くと、周囲の兵士たちが一斉にこちらを向きました。それから、皆が素早くピストルを抜き、構えていました。
「動くな」
と、皆が声を荒げていました。
目の前で伸びる手はフラフラと揺れていましたが、害をなすようには見えませんでした。兵士たちが離れろと僕に叫んでいましたが、その声を無視して、手の根本を注視すると、敵兵と目が合いました。瞼を大きく開いて、眼球は忙しなく動いていました。
咄嗟に、上に乗っかっている死体をどかしてやりました。3人ほどどかすと、手の主人の姿が明らかになりました。
ドイツ兵の将校でした。元の軍服の色がわからないほど泥に塗れており、そのせいか瞳がより一層輝いているように見えました。
念のためにドイツ将校の装備を手早く確認しましたが、拳銃以外には武器はありませんでした。ただ、脇腹が抉れており、内臓の一部が露出していました。
ーおい、もういい大丈夫だ。
周りの隊員が銃を下ろしました。皆、おっかなびっくりですが近づいてきました。
皆、ドイツ将校の傷を見ると、顔をしわぶかせていました。
「殺しちまうか。また、爆弾持たれるまでによ」
ーいい、この傷じゃ体動かすこともできねぇよ。
1人の兵士が喜色たっぷりの声をあげました。
「こいつは中尉だぞ」
その声に皆の顔が変わりました。餌を前にした野良犬のような顔です。
じりじりと近づいてくる彼らを視界に入れたドイツ将校が怯えたように見えました。
ーやめろ。こいつはまだ死んでねぇんだ。
声を荒げて、皆を睨みました。きょとんと皆がしました。
「あぁ、すまない、すまない。まだ少し興奮してるらしいな」
兵士の1人が恥を隠すように大袈裟に頭を振りました。
僕たちは確かにドイツ兵から物を奪っていました。ですが、それは死体からしか奪っていません。
なぜかわかりますか?それは僕たちが彼らを憎んではいなかったからです。僕たちは冷酷でも情け深くもありません。ただ、線引きが上手かったのです。
死んだ人間に軍服はいりませんでしょう。天国には金もいらないでしょう。ですから、貰っていたのです。誰も困りませんから。
ですが、生きた人間は別です。服がなければ恥じらいましょう。風に凍えるでしょう。それ可哀想じゃないですか。
ましてや、最期に見る光景が追い剥ぎなんてあんまりでしょう。僕たちにとっても出来るなら他人に恨まれたくなかった。そんな寝覚めの悪いことなんて御免です。
ーおい、おい落ち着けよ。ほら見ろ。俺は聖職者だ。お前を傷つけたりしないさ。
首から掛けてある十字架のペンダントをドイツ将校の目の前に垂らしました。戦場に来てから久しぶりに見た気がしました。これで少しは落ち着けるかと思いましたが、気がつけば十字架は僕の視界から消えていました。
ドイツ将校が手を払い、十字架を弾き飛ばしたのです。
少し離れたところでチャリと鉄同士のぶつかる音が聞こえました。
驚きましたが、彼が何やら譫言のように呟いているので耳を澄ましました。
「十字架なんて…いらない。そんなもののために…戦ったんじゃない…」
言葉の意味がわかりますか?
ふふふ、難しいでしょう。こればかりは直接戦争に関わらないとわからないことです。実際、僕たちも何を言っているのかわかりませんでした。ですが、ドイツ将校が続けた言葉で、彼の意図がわかりました。
「勲章なんて…見たくもない」
僕たちにとって十字架とは聖職者の証ですがドイツ兵にとってはもう一つの意味があります。それは勲章、鉄十字です。
ドイツ兵が何らかの武功を上げた時に授けられるものですね。軍部の権威の象徴でもあります。
それをいらないと言うことは、彼には武功を挙げる気はなく、それはつまり、戦う気持ちないと言うことです。
僕は少し不思議に思いました。国のために戦う意思がないのなら、一体彼は何のために死にかけているのでしょう、と。
そう思うと同時に、僕はドイツ将校を手当していました。救護鞄の中身をひっくり返し、仲間をぶちまけ、必要なものをかき集めました。
手当といっても、内蔵が露出するほどの重症ですから、今から軍医に見せたところで助かりはしません。
せいぜい、数分命を伸ばすのが関の山でしたでしょう。
「おい、そんなことしていいのかよ」
周囲の兵士たちが僕は問いかけました。
ー仕事をしているだけだ。
ぶっきらぼうに応えてやりました。
荒い呼吸の音が聞こえたので、モルヒネを数本打ってやりました。それから、傷口に水をかけ、上からガーゼで傷口を覆いました。
そうしていると、視界の横からぬっ、と手が伸びてきました。
何をするのかと思えば、隊員の1人がドイツ将校の頭を上げ、あぐらを描いた自分の膝の上に置いてやりました。
それから、貴重な生水を飲ませてやりました。
ですが、ドイツ将校は飲む力もないようで、ボタボタと溢していました。
