退くものは撃つ
―ルカ准尉、現着。遅くなり申し訳ない。
軍規通りに敬礼をしました。
ですが、少佐は僕の挨拶は聞こえていないのかこちらを向こうともしませんでした。
もしや、このまま無視するつもりかと腹立たしく感じました。
ならばよし、少佐の間近くで無視できない声を出してやろう、と歩を進めた時、少佐が割れんばかりの大声を発しました。
「退くなぁ、退くやつは射殺するぞぉ」
敵陣に向けて発せられました。
その方向を見ると、数名の兵士がほうほうの体でこちらに向かって走ってきていました。
敵陣に背を向け、泥だらけの軍服でした。
退却してきたのだとすぐにわかりました。足がうまく動けないのかこけつまろびつしながらでした。
僕の知らない顔ですので、元々は別の隊の所属で、振り分けられた生き残りの兵士だったのでしょう。
無論、少佐の言葉は脅しだと受け取っていました。仲間が仲間を撃つなんて聞いたことありませんから。
ただ、もしかしたらという思いはありました。
NKVDがこれまでしてきた事を思い返せば、あり得ない話ではありません。
「それ以上近づけば撃つぞぉ」
近くの兵士たちが銃を構える音がしました。それから、少佐の声が僕の耳に届きました。
「やれ」
さほど大きな声ではなかったのに、確かに聞こえたその声から刹那、隊列の兵士の銃から火が吹きました。
そして、退却してきた兵士たちはバタバタと倒れました。
ーなにしやがる。
声高に僕は叫びました。
声に反応した少佐がこちらを向きました。
「退却は許さん。臆病者など生かしても戦力にはならんわ」
酷く冷たい声でした。
ー同じ赤軍の兵士だろう。自ら兵力を損耗させてどうする。
「一度逃げた兵士はもう戦えん。近々死ぬに決まっている。ならば、こちらで殺してやろうというだけの話だ」
古今東西、士気を上げる方法は己の勇猛さを見せて引っ張りあげるか、恐怖によって皆を押し上げるかのどちらかです。
前者は兵士に判断を委ねるので、それまでの兵士たちとの信頼の上に成り立つ方法です。言うなれば時間がかかるのに、不完全な方法です。
後者については、兵士を追い立て逃げ場をなくすことで無理矢理、敵陣へ向けて突撃させようとするものです。
人間の本能に訴えかけるので、それまでの交友や信頼は関係ありません。それ故に、短期間で効果的と言えます。
士気向上という意味では僕もNKVDも目的は似たようなものでした。
違いは僕が前者を選び、NKVDが選んだのは後者というだけです。
人間のすることじゃ無いと思いましたね。
何故、命からがら生き延びた兵士を殺すのか、そこまでしなければならない戦争とは何なのか、少佐に問いたくなりました。
何よりも恐ろしいのは味方を殺しても眉一つ動かさないNKVDの兵士達です。
もしや、感情を押し殺しているのでないかと思いましたが、そもそも感情自体が宿ってないように見えました。 虫でも殺しているかのような無表情でした。
戦場にいると何かに取り憑かれたような兵士を見かける時があります。
兵士が殺しているのではなく、兵士に取り憑いた何かが、兵士の体を操っているように見えるのです。
兵士を殺し、捕虜を殺し、自らも殺そうとしているのです。
見るからに恐ろしげですが、それでも、そこに何らかの心の色は見えました。
取り憑いたものが何かは分かりませんが、悪魔にも悪魔の心があるだろうということです。
悪魔の心が熱を持った恐怖ならば、仲間を殺す兵士の心は氷のように冷たい恐怖でした。
「何をしている?」
少佐がぶっきらぼうに言いました。
「お前は後方にて待機のはずだ。何故、ここにいる」
少佐は腰のホルスターに手を当てていました。何か誤ったことを言おうものなら即座に拳銃を抜く気でした。
僕は半歩体を引き、腰を落としました。まるで、敵と相対した時のように、です。
それから、ここにいる理由について、僕は考えました。嘘をつくつもりは毛頭ありませんが、一から話せば、あまりに長すぎますし、僕が勝手に決めたことですので、理解してもらえるとは思っていませんでした。
ー戦うために。
そう答える他にありませんでした。僕の答えに少佐は何を思ったかわかりません。
目の奥でわずかに輝く瞳がぎらりと光っていたのを覚えています。
「銃も持てない奴が何を言う。お前ではただ死ぬだけだ」
侮るような声音で言いました。この問いにはすぐに答えられました。
ー仲間を助けられる。俺が助けた兵士は敵を殺すぞ。
嘘ではありません。どうあっても僕の目的には人殺しが伴いますから。
一瞬、将校の目が細くなりました。小馬鹿にしているのか真意は分かりませんでした。
「ならば、戦わせてやろう。ただし、我々の一歩でも前に出たら、退却は許さん。弾けば撃つ。死にたくなければ戦い進め、お前に残されるのは敵陣の奪還か、死だ。いいな」
炯々と光る瞳は怪しさを醸し出し、僕の怯える心を見透かしているかのようでした。
「認識票をよこせ。死体漁りは面倒だからな」
ずい、と僕の鼻先に手を伸ばしました。少佐は僕が生きて戻れないと思っているようです。帰ってこなければ死んだものとして認識票を提出するつもりのようでした。
ー他の兵士の認識票も集めてあるのか?
僕は首から認識票を外しました。
「あぁ」
頷きながら雑嚢から小さな麻袋を取り出し、口を開きました。
首から認識票を外した僕は、少佐が持つ麻袋の中に入れました。チャリ、と鎖がぶつかる音がした時、ようやく仲間の元へ帰ってきたと実感し、心が熱くなりました。
ー1ついいか?
「なんだ?」
ー俺たちの具体的な任務は何だ?
考えるようなそぶりを隊長は見せ、答えました。
「仮設中隊の任務は敵を惹きつけることにある。高地陣地へ敵兵を釘付けにしておいて、他所にて残存兵力を持ってして突き破る」
ーならば、我々は捨て石か。
「違う、我が軍勝利のための布石となるのだ。そのような言い方をするな」
冷たい目で睨みつけられました。
「怖気たか。なら去ね。はなから貴様のような牧師風情など当てにしておらん」
その言い方が癪に障りました。
僕は歩を進めました。兵士の間を横切り、塹壕から飛び出しました。彼らの銃口の前に身を晒しました。
もう後戻りはできません。
ー牧師風情にどこまでのことが出来るか、ご覧に入れよう。
そう言い捨て、僕は脱兎のように敵陣に向かって駆け出しました。脱兎と言いながら敵へ向かっていくのは奇妙な言い方ですね。