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死体を薪に、兵士よ進め  作者: かきあつ
前線奪還戦
1/32

〈1992年 3月某日 ロシア北東の街にて〉 

初投稿になります。


読んでいただき、感想をいただければ励みになります。

よろしくお願いいたします。

 よく来ましたね。外はひどい雪でしょう。何でも、今季1番の冷え込みだとか。そんなに畏まらなくてもいいですから、ほら、暖炉で手でも焙りなさい。


 温まりましたか?我慢はしてはいけませんよ。いくら若いといっても冷えは万病の元ですからね。かくいう私も、少し前に肺をやりましてね。しばらく酒は控えるよう医者に言われておりますが、何をそんなこと、寒さで病気になるなら、温めれば良いのでしょう。ならば酒で温まるのが一番です。アルコールで殺菌もできますしね。

 あなたもいかがですか。この日のためにとっておきを開けたのです。さぁ、さぁ。


 いい呑みっぷりです。この年になると酒の相手もいなくなって寂しいものです。街の酒場にでもいけば話し相手の1人もいるでしょうが、流石に司教が公衆の面前で酒を呑むのも憚られます。

何より、シスター達が口うるさくて構いません。寝酒が残っていて、翌朝にその匂いでもさせようものなら、孫くらいの年差のシスターに諫言されるのは面目が立ちません。

 ですので、僕が呑むのはこの部屋だけです。


 ああ、どうもお名刺頂戴します。へぇ、記者さんと伺ってはおりましたがまさか、役職付きの方とは思ってなかった。お若いのに大したものです。

 申し遅れました。私、サン・デロス教会で司祭をしておりますルカ・マキシモヴィッチ・ブラウスパークと申します。歳はいくつとは言いませんが、すでに70の峠は超えています。

どうですか?そうは見えないでしょう。60手前と言っても信じてもらえると思います。昔は女性と間違えられるような美少年だったんですよ。もっとも最近では苦労をしていないから若いままだ、と上のものからお小言をもらってしまいますが。

 とと、こんな話を聞くために来たのではないのでしょう?

 それで、何を聞きにこられたんですか。ロシア連邦の誕生についてですか?それとも、最近うるさいテロリズムについてですか?語るのはやぶさかではありませんが、僕のような旧弊には大したことは言えませんので、あまり期待しないでくださいね。


え?従軍していた時?…貴方一体どこからそんな噂を聞いてきたのですか。いえ、言わなくてもいいです。噂の元への義理もありますでしょうし、さて、困りましたね。迷惑とは言いませんが、語るには少し…素面だとつまらない。もう少し、酒を呑ませてください。

話すに話しますが、あまり面白い話ではありませんよ。記事になるほどの価値があるとは思えませんし、生まれたばかりの国に暮らす人たちは昔話なんて興味ないでしょう。

 それでも聞きたいんですか?貴方も変わった人ですね。



 話すと言っても長々と前置きを語るのは不本意です。年寄りの昔話はあれやこれやと話が長くなってしまいますし、聞かされている方は疲れてしまいます。

 ですので、話しながら注釈を加えていくとしましょうか。話の流れは悪くなるかもしれませんが、どうか堪えてくださいね。


 貴方の言う通り、僕は第二次世界大戦に参戦していました。無論、宗教家でしたので一般の兵士ではなく、従軍牧師という役割でしたがね。

 今でこそ名の知れた役職ですが、ソビエトではその当時は黎明期でして、僕はその嚆矢と言えます。

 従軍牧師自体はかなりの昔から世界にはありました。今でこそ政教分離が常としておりますが、その昔は教会が集会所となり、政が執り仕切られ、裁判も行われました。戦争前には兵士たちの軍事教練の場としても使われていましたから。

 米国では独立戦争時から従軍牧師の記録が残っているくらいですからね。海を挟んだ日本ではええと、何と言いましたかね。僧兵といって坊主が兵士をしていたそうです。世界で見れば戦争に聖職者が参加することは史上で異例のことではありません。


 僕たちの参戦を後押しした理由は、前線兵士達の精神状態が芳しくなかったのです。とっとと戦いさぱっと死ねれば楽なんですが、前線は泥沼の塹壕戦でした。お互いが壕に隠れて撃ち合いしてるのですから戦況は膠着し続けていました。

 こんな話があります。東部戦線では終戦までに数十万人が命を落とした激戦地がありましたが、前線自体は開戦前と比べて数百メートルしか移動していなかったのです。たったそれだけのために死んだ人間達は不憫ですね。

 生きるか死ぬかわからない劣悪な環境に長時間いると誰だって気が狂います。いや、生きるか死ぬかはさほど重要ではありません。生きようが死のうがどうでもいいけれど、はっきりさせてほしいと思い始めるのです。

 皆の合言葉が「突撃はまだか」だったとしても、何も不思議ではありません。

 そうした兵士達の士気を維持することが、僕たち従軍聖職者に課せられた役割でした。


 僕は普通の兵士と同じように訓練を積んではいません。

 どうにか聖職者を戦地へ送り込むのが急務の課題だったので、簡単な医術の講習を受けただけでした。それでも、僕は階級を得ました。それも准尉です。最も下といっても将校に変わりありません。僕は簡単な教練を受けただけで、いきなり将校になれたのです。

 これがどれだけ異常なことか、兵士たちにとって噴飯ものか。

 役職についている貴方ならわかるでしょう。仕事をしているといきなり大学を出たばかりの若者が上司になるのです。文句の一つも言いたくなるのが人情というものでしょう。

 それを一国の軍が認めたのです。戦争という非日常でなければ容認されなかったでしょうし、それほど問題となっていたのです。


 仕事柄、多くの人と僕は関わってきました。それこそ星の数ほどですし、実際に星になった人間も数多くです。

 歳をとっても本当に大切な記憶は忘れないと言いますけど、あれは半分嘘です。それじゃあ僕は苦しくって人生の半ばで狂い死んでいますよ。

 正確には都合の良い記憶と解釈に上塗りされるのです。ですので、これから僕の言葉は話半分に聞いておきなさいね。

 