それを見かねた別の兵士が清潔なハンカチに生水を浸し、それをドイツ将校の口元に近づけて絞ってやりました。ハンカチはみるみる男の血で赤く染まっていきましたが、男は喉を鳴らしてうまそうに水を飲んでいました。
気がつけば兵士たちは次から次へとドイツ将校の介助に手を貸していました。
モルヒネが効いてきたようで、荒い呼吸が次第に収まっていきました。
僕はドイツ語が話せましたので、言葉を翻訳してやりました。
「なんで…助けた?作戦情報なんて持ってないぞ」
「馬鹿言うな。そんなこと聞かねぇよ。ただ、目の前で人間が死にかけているんだ。助けるのが人間ってものだろうがよ」
仲間の兵士が言いました。ですが、ドイツ将校は身を固くして僕たちを睨め上げていました。兵士が僕に耳打ちをしました。
「善意もまともに受け取れねぇのか。ああはなりたくねぇな」
僕は途端に面倒になりました。
―お前から情報を取る為に生かしただって?冗談はよしてくれよ。
なるべく尊大に胸をそらして、足元のドイツ将校を見下しました。
―はっきり言うぞ。お前はもう助からない。ひどい傷だからな。それでも助けた。1本50ルーブルもするモルヒネを3本も打ってだ。助からない人間にここまでしたのは、ただ俺たちに善意があったからだ。それを戦争の為に、なんてつまらない思い込みをするのはよせ。
周りの兵士たちがぎょっとした様子で僕に視線を向けました。自分でもなんだってそんな言い方をしたのかわかりませんでしたが、死にかけになりながらもまだ敵味方で語るドイツ将校に腹が立ったのです。彼は何回か瞬きをした後に
「フフフ」
と笑い声をあげました。これまでの様子からは想像が出来ないような軽い声でした。
「随分とはっきり言ってくれるじゃないか。そうかい、俺は死ぬのかい」
また笑い声をあげました。
周りの兵士たちは気味悪げな視線を向けました。
―何を笑っている。頭でもおかしくなったのか?
「そうかもしれない。いや爽快な気分だ。モルヒネのおかげか?」
―さあな。笑って死にたいならもう何本か刺してやるぞ。
「いや、俺だけ楽に死ねるのも部下に申し訳が立たない。このままでいいから、話し相手になってくれないか」
―湿っぽい遺言は聞かねぇぞ。
僕はあごをしゃくり、彼は微笑みながら言葉を交わし始めました。それは肩肘を張らない、まるで友人との会話のように軽やかなものでした。
故郷の話や家族の話、時節の話などをぽつぽつと話し、僕は時折相槌を入れながら聞いていました。走馬灯でも見ているのでしょうか。次第に話のつながりがあやふやになっていきました。
最期の時が近いと感じました。何か死にゆく彼へ言葉をかけてやりたいと思いましたが、何を言えば良いのかわかりませんでした。そこで僕は臨終の祈りを捧げようとしました。
―俺の顔が見えているか。いや見えていなくてもいい。お前はもうすぐ死ぬ。それまでに臨終の祈りを行う。今から言う言葉を復唱しろ。
薄目を開けたドイツ将校はじっと僕の顔を見つめていました。僕は彼の手を乱暴に掴み、耳元でできる限りの大声を張り上げました。
ですがドイツ将校は祈りの言葉を復唱しません。握った手も力なく垂れていました。
もしや死んでいるのか、と思いましたが、胸は動いていました。
―おい、もうダメか。
そう尋ねると、いきなり彼は目をかっぴらき
「やめてくれ、そんな綺麗な言葉は聞きたくない」
握る手に力が込められました。目が見えていないのか、瞳の焦点は合っていないようでした。
「政府の馬鹿ども…俺が人を殺したのは仲間を守るためだってのに、それをくだらないプロパガンダの看板にしやがって」
戦塵の舞う空へ叫びました。
目が見えていないのか、瞳の焦点はあっていませんでした。
「俺は国の為に戦ったんじゃない。仲間のために、己の為に命を懸けたんだ。ここで死ぬのも犬死じゃない。仲間を守って死ぬんだ。それなら本望だ」
一息に叫び、そして大きく息を吐きました。そして次第に、呼吸が浅くなっていきました。
皆、ドイツ将校に気圧されていました。息も絶え絶えだというのに、不思議と彼の命はまだずっと続いていくように僕には思えました。
「感謝するソビエトの兵士よ。俺が死んだら持ち物は全部くれてやる。ただの人間として葬ってくれ」
そう言い残して、彼は息を引き取りました。
誰一人として言葉を発せない中、僕は恥じていました。
彼の、ドイツ将校へかける言葉が見つからず、中身の無い祈りの言葉をかけて満足しようとしたことに。
知らず知らずのうちに、神の権威に縋っていた自分のことが酷く恥知らずのように思えました。
ドイツ将校の死に際の言葉が、ずっと耳の中で響いていたような気がしていました。
彼の衣服や持ち物は言葉通り、あの場にいた者たちで分けました。僕は真っ白なマフラーをもらいました。