二章 ——夢幻の終焉——
◆
『……奈緒』
どこからか声が聞こえて、ふと気が付いた。さっきまで室内にいたはずなのに、確かに土を踏んでいる感覚がある。辺りを見回すと、春も半ばのはずなのに何故か真っ白な雪が積もっていた。
「うそ……」
しかし、そんな異様な光景を気にしている場合ではなかった。聞こえてきたのは、もう二度と聞けないはずの声。きっとこれは現実ではないと心のどこかではわかっているのに、足が勝手にその声の元を辿ってゆく。息を切らしながら必死に走った先には、ぼんやりとした輪郭だけが浮かんでいた。
『やっぱり、あなたは戦いに向いてない』
「————ああ」
これまで何度脳裏をよぎったかわからない、戒めにも似た言葉。それを聞くと、蓋をしていた記憶を嫌でも思い起こしてしまう。紙の上に零れた水滴が少しずつ滲んでゆくように、胸の奥に鈍い痛みが広がってゆく。
やはり、ここは現実の世界ではないようだ。恐らく、昔の夢を見ているだけなのだろう。それに気が付いたからか、ぼやけていた意識が徐々にはっきりしてきた。とっくの昔に慣れたはずだった、気味の悪い生温かさが右腕に蘇ってくる。
『いや、向きすぎている……と言った方が正しいかな』
その言葉は、今ここにいる私に向けられてはいない。視界の奥には、朧げな輪郭がもう一つ。真っ赤な線が集まって、小さく形をなしている。それが誰なのかは、もう明らかだ。
『とにかく……もう二度と、刀を握ったら駄目。似たような長さのある武器もやめておいて。あなたが————人間でいるために』
『……うん』
幼い声が聞こえた直後、突然何かに吸い込まれるように身体が浮かび上がってゆく。やがて強い光が視界を覆い、思わず目を閉じてしまった。
◆
「うわっ!」
「わあっ、何ですか!?」
来亜の声に驚き、閉じていた目を開く。数秒間そのまま固まった後、自分の右手が来亜の細い腕を掴んでいることにようやく気がついた。妙に力が入っていて、彼女のコートの袖に皺が寄っている。
「……あっ!? ご、ごめんなさい!」
「別に構わないが……君、いよいよ人間離れしているな」
私が慌てて手を離すと、来亜は袖を軽く振って形を直した。どうやら気付かないうちに眠ってしまっていたらしい。その上、悪夢とまでは言わないが嫌な夢を見てしまった。
「うーん……」
「それよりも、だ」
来亜はおもむろに手を出して、複雑な気持ちを誤魔化すように伸びをする私の額を中指で弾いた。こつ、と爪が骨を叩く音が響く。
「いったあ!」
「勉強を教えてくれと頼んだ身で、よくもまあ居眠りなんかできたものだな」
「す、すみません……」
痛みを受けて、ようやく眠ってしまう前のことを思い出した。今日、高校生になってから初めて受けた定期テストが返ってきた。そして、その壊滅的な結果を見てすぐさま来亜に泣きついたのだ。
来亜は呆れたように溜め息をついて、机の上に置かれている私の答案用紙に視線を移した。最後の抵抗とばかりに点数欄のあたりにつけていた折り目は無慈悲にも消しゴムで押さえつけられ、どうにもならない現実がありありと示されている。
「大体、何がどうなったらこんな結果になるんだ……」
「その……ここ最近忙しくて、上手く気持ちを切り替えられなかったというか……」
実のところ、私は元々勉強が得意なわけではなかった。神土高校への入学が認められたのも、学力ではなく身体能力を買われたのがきっかけだ。それに加えて、今回は試験期間の直前に”白雪姫事件”の解決に向けて動いていたこともあり、色々と余裕がなかった。
たとえ悪魔を倒して人の命を救っても、赤点を取れば補習は免れない。現実は厳しい。ともすれば、悪魔よりも————
「はあ……まあ終わったことを嘆いても仕方がない。明日から補習なのだろう? それなら、今夜のうちにある程度は対策を進めておかなければならないね」
来亜の表情は、真剣そのものだ。それに、彼女はさっきから全く嘘をついていない。それが何よりも力強く、事態の深刻さを物語っていた。
「はい……」
「奈緒ちゃん、あまり根を詰めすぎるなよ」
騒ぎを聞いて部屋から出てきたアリア先生が声をかけてくれた。それを聞いた来亜は何度目かもわからない溜め息をつきながら、机の上に並べてあった私の答案用紙をまとめて手にして立ち上がった。すごく、嫌な予感がする。
「姉さん、そういう気休めはこの現実を見てから言ってほしいね」
「あっ! ちょっと先パイ、それだけは!」
私が立ち上がる頃には、既に先生は私の答案用紙を受け取って目を通し始めていた。血の気が引いていくのを感じ、膝から力が抜けて肩を落とす。もう私にできることは、ただ時が過ぎるのを待つことだけだった。
「……あっはっは!!」
答案用紙から目を離すやいなや、先生は声を上げて笑った。この状況を無事に切り抜ける術は、もはやどこにもない。
「さて、改めてご意見を伺うとしよう」
