逃がさない
とにもかくにも奪還作戦の決行まで時間はありません。おそらくこうしている今も作戦は考えられ、配置は組み上げられているでしょう。
手遅れになるまでに急ぎ中隊の士気をあげ、後方に下げられないようにしなければなりませんでした。
結局のところ、僕がこれからするべきことは何も変わっていませんでした。生き残った中隊の苦しみを解くためには彼らを戦わせなければならず、また、戦列に加わる為には士気を高めなければなりません。
兵士たちの戦意を向上させるだけで、2つの問題が解決できる。
問題とそれに対する解決策が明確にわかっていれば、行動する意思も勝手に湧いてきます。
わざわざ中尉に許可を得る必要はありません。彼に仲間たちを戦わせるための理屈を説明したところであの様子では聞く耳も持ってくれないでしょう。
いざとなれば直接、大佐にでも現場の責任者に直談判してやろうと企んでいました。
中隊の元へ戻る道すがら、頭にあるのは彼らをどうやって奮い立たせるか、ということでした。
僕の本来の職務にようやく取り組むことになったのです。
どうしたものかと思案していました。
あれやこれやと頭の中で士気をあげる方法を想像しては現実的でないと思い、新たな策を練っていました。
今ならわかりますが、兵隊の士気を上げるのにあれやこれやと理屈を並べている時点で上手くいくわけありません。
極限状態の人間の思考を先読みすることなど到底出来ず、それ故、安易な推量は相手の心を痛めつけることになるのです。
結局、人間の心を動かすのは人間の心だけなのです。赤心から出た言葉にこそ重みが伴うのですから。
あれこれと思考しているうちに、ふとしたことに気が付きました。塹壕の中を、僕を追い抜くようにして走っていく兵士たちが大勢いたことです。 皆、何かを追うようにして掛けていくのです。そのさきには包帯所がありました。あれほど大きな戦闘の後ですし、包帯所に人が集まるのは当然のことでしたが、兵士たちの顔に意地の悪い笑みが見えました。
火事場に現れ、あれやこれやと揣摩臆測する野次馬の下卑た好気の笑みでした。
嫌な予感がしたので僕も兵士たちの後を追うように走りました。
次第に兵士同士の隙間がなくなり、鮨詰めのような状態になり、中々前に進めなくなりました。
また、時折、怒鳴り声が僕の耳に届きました。
一瞬開いた人だかりの隙間から見えたのは、青い顔をした中隊の皆と、その前に立ちはだかる何人かの兵士達でした。
これはいったいどうしたことかと思い、人の波を縫うように進みました。 僕が無理矢理進んだものですから幾人かの兵士達からきつい目を向けられました。その中の1人を掴まえて聞きました。
ーこれは何の騒ぎだい。
「先の戦闘の生き残り同士で喧嘩してんだよ。いや、喧嘩じゃねぇな。戦友が死んだのはお前らのせいだとか何とかしょっぱいこと言ってボロクソに貶しているらしいぜ」
兵士は嘲るように笑いました。
ー何だって。
僕はそう言うと、人混みをかき分けて、前へ、さらに前へと進みました。 人波はまるで壁のように厚く重かったですが、体を縦に横にとしなやかに動かしながら、その隙間をなんとか抜けました。
やがて、ぽんと集団から抜け出した僕の前には、数人の兵士の背中が見え、その背中越しに中隊の皆が首を垂れている姿が目に入りました。
立ちはだかる兵士たちの顔は見えませんでしたが、甲高い声で捲し立てるような早口に怒気を孕んでいました。
その話を聞いていると、彼らは先の戦闘で亡くなった兄弟や親友を思う者たちだと分かりました。
そして、彼らは「仲間が死んだのはお前たちのせいだ」と、中隊の皆を鋭く指差しながら非難していました。
うんざりしましたよ。そんな事を話したところで死人が生き返る訳もないだろう。それどころかただ士気を下げるだけじゃないか、とね。
ーおい、何もそこまで言うことはないだろう。
僕はいつのまにか声を出していました。
激昂している兵士たちが首をめぐらし、僕の方へ向きました。
その時、ようやく彼らの顔が見えました。目は涙で潤み、体は怒りに震えていました。怒りながら悲しんでいました。
「誰だ、貴様は」
胡乱な眼差しをぶつけられました。
ー第三中隊所属従軍チャプレン、ルカ・マキシモヴィッチ・ブラウスパーク准尉だ。