 

 これは僕が初めて着任した戦場での話です。1942年の春頃、正確な日にちはもう忘れました。1942年というと、あの独ソ戦が始まって1年が経過した頃です。

 独ソ戦、僕達の間では大祖国戦争という呼称のほうが通りが良いです。1941年に突如としてドイツが進撃してきた時には国中が混乱していました。なにせ、第二次世界大戦中といっても主戦場は西ヨーロッパでした。破竹の勢いで侵攻するドイツと押しまくられる連合軍、そんな構図を対岸の火事でも見るかのように呑気にしていたら、いきなり風に乗って火の粉が飛んできたのです。それは驚きますよ。

 それに、ドイツとソビエトは不可侵条約を結び、外見上では友好関係にあったのです。いくら戦争中といってもそれを無視するようなことはないだろうと、皆が高を括っていたのです。

 その結果が、開戦からわずか4ヶ月足らずで首都モスクワまで迫られたのです。冬の到来がなければ十中八九ソビエトは敗北していましたよ。

 これはそんな危機を乗り越え、冬が終わり春を向かえた頃の話です。


 先に話しておきますが、これから話す昔話には後世に名を残すような人物は出てきませんし、有名な戦いに参加した話でもありません。

 あの当時、どこにでもあった戦地の風景とそこで生きた名もなき兵士たちの話です。世のため人のためという説教臭くて、漠然と不鮮明な話ではなく、とても個人的で小さな話です。期待外れかもしれませんが、どうか僕の戯言くらいに思って聞いていてください。



着任先はロシア南部、コーカサス地方の工業都市ヴォルゴグラ―ドから更に南西へ20キロほど離れ、ドン河を超えた先のゴルヴィンスカヤという丘陵地帯でした。

聞いたことありますか?そりゃないでしょうね。今となっては麦畑が広がるばかりの田舎町ですし、観光といっても近くにヴォルゴグラードがあるせいで、そちらにばかり目が行くものですから。

 ヴォルゴグラード、この名前は僕たち年寄りには慣れません。当時の名前ではスターリングラード、そうです、あの酸鼻を極めた攻防戦が行われた都市です。

 ヴォルガ河西岸に広がるあの街は、近傍に油田があり、戦争中は軍需都市として重要な拠点でした。そこを落とすことでソビエト軍の武器供給を止め、ジリ貧にしてやろうという意図があったそうです。両軍にとって戦争の趨勢を決める都市であるだけに、攻防戦は苛烈を極めました。

戦地へ向かう途中の列車の中から遠目に都市を見たことがあります。


 河を挟んで見た都市からは幾筋もの黒煙が立ち昇り、沿岸部に設置された高射砲陣地は絶えず火を吹いていました。まるで、街全体が開いた地獄の釜のように思えました。

 兵士たちは列車を降ろされるとすぐに船に乗せられて、対岸の都市船着場に送られるのです。列車の中では意気揚々としていた兵士たちが、街を見た途端に青い顔で言葉を失っていました。

そんな様子の兵士たちが船に乗せられていくのは、まるで死人達があの世とこの世を隔てる河を渡っていくように見えました。


 ゴルブィンスカヤはそんなスターリングラードの北側側面へ回り込もうとするドイツ軍のつっかえ棒として兵士たちが配置されていました。

 丘陵というからには草木萌ゆる様相を想像していたのですが、いざ到着してみると草木なんてありゃしない。世界一色が焦茶色の泥まみれでした。

 遠目に地面と同じ色をしたものが地面から突き出ていると思えば、それは焦げた樹木でした。

 仲間から聞いた話ですが、開戦時に酷い戦いがあったらしく、戦況が膠着した時には草木は焼け落ちてしまったそうです。

 また、雨が多かった。それも身を凍させるような冷たい霧雨でした。不思議ですが、こうして思い返しても記憶は雨ばかりです。

 草木のない地面は水を吸ってとろけ、どこもかしこも泥だらけでした。

 そうした泥濘地の中にのっそりと立ち上がった高台こそが、僕たちが守る陣地でした。

バケツをひっくり返したような均整の取れた形で、頂上は比較的平面になっていました。そこに砲兵陣地が敷かれ、敵兵と相対する南に向けて、数口の砲が向けられていました。頂上から麓にかけて蛇が巻き付くように、塹壕が伸びており、中腹では機関銃陣地が等間隔で配置されていました。この機関銃同士の間に歩兵が配備され、麓から押し寄せる敵に向かって射撃をするのです。

 塹壕は深さが2メートルほど、幅は1.5メートルくらいでした。土の壁には板と木杭で補強されていました。また、土の壁の上には土のうが積まれており、その隙間が銃眼として使われるのです。底と横壁との境目には段差が築いてあり、そこに立てば、ちょうど銃眼の位置に兵士の顔の高さに銃眼がつくようになっています。

 塹壕というと不衛生極まりない場所のように喧伝されておりますが、あれは真実ですね。大雨が降れば内部は水に浸されますし、冷えた泥は僕たちの体温を容赦なく奪っていきます。それにあの憎きネズミどもには辟易したものです。とにかく、塹壕の生活とは敵兵よりも自然との戦いと言ってもいいくらいのものでした。

 それが僕の配属されたソビエト赤軍南部師団第7歩兵大隊C中隊の防衛地点でした。

次回は10/28に投稿予定となっております。

よろしくお願いいたします。

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