「緊急オペが必要だな」
先生はそう言って、微笑んだまま私の方を向く。その視線がじっと私を捉えた時、びくりと肩が震えた。
「お、終わった……」
「何言ってるんだ、これから始まるんだよ」
先生は飲み物を淹れて、来亜と一緒に椅子に腰掛けた。観念して、とぼとぼと机に戻る。そんな私とは真逆に、先生はすっかり乗り気だ。必要もないのに、手術前の医者のように手袋をはめている。
「では、オペを開始する」
「お、お手柔らかにお願いします……」
「Math」
「言うと思ったよ……ほら」
来亜は事前に察していたように数学の教科書を先生に手渡す。そうして冗談混じりに始まった勉強会は、当然の如く夜通し続く大手術となった。
「先生、順列って何ですか?」
「汗」
「はい」
アリア先生が声をかけると、すかさず来亜が汗を拭った。不本意ながら、早速出鼻を挫いてしまったらしい。先生の笑顔が少し引きつっている。
高校はおろか、中学校以前の範囲もろくに勉強していない。ほとんど一からの再出発だ。確かに先生の言う通り、これは始まりなのかもしれない。そう考えてみたものの、それにしてもやはり先が長すぎるように思えてならなかった。
「この、み……い……ぜん、けい? これなんて読むんでしたっけ?」
「……汗」
「……はい」
物悲しいことに、今この場で最もはっきり成長が見られるのは来亜だった。先生が声をかけてから、汗を拭くまでの時間が目に見えて短くなっている。
「えっと、魚類と哺乳類と、あとは……?」
「…………汗」
「…………はい」
心なしか、私より二人の方が早く疲れが見え始めたような気がする。しかし、日が昇る頃には皆等しく限界を迎え、ペンを取る手さえおぼつかなくなっていた。気が付くと出発する時間が迫っていて、ろくに身支度もしないままふらついた足取りで事務所を後にした。
「……それで、眠たくて補習どころではなかった、と」
「いや、ちが……そうですけど、違うんです!」
帰ってきてから数分も経たないうちに、あれよあれよという間に私は来亜の前に正座させられていた。真っ白なまま持って帰ってきたプリントが見つかったのが運の尽きだった。
「確かに眠たかったですけど、何だか普通の眠さじゃなかったというか……」
「嘘にしても拙すぎるだろう……別に怒っているわけじゃないから、誤魔化さなくていいよ」
来亜にはただの苦し紛れの弁明に聞こえたかもしれないが、違和感があったのは本当だった。補習の間、眠ってしまっていたのは私だけではない。それどころか、ほとんどの生徒が意識を失っていた。もちろん、眠っていたのが生徒だけであれば単に怠惰な生徒が集まっていただけだと納得することもできる。しかし、後半の時間には授業をしている先生まで眠そうにしていたのだ。
明らかに、何かがおかしい。だが、私が今こんな話をそのまま伝えても信じてはもらえないだろう。
「これは……きっと事件なんです!」
「……ほう」
どうにか来亜に聞いてもらおうと言葉を選んで投げかけた途端、彼女は神妙な表情を浮かべながら、話の続きを促すように顔の前で手を組んだ。予想以上の喰いつきぶりに、思わずたじろいでしまった。
「だから、えっと……今から、目撃者を連れてきます。少し待っててください!」
「その目撃者というのは……そこにいる人のことかい?」
「え?」
そう言われてふと目線を下げると、目の前に私のものではない影が伸びている。全く気付かないうちに背後を取られていたようだ。迂闊だった。もう間に合わないかもしれないと思いながら、拳を握って振り返ると、そこには誰もいない。ただ、背の高い観葉植物がその場に佇むように置かれているだけだった。
「なんてね、もちろん嘘だよ!」
「な……!」
来亜の方に向き直ると、彼女は満足げな笑みを浮かべながら私を見上げていた。その指が向けられた先には、小さな電灯が置いてある。その光から、観葉植物の影が私の足元まで伸びていたのだ。
「さっき照明を動かして、光の当て方を変えてみたんだ。中々新鮮だっただろう?」
「せ、先パイ……」
すっかり力が抜けた身体をゆらりと動かして、来亜のそばににじり寄る。そのまま不意をついて彼女を抱き上げ、その場でぐるぐると勢いよく回った。
「いい加減にしてくださーい!!」
「うおおおおおおおおっ!?」
のたうち回るように激しく抵抗する来亜を振り回していると、唐突に事務所の扉が開いた。入ってきたのは、今日の補習の担当をしていた瓜谷先生だった。人が来たからといって急には止まれないので、勢いのまま先生の前で三回ほど回ってしまった。
「えっと……何か邪魔しちゃったかな」
「こ、これは、その……!」
慌てる私の隙をついて来亜は腕から離れ、先生の前まで歩み寄ってからしとやかに一礼した。抵抗を諦め、ぐったりして両手を投げ出していたさっきまでの姿は見る影もない。