僕が名前と階級を名乗ると、兵士たちは額にしわを寄せました。
この反応は僕のその後の軍人生活で度々、向けられることになりました。チャプレンとは一体何なのか、という反応です。
とっさにうまい説明も出来なかったものですから、極めて端的に答えました。
―兵士たちの精神的・宗教的な支援を目的とした聖職者だ。
僕の言葉に兵士たちは目を吊り上げました。
「なんだって聖職者だって、神に看取られながら死んでいったってのか」
「ふざけるのも大概にしろ。戦友たちは誰にも看取られず、声も無しに死んだというのに、お前たちには聖職者までついていたのか」
怒鳴り散らされ、思わず身震いをしましたが、理由も言わずに頭ごなしに怒鳴られていることに僕は腹が立ちました。
ーこいつらだって仲間が死んだんだ。苦しいのはお前達だけではない。
「それは違うぜ。貴様らが呑んだくれている時に俺たちは銃弾の下を潜っていたんだ。貴様らが女々しく神に祈っている時に、俺たちは人を殺して、殺されてきた。これまでに多くの仲間が死んだんだ。この一件だけじゃねぇよ。それが何だ、一度仲間が大勢死んだだけで同じ立場だって?それはおかしいだろうがよ」
僕は言葉を失いました。それまで他の兵士の事をとんと失念していました。そうです。僕たちは遠目に見える戦いを映画の一幕でも見ているかのようにしていたのでした。勝ち負けに賭けをしていました。そこに人の命が預けられているなんておくびにも思わなかったのです。
僕たちがそうして戦う人々を傲慢に、憮然に神のように見下ろしていた時、彼らは血に濡れたまなこで僕たちを恨めしげに見上げていたのかもしれません。
「黙るんじゃねぇ。何か言って見せろ。納得させて見せろよ。死んだ仲間何人分がお前達の命と対等なんだよ」
襟首を掴まれ引き上げられました。つま先立ちになった僕の顔のすぐ近くには涙を浮かべた瞳が見えました。瞳に僕の顔が映りそうでした。
不思議とその顔には怒りの気だけでなく、親を失った迷子の子供のような心許なさが垣間見えました。
彼も僕たちと同じでした。仲間を失った悲しみから僕ら中隊を貶していましたが、どれほど罵詈雑言を吐こうとも、友を失った思いは減らず、死んだ仲間が無駄死にではないと信じたかったのでしょう。
その思いが僕たちへの怒りと絡み合い、友の命を賭けるに値する人間出ないといけないと思い込んでいたのです。
およそ、奇妙な理屈の上に成り立っている考えですが、それでも彼はその思いを頼りに生きていました。
胸が重くなりました。中隊の死んだ仲間のために戦わなければと思っていたのに、気がつけば前線で死んだ仲間全てのために僕たちは戦わなければならなくなっていました。
口で誤魔化すのは簡単ですが、目の前の怒りながらも縋るような瞳に気軽なことは言えませんでした。
「聞いたぞ、お前達は後方に下がるそうじゃないか」
これまでの怒鳴り声とは異なり、腹の底から響くような、恨めしい声でした。
C中隊の撤退はまだ正式に伝えられていないはずですが、どこからか情報が漏れたのでしょう。
「逃げるのかよ。散々好き勝手やって、仲間を殺されて、それでも逃げるのかよ。腰抜けどもめ」
兵士は地面を蹴り、泥が中隊へ降りかかりました。
僕は足に泥を受けながら、まずい、と思いました。C中隊の皆が撤退の事実を知ってしまったことが、です。
撤退すると知った兵士たちが戦意を抱くことはありません。戦うしかないと思えばこそ、何とかしてその気にさせることはできるかもしれませんが、逃げられるというのにわざわざ戦おうとするような馬鹿はどこにもいません。
ちらと横目に中隊の皆を見ました。
突然見えた光明に皆が歓喜の表情を浮かべているのじゃないか、表情に出さずとも、目顔に希望の光が見えるんじゃないか、そう思いました。
ですが、彼らは僕の予想を裏切りました。
皆、伏し目がちにうなだれ、沈んでいます。撤退の話を聞く前よりも、明らかに沈鬱な表情が濃くなっていました。
その表情から僕は気づきました。中隊の生き残りたちは、死ぬのを恐れていない事に。
たったの一瞥でそんなことがわかるわけがないと思うでしょう。でも、これだけは確信を持って言えます。彼らの心は僕の心で、僕の心は彼らの心だったのです。生死の境を共にした僕たちの心は紛れもなく一つでした。