「とんでもない。むしろ助けていただきました」
「そ、そう?」
「それで……何かご用でしょうか?」
「ああ、それなんだけど……今日の補習で起こったことについて、話があって」
それを聞くと来亜はすかさず私の後ろに回り込み、背中を両手でぐいぐいと押してきた。さっきの仕返しも兼ねているのか、さも警察にでも突き出すかのように強引だ。
「奈緒に対する指導ですか?」
「そんな、寝てたのは私だけじゃないですよ!」
「そういう問題ではないと思うが……」
「いや、そうじゃなくて……生徒の居眠りについて、調査をお願いできないかと思ってね」
先生の言葉を聞くと、来亜はふむ、と顎を引いて考えるような仕草をしてみせた。図らずも実際に依頼人が来たことで、さっきの私の言い分についても考え直す必要があると判断したのだろう。来亜は先生を客間に招いて向かい合って座り、改めて話を聞いた。
「そういえば、空言さんの授業を担当したことはなかったね。私は瓜谷舞。あなたの担任の灰原先生と同期よ」
「瓜谷先生は、確か姉の担任でしたよね。その節はお世話になりました」
「そんな、私は何も……」
来亜が頭を下げると、瓜谷先生は焦ったように手を横に振った。ただの謙遜にしては少し過剰なようにも見えたが、来亜は特段気にすることなく顔を上げて本題に入った。
「それで……生徒の居眠りとは?」
「そう、最近一年生の居眠りがすごく増えていて……単なる風紀の問題というよりは、ちょっと異常事態じみているような気がしてね」
先生の話は、私が今日の補習で見た内容と概ね一致していた。授業中に居眠りをした生徒に話を聞いてみると、眠ってしまう直前の記憶がないと口を揃えて言うらしい。
「なるほど……その上、生徒だけでなく一部の教員まで眠ってしまっている、と」
「そうなのよ……かく言う私も、今日は眠たくて仕方なかった。補習が始まったくらいの頃から、特に酷くなっているような気がするわ」
瓜谷先生はそう言って、気怠げに息をついた。眠気に抗ったことで、余計に疲れているのだろう。来亜はその様子を見て、難しい顔をしながら口元に手を添える。
「思いの外、事態は深刻かもしれませんね。こちらでも調査を行ってみます」
「ありがとう。こんなことで生徒を頼ってしまって、情けないけど……」
「とんでもない、むしろこんな時に頼られない方が探偵の名折れというものです」
お任せください、と来亜は軽く胸を叩いてみせた。ちょうど話が終わりかかったところで、ずっと部屋で作業をしていたアリア先生が客間に出てきた。
「あら、お客さん……って、瓜谷先生!?」
「愛良さん……久しぶりね。元気そうで良かった」
「あ、あはは、どうも……」
アリア先生は少し硬い表情で笑いながら、瓜谷先生に向かって軽く手を振った。そういえば、アリア先生が名前で呼ばれるところを見るのは初めてだ。本名を隠しているわけではないが、ファンや世間の人々は大抵ペンネームで呼ぶし、私たちも普段から彼女のことを名前では呼ばない。
思いがけず恩師と会ってしまったからか、アリア先生はどこか気まずそうなぎこちない様子ですぐに自室へ引っ込んでいってしまった。
「さて……教え子の顔も見られたことだし、そろそろ失礼するわ。くれぐれも無理のない範囲で、お願いね」
「はい。また何か分かりましたらお伝えします」
瓜谷先生が事務所を去った後も、来亜はしばらく険しい面持ちを崩さないまま座っていた。普段の彼女ならば意気揚々と調査に出るはずだが、何故かそんな様子はない。
「先パイ、何か気になったことがあるんですか?」
「……まあね。仮にこの事件が何者かによって引き起こされたものだとすると、少し厄介だ」
「犯人を突き止めても、眠らされちゃったらまた振り出しですからね」
「いや、確かにそれもそうなんだが……今回の事件は、羊子の時と大きく違う点が一つある」
そう言いながら、来亜は人差し指を立てる。私が見当もついていないことはお見通しのようで、彼女はわざわざ考える間を与えることもなく話を続けた。
「相手を選んでいないのさ。つまり、誰かを恨んで事件を起こした可能性は低い」
「なるほど……でも、それがどうして厄介なんですか?」
「事件の動機が見えにくいんだ。単なる愉快犯なのか、それとも学校全体、あるいは社会全体に訴えかけたい何かがあるのか……どちらの可能性も考えられる」
その話を聞いて、ようやく話が見えてきた。単なる悪戯か、社会全体に向けたメッセージか。事件を起こした張本人の意図を取り違えれば、取り返しのつかない事態になりうることは想像に難くない。
しかし、いずれにしても今からそれを考えたところで分かるようなものではない。むしろ、杞憂に終わる可能性の方が大きいだろう。
「でも、流石に考えすぎじゃないですか?」
「そうかもしれないね。だが……一度思い当たった可能性を簡単に切り捨てるのは得策とは言えない。探偵の取り越し苦労は、いくらしたって損にはならないのさ」
さて、と不意に来亜は立ち上がり、机の上にばらばらと教科書や問題集を並べ始めた。これまでの話と、その行動にはいまいち繋がりが見えない。
「先パイ?」
「そうは言っても、確かに考えてばかりでは仕方がない。明日も補習はあるのだろう?」
それを聞いて、ようやく来亜の意図を理解した。瓜谷先生の話を聞く限り、補習の授業に何か手がかりがある可能性は高い。そして、直接補習の授業を受けて調査ができるのは私しかいない。来亜は、早速そのための準備を進めようとしているのだ。
「君が調査に専念するためには、事前に授業の内容をしっかり理解しておく必要がある。そちらに気を取られていては、気付けるものも気付けないからね」
「え……えーっと……」
どうにか言い訳をして逃れようと思ったが、目の前にいくつも積み重なった冊子の山が気になって言葉が出てこない。そうこうしているうちにいつの間にかアリア先生も部屋から出てきて、にこにこと笑みを浮かべながら近づいてきている。
もはや観念するしかない。私にできるのは、明日こそ今日と同じ轍を踏まないようにすることだけだ。
「お……お手柔らかにお願いしまーす!!」
翌日の補習でも、相変わらず多くの生徒は寝てしまっていた。眠気をこらえながら周囲を見渡してみても、特に変わったことがあるようには見えなかった。強いて言えば、心なしか生徒が眠るのが早く、長くなっているような気がするくらいだ。瓜谷先生もとうとう限界が来たのか、授業の最中に教壇の上に腰を下ろして眠ってしまった。
やはり明らかに異常だが、その原因は一向に見えてこない。あまりにも手がかりが掴めないので、内心諦めつつも自分の身体に意識を集中させてみた。この事態が何者かによって引き起こされているのだとしたら、私たちの身に眠気を与える引き金のようなものがあるはずだ。それが目に見えないのなら、感じ取るしかない。
「……絶対無理だ」
数秒経ってふと冷静になった途端、視界が急速にぼやけてゆく。そうしてなす術なく意識を手放す最後の瞬間、何かが腕の辺りをちくりと刺したように感じた。普段なら全く気にならないような、微細な感覚。それだけが、今日の調査で得た唯一の手がかりだった。
その後、私たちはチャイムの音で目を覚ました。この学校のチャイムの音はやけに大きく、大聖堂の鐘のようによく響く。普段は少し鬱陶しいと思うこともあるが、今だけはありがたい。
解散した後、周りの生徒に変わったことがなかったかと聞いてみた。何か事件の予兆と言えるような出来事があったのかもしれないと思っていたが、特にそんな話を聞くことはなく、生活習慣の乱れを打ち明けてくれた生徒がほとんどだった。やっぱり、単なる私たちの問題にすぎないのかもしれない。そう思った矢先、一人の生徒が声をかけてくれた。教室では話しづらいと言うので、場所を変えて話を聞いてみた。
「その……多分、関係ないんだけどね」
「うん」
「姫野紡さんって知ってる? 私たちの隣のクラスの子なんだけど」
「名前は聞いたことあるけど……その子がどうかしたの?」
確か、入学式から少し経って突然学校に来なくなってしまった子だ。入試の成績はすごく良かったらしく、それがかえって話題を呼んでいたのを覚えている。
「あの子、ずっと学校に来てなかったでしょ。でも、この補習には来てるのよね」
「そういえば……」
授業中は皆眠ってしまうし、紡は授業が終わるとすぐに帰ってしまうので直接関わったことはなかったが、言われてみれば確かに彼女も出席していた。
「せっかく学校に来るようになったのにこんなことを言うのは良くないけど、あの子が学校に来たことが一番大きな変化なんじゃないかなって……」
「ふむ……姫野紡、ね」
話を聞いていると、背後から唐突に姿を現しながら、来亜が口を挟んできた。不意の登場に、驚いて横に飛び退く。
「先パイ、どうしてここに!?」
「もちろん、君に逢うためさ」
「そんな、急に大胆な……!」
「……嘘に決まっているだろう、私の方でも調査を進めようと思って来たんだ。素直すぎるのも考えものだな」
来亜は手を挙げて首を振り、わざとらしく呆れたような仕草をしてみせる。そして、コートの余った袖から手を出して私の手をぐいぐいと引っ張った。
「ともかく、明日の補習で紡に話を聞いてみよう。彼女は何か知っているかもしれない」
「わっ、ちょっと先パイ……慌ただしくてごめんなさーい!」
「う、うん……また明日ね」
来亜に引っ張られながら、話をしてくれた生徒に礼を言ってその場を後にした。そのまま事務所に戻るやいなや、来亜は顎に手を当てて考え事を始めてしまった。
「さて……ようやく本格的な調査に乗り出せるな」
「でも、大半の生徒は生活習慣が乱れてたって言ってましたよ。姫野さんが関係してるとは限らないんじゃないですか?」