それは目の前で涙を浮かべる兵士も同じです。それは推量ではなく、確かな事実です。
C中隊の皆は悩んでいました。死ぬべきか生きるべきか、体は生きる事を望み、魂は死ぬ事を望むという矛盾を抱えた彼らは、きっとどちらを選んでも後悔はないでしょう。
死のうが生きようがもう彼らにとってはどうでもよく、時間が経てば世界が自分の道を決めてくれるだろうと思っていたのです。
選ぶ事自体が億劫になっているのでした。この上、まだ彼らに悩みを与えるのは酷な話です。
僕は怒る兵士に向き直り、声を大にして答えました。
ー俺たちは次の戦いで必ず功績を上げる。貴様らの戦友の命に報いた名誉を必ず掴み取り、墓前に添えてやる。それでよいだろう。
しっかりと両の目を据えて僕は言いました。きっと、そこまで断定して言葉を返してくると思っていなかったのでしょう。怒る兵士は目を丸くして何度も瞬きをしました。
中隊の皆は伏していた頭を上げて、同じように目を丸くしていたと思います。背中に多くの視線を感じましたから。
目の前の兵士はそれまでの興奮した様子とは打って変わって、落ち着いた様子でした。すると、おもむろに僕の両肩に手を置きました。
「だったら頼むぞ。必ずだ。必ずあいつらに報いろ、無駄死にだけは許さん。逃げるなどもってのほかだ」
僕の両肩を掴み、強く握りました。
ーあぁ、必ず生かされたこの命の価値を見せてやる。必ずだ。神に…いや、死んでいった仲間にかけて。
僕の言葉を聞いて、兵士の瞳の奥が少し緩んだように見えました。
唐突に人だかりの後方から甲高い声が聞こえてきました。騒ぎを聞きつけて将校がやってきたのです。蜘蛛の子を散らすようにやじうまの兵士たちは塹壕のあちこちに駆けていきました。兵士は僕の言葉に何も言わず、仲間と去っていきました。
僕の言葉が彼の耳にどのように届いたのかは今も知りません。根拠のない妄言だったのか、厳粛な宣誓だったのか。ただ、去る後ろ姿はいくらか胸を張り、視線をまっすぐ向けていました。
首を巡らせれば中隊の皆が僕に視線を集めていました。
ー貴様らが決められぬのなら俺が決めてやる。責は俺が負うてやる。俺の名の元においてこの行いは正当だ。貴様らはただ恨みを晴らせ、あそこには仲間を殺した敵がいる。あの大地には仲間の血が染みている。我らの国だ、我らの土地だ。仲間が死んだのは鬼畜外道が跋扈するドイツではない、偉大なるソヴィエトの大地だ。
理屈も何もありません。ただ頭をよぎる思いをひたすらに言葉に出しました。結果それがよかったのです。
先にも言いましたが、僕と中隊の皆の心は繋がっていました。口先3寸で檄を飛ばしたところで本心から出ない言葉はすぐにばれてしまいます。
僕の言葉を聞いて、彼らは目の色がゆっくりと変わっていきました。その目を僕は一つ一つ見返しました。
僕があのようなことを言ったのは、悩んでいるならば背中を押してやろうという上等な心持ちではありません。戻ることが出来ないところまで引っ張り込んでやろう、そのような心持ちでした。
ー復讐だ。1つ奪われたのならば、2つ奪え、憎しみの連鎖を断ち切りたければ容赦はするな。恨まれたくなければ相手を殺し尽くせ。
心持ちと相まってまるで悪魔の言葉のようですが、人間を救おうとするのならばそれくらいの覚悟が必要です。とにかく徹底的にするのです。
そうでなくてはきっと先の人生で悔悟が生まれるに決まっていますから。
ー貴様らはなんだ、抗うことを忘れた犬畜生か。おそれ怯え、命にすがって誇りすらも投げ売った家畜か。それとも、身ひとつで相手の喉笛に食らいつく誇りたかき狼か。
「狼だ」
僅かの間も置かずに声が返ってきました。声の元は中隊の兵士でした。鈍く光る瞳は僕を睨め上げていました。
彼の声に応えるかのようにぽつぽつと「狼だ、狼だ」と声が湧いてきました。次第にその声は中隊全体に広がり、一つになりました。
「憎きナチ公をぶっ殺してやらぁ」
「仲間の敵だぜ、ナチ公の首をヒトラーに届けてやる」
そんなおっかない声が聞こえてきました。それまで胸前に抱え込んでいた銃を天高く突き上げ、皆が叫んでいました。声ではなく獣の叫び声のようでした。
僕はその姿を眩しそうに目を細めていたような気がします。