「もちろん、彼女が事件に関わっている確証はない。だが、今のところ放っておく理由もないからね」
“白雪姫事件”を解決してからしばらく経っているからか、来亜はやけに積極的だ。当然、早く事件を解決できるに越したことはないのだが、これまでの事件と比べて今回の事件はそれほど焦る必要のあるものには思えない。むしろ、下手に動いて事件の元凶に動きを悟られる方が厄介な気がする。
「そもそも、今回は前みたいに一刻を争うような事件ではないというか……解決に向けて動くのはもう少し情報が集まってからでも遅くないんじゃないかなって」
「……奈緒、ヒュプノスって知っているかい?」
「え?」
来亜は唐突にそう言った。授業で聞いた内容さえろくに覚えていない私が、そんなものを知っているはずがない。首を横に振ると、来亜は私が知らないことを予想していたようにすらすらと話を続けた。
「ヒュプノスは神話において、眠りを司るといわれている双子の神さ。そして双子のもう片方は、タナトス────────死の神だ」
「なっ……!」
来亜の話はあまりにも突飛だった。そうは言っても、それを今の時点でこの事件に結びつけるのは明らかに強引すぎる。来亜はそんな私の反応を見透かしたように落ち着き払っていた。
「なんで急にそんな怖いこと言うんですか!」
「別に私も本気で言っているわけではないさ。だが昨日も言った通り、一度考えた可能性を安易に切り捨てるべきではない。"白雪姫事件"と同様に、神ではないにしても相手が人間を超えた力を持っている可能性は十分に考えられる」
「そ、それは……」
「くれぐれも気をつけたまえ──────眠りは、死と隣り合わせかもしれないのだから」
本気ではないと言いつつも、来亜の表情は真剣そのものだった。確かに、こうして事件の緊急性が低いと思わせることが、事件を引き起こした張本人の思惑だったとしたら危険だ。いずれにしても、来亜の言う通り早く紡に話を聞いてみる方が良いだろう。翌日の補習に備え、今日は勉強もそこそこにして眠りについた。
翌日、補習が終わると紡はこれまで通り一番に教室を出て、眠そうに俯きながら渡り廊下の方へ歩き出した。気怠げな雰囲気に反して、歩くのはかなり速い。学校に来ていなかったという話を事前に聞いたからそう見えるだけかもしれないが、少しでもここにいたくないという意志表示とさえ思えるほどの速さだった。
「姫野さーん!」
「……誰?」
声をかけてみると、紡は歩き続けながら右隣にいる私の方に顔だけ向けて、ぶっきらぼうに返事をした。一方の私も紡の方ばかり見ながら歩いていたので、二言目を発する前に二人して閉まったままの扉に勢い良くぶつかった。ごおん、と目の覚めるような重い金属音が辺りに響く。普段なら渡り廊下の扉は開放されているのだが、放課後の時間は手動で開けなければならないのをすっかり忘れていた。
「いったあ!!」
「もう、何なの……?」
紡も流石に足を止め、扉にぶつけた腕をさすっている。下手にこれ以上追いかけるより、この場で素直に聞いてしまった方が良さそうだ。思い切って、紡に事件について聞いてみた。
「急にごめんね。補習が始まった頃から、生徒や先生の居眠りが増えたことについて調べてるんだけど……何か知らない?」
「……それはまた、ずいぶん暇なのね」
「あはは……そうかも」
探偵として有名な来亜と一緒に行動している時は訝しげな目線を向けられることがないので意識していなかったが、高校生が事件の調査をするというのは普通ではないのだ。当然とも言うべき紡の反応がかえって新鮮で、思わず苦笑いする。
「生憎、私は何も知らない。そろそろまた学校に行ってみようと思った矢先にこんなことになって、困ってはいるけれどね」
「そっか……」
紡は溜め息をつきながらそう言った。何かを隠している様子もない。どうやら彼女は本当に事件について詳しくは知らないようだ。あては外れてしまったが、せっかくの機会なので少しだけ質問を続けてみた。
「その、聞いていいのか分からないけれど……学校に来なくなったのって何かきっかけがあったの?」
「別に、何となくちょっと疲れただけよ。今こうして学校に行くようになったのも、ただ家で何もせずにいるのに飽きてきたところにちょうど瓜谷先生が声をかけてきたから」
煩わしげにそう答えながら、紡は足早に去っていった。これを機に少しでも仲良くなれるかもしれないと期待していたが、思ったよりも気難しい。ひとまず別の教室に移動し、紡に聞いた話を電話で来亜に報告すると、彼女は困り果てて唸ってしまった。
『いかにも関係のありそうな様子だったが、知らないときたか……!』
「関係ないものはしょうがないですよ。他の手がかりを当たってみるしか……」
そう言いかけたところで、閉めていた教室の扉が勢いよく開けられた。さっきの補習で一緒に眠っていた生徒が、ひどく憔悴した様子で駆け寄ってくる。
「奈緒ちゃん、ここに居たんだ!」
「わっ、どうしたの?」
「瓜谷先生が……起きない!」
「……え?」
不意に、昨日の来亜の言葉が脳裏をよぎる。眠りは、死と隣り合わせかもしれない————行き過ぎた想像だと切り捨てた可能性が、急に現実味を帯びて蘇ってくる。一刻も早く事件を引き起こした犯人を辿り、止めなければならない。しかも、犯人を止めたところで本当に先生が助かるかどうかも定かではない。勝手に巡る思考に圧され、立ち上がる時に少しよろけてしまった。
「先生の様子は……!?」
「息はあるんだけど、皆で身体を揺すってみても全く目を覚ます様子がなくて……もしかしたら、このままじゃ危ないかも……!」
『……奈緒、すぐに私もそちらに向かう。君は他の生徒を避難させて待っていてくれ』
来亜はそう言うとすぐに電話を切った。今の会話が聞こえていたのだろう。教室へ走って戻ると、まだ瓜谷先生を起こそうとしている生徒が何人か残っていた。周囲に避難を呼びかけながら先生を外に運び出した後、教室の扉を閉める。
「奈緒ちゃん、大丈夫!?」
「私は平気、瓜谷先生は?」
「まだ起きない……どうしよう!」
「もうすぐ助けが来るから、先に皆で別の教室まで避難できる?」
「う、うん。奈緒ちゃんも気をつけて!」
他の生徒が避難を始めてから少し経った後、誰もいなくなったはずの教室の扉がひとりでに開いた。霊障を思わせる不可解な現象に、思わず息を呑む。部屋の中から微かに漂ってきた甘い香りが、なおさら不気味だった。
「ッ……!?」
それからしばらく経って、生徒が逃げていた教室から全く物音が聞こえなくなった。正体不明の異常が、牙を剥く。これまでに出会ったことのない異変を前に、冷や汗が背中を伝って流れた。そこへ、ようやく来亜が駆けつけてきた。
「奈緒、状況は?」
「避難はできましたが……!」
「ふむ……この様子からして、向こうで皆眠らされてしまったようだな」
来亜が到着したことで、私も少しだけ落ち着いた。改めて目の前の開いた扉を睨むと、針のようなものが無数に飛んでくるのが見える。咄嗟に身体を逸らして回避すると、針は遠い背後の壁にぶつかったらしく、細い音を立てて床に落ちた。
「奈緒、どうした?」
「何だか分からないんですけど……あの教室から小さい針が飛んできています!」
昨日眠りに落ちる直前に気付いたあの感覚も、さっき飛んできた針が引き起こしたものなのだろうか。いずれにせよ、あれは避けた方が良さそうだ。部屋の暗さも相まって見えづらいが、幸いそれほど速度はない。死角を突かれなければ、避けるのはそれほど難しくないだろう。
「ふむ、昨日の君の報告と合わせて考えれば、何となく仕掛けの想像はつくな」
『ほう……よもやまだ意識のある者が残っていようとはな』
不意に、私や来亜とは違う声が聞こえてきた。やはり教室の中に何かがいる。それがこの事件を引き起こした張本人であることは、もはや疑うまでもない。
息を呑みながら来亜の方を向くと、彼女は忽然と姿を消していた。気付けば、来亜は既に教室の中へ入っている。
「先パイ、危ないですよ!」
「ごきげんよう。君が……この事件の犯人か」
『……然り』
急いで来亜の元に駆け寄ると、そこには紡の姿をしたものがいた。だが、紡本人は既にここを去ったはずだ。あれは一体、何者なのだろうか。
『しかし、"事件の犯人"とはいささか心外だ。私はむしろ、そのようなものが起こらぬ状態を望んでいるというのに』
「御託は不要だ。生憎、どれほどの時間が残されているかもはっきりしない状況だからね。君の正体も既に見当がついているから、急いで解決させてもらうよ」
来亜はそう言ったが、彼女のことだからこの土壇場で嘘をついて相手の自白を促している可能性もある。しかし、紡の姿をした犯人が口を動かすことはなかった。その場に沈黙が流れ、来亜はそっと息をつく。
「……では、私の推理を語るとしようか。君は姫野紡の生霊……そんなところだろう」
「生霊……?」
来亜の口から飛び出したのは、聞き慣れない言葉だった。目の前の相手は肯定も否定もせず、ただ黙って来亜の話を聞こうとしている。さっき飛んできた針のことを抜きにしても、何だか部屋の空気が生温かく、ほのかな甘い香りも相まっていやに力が抜ける。まるで部屋全体に眠りを誘う仕掛けが施されているような雰囲気だ。時間が経てば経つほどこちらが不利になるから、彼女は余裕を見せているのだろう。
「通常、人間が死後に霊へと転じたものは死霊や亡霊と呼ばれるが……生霊はその逆だ。生きている人間が抱いた強い感情などが力をもって、その持ち主から独立した霊魂となったもの……それが生霊というわけさ」
「そんなことが……ありえるんですか?」
「あくまで古典や伝承においてのみ語られる存在のはずなんだけれどね。実際、私も初めて見るよ」
来亜は教卓まで歩み寄りながら話を続けた。少し距離を詰めたが、生霊らしきものはまだ動かない。新たに針を飛ばしてくる様子もなかった。
「まず、君の姿からして紡が関係していることは明らかだ。しかし、彼女は事件について全く知らないと話した。奈緒から見ても、嘘はついていなかったという……そうだね?」
「は、はい」
「そうすると、君が紡の知らないところで彼女を事件に巻き込んでいる可能性が高い。あるいは君が紡と瓜二つの双子である可能性も想定できるが……事件の内容を鑑みれば、全て人間の手で完結していると考える方が無理筋というものだ。集団にいる人々をまとめて眠らせるなんて芸当は、到底人間業とは思えないからね」
『……なるほど。それで生霊という答えに至った訳か』
紡の生霊と言われた女がようやく発した言葉に、来亜は無言で頷いた。夕暮れの薄暗い教室で、紡そっくりの細い輪郭がたおやかに揺らめく。生霊がわずかに距離を詰めると、甘い香りが一層強くなった。これ以上、対話を長引かせるのはいよいよ危険だ。来亜もそれを悟ったのか、普段のように最後まで推理を語ろうとはしなかった。
「さて、このくらいで十分だろう。これから解決に踏み切る訳だが……最後に一つだけ聞いておくとしよう」
『……何だ』
「————どうして、こんなことを?」
来亜は生霊を鋭く睨みながら、問いを投げかけた。しかし、生霊は質問に答える代わりとでも言うように、ゆらりと片手を挙げた。同時に、その指先の周りに小さな針が集まってゆく。
『愚問だな。何もかも、全てが煩わしい……私も紡も、そう思っている。ただ、それだけだ』
「……そうか」
『満足したなら、そのまま眠るがいい。生きることの煩わしさを、一つ残らず消してやろう』
そう言って生霊が来亜に指を向けると、周囲に集まっていた針が一斉に来亜めがけて飛び出した。すかさず来亜の肩を掴んで後ろに引き込み、近くの教卓を壁にして針を受け止める。そのまま針が止むと同時に生霊めがけて教卓を蹴飛ばしてみたが、教卓は生霊の身体をすり抜けるようにして床に落ちた。衝撃で、目の覚めるような轟音が辺りに響く。
「びっくりした、いきなり随分無茶をするな!」
「すみません!」
「いや、構わないさ。おかげで確認できた……見た目通り、ただの物理攻撃は効かないようだね」
厄介な相手だ、と来亜は生霊を睨みながら腕を組んだ。仮に以前の悪魔と同様に銀のナイフで倒せるとしても、来亜を庇いながら近づくのは難しい。
それに、これまでの授業の様子や瓜谷先生の状態を見る限り、生霊の力で眠ってしまった回数が重なるほど眠りが深くなっている可能性が高い。私たちが眠りに落ちれば、いよいよ他の生徒も危ないだろう。ここからは慎重に立ち回らなければならない。だが、体力は有限だ。時間をかけるほど、敗北は近づく。
「先輩、どうしましょう……!」
「このまま戦っても追い込まれるだけだ。何か、奴に攻撃を当てる方法があれば……」
そう言いながら、来亜の首が前後に揺れる。さっきまで平気な様子だったのに、かなり眠そうだ。起こす間もなく、来亜はその場に倒れ伏してしまった。針が刺さった様子はないが、体力の限界が来てしまったのかもしれない。
「先輩!」
『油断したな、これで終わりだ』
「────!」
来亜の様子ばかり気にしていて、自分の周囲の警戒を忘れていた。さっき教卓で受けた針が再び浮き上がり、背後から飛んできていた。回避が間に合わず、数本の針が身体に当たる。それと同時に瞼が重くなり、視界が暗く、狭くなってゆく。それから数秒も経たないうちに、意識を失ってしまった。
◇
紡の生霊は、自らの力の前になす術なく倒れた二人の少女を憐れむように見つめながら溜め息をついた。聞こえているはずもないと知りながら、彼女は二人に向けて呟くように声をかける。
『……これでよく分かっただろう。争いなど、無駄なことだ』
「……」
『だが、人は生きていれば争うものだ。紡も、そして私とて例外ではない。それが人間の性というものだ。だから……こうして終わりにするのだ』
そう言って、生霊は奈緒の首に向かってそっと手を伸ばす。細い腕は奈緒の首をすり抜けることなく、緩やかに彼女を死へと導いてゆく————はずだった。
突如、奈緒はその腕を掴んで床に強く叩きつけ、その反動で立ち上がる。生霊は驚きながらも即座に離れ、今一度目の前に立ちはだかった相手を見た。その目は閉じたままであるにもかかわらず、凄まじい威圧感が周囲に走る。
『何……!?』
「……この子は、渡さない」
うわごとのように奈緒はそう言った。ともすれば、目の前に立っているのはさっきまでの少女ではないのかもしれない。霊という戦い慣れない相手を前に戸惑っていた彼女とはまるで違う。生霊はその変化を悟り、微かに身を震わせた。このままあれと相対してはならない。本能的な直感に突き動かされ、生霊はすぐに再び針を飛ばした。針が容易く躱されることは彼女も想定していた。しかし、その予想に反して奈緒は回避しようとする動きを一切見せなかった。
『どういうつもりだ……!?』
「そこだッ!」
奈緒は自身に迫る一本目の針を横から掴んで受け止め、その針の先を合わせて続く五本を弾き飛ばす。そのまま追撃を許さず一息に生霊の眼前へ迫り、その頭上から爪先まで一気に貫くように針を突き刺した。
生霊の身体はほとんどが霊体だが、そうでない部分が僅かに存在する。霊であるはずの彼女が奈緒の首を掴むことができたのもそのためだ。しかし結果的には、その行動が奈緒にとって決定的な手がかりを与えてしまった。生霊にも、攻撃が当たる場所はある。その確信を得た奈緒は、一切の躊躇をせず突き進んでゆく。
『く……!』
自身をも凌駕する脅威を前に、生霊は歯噛みする。偶然にも今回は生体への直撃を免れたが、一度にこれだけ広い範囲を攻撃されれば針が生霊の身に届くのも時間の問題だ。しかし、程なくして奈緒は再び倒れ伏した。さっきまでの気迫は嘘のように消え、穏やかな寝息を立てている。
『……眠った、のか?』
確かに、部屋全体を覆うような威圧感は消え去った。しかし、目の前の少女の中に巣食う得体の知れない何かを垣間見た生霊の矛先は、自然と来亜の方へと向かっていった。
その細い首に手が触れた瞬間、来亜の眼が急に開き、鋭い視線が生霊を捉えた。目の合った生霊が驚く間に、来亜は懐からナイフを取り出してその胸に突き立てる。退魔の刃は、霊体をものともせずに切り裂いた。生霊は数歩後ろに下がった後、力なく倒れ込んだ。
『く……あ、ああ……!?』
「————夢の時間は、これで終わりだ」
焦燥、驚懼、そして疑問。自らの身体が掻き切られた瞬間、生霊の胸中には様々なものが渦巻いていた。たった一つの思いから生まれた生霊にとっては、どれも耐え難いほど複雑で不可解なものだ。溺れる者が藁を掴むように、自身の中に溢れたものを少しでも受け止めるために、生霊は弱々しくも必死に来亜へ声を発した。
『何が、起こった……!』
「最も古典的で、初歩的な嘘。空寝……いわゆる狸寝入りだ。起きている間は近づきようがなさそうだったからね、油断して君の方から近づいてくる瞬間を待ったわけだ。幸い分厚いコートを着ていたから、針が身体に刺さったかどうかも確かめられなかっただろう」
『そんな、ことで……!』
「そんなこと、だからこそさ。単純でつまらない嘘かもしれないけれど、案外つく方は楽しいものだよ」
生霊は力なくその場で目を閉じた。もう、起き上がる力さえ残っていない。だが、生霊の身体は消えずに留まっている。その身を形作る執念にも似た思いが、生霊をこの世界に押し留めているのだ。
『何故、お前たちは安息を拒む。争うことに……意味などないというのに』
「……そうか、ようやく分かったよ。これで、全ての謎が解けた」
『何……!?』
問いかけに答えるよりも前に、来亜は生霊を見据えてそう言った。予想外の返答を受け、生霊は微かにたじろぐ。そのまま来亜は生霊の方へ歩み寄り、そっと指を向けた。
「君は、紡の心から生まれた生霊じゃない。六条御息所————それが、君の本当の正体だな」
『————!』
来亜の言葉を聞いて、生霊は明らかに動揺を見せた。それを見逃す探偵ではない。いよいよ確信を得た来亜は、止まることなく話を続ける。
「初めから、違和感はあった。奈緒から受けた紡についての報告と、目の前の君の言動には少しばかりズレがある……それを最も顕著に感じたのは、君が奈緒のことを眠らせた後だ。初めこそ紡と同じように全てが煩わしいと語っていたが、いつの間にか争いの話にすり替わっている」
『それは……!』
「もちろん、紡が全てを煩わしいと思っているなら目的の一部は一致しているのだろう。だが……彼女と君では、明らかに力点の置き方が異なっている。もし本当に君が紡の生霊なのだとしたら、ずっと初めのように漠然とした動機を話しているはずだからね。そこで、君は紡とは全く別の存在だと気付いた」
生霊は今まさに消えつつある力を振り絞って来亜の口を塞ごうとしたが、身体を起こすことはできず、その腕は虚しく空を切るばかりだった。来亜は避ける様子も見せず、生霊を見下ろす。その目を見た時、生霊は内心で燃えるような苦しみを覚えた。あの目が、この感情が、その瞬間が、彼女は何よりも嫌いだったのだ。
「六条御息所……生霊と聞けば、真っ先に思い当たるのは君の名だ。光源氏の正妻、葵上との争いに敗れ、その恨みが募って葵上を呪い殺したために源氏の愛をも失った……争いを忌避するには十分な背景だ」
『探偵、貴様!』
「わざわざ怒ることでもないだろう。君の逸話は、今や高校の学習範囲内だ……いや、確かにそれは嫌かもしれないな」
失礼、と来亜は一歩引き下がる。しかし、彼女が生霊に譲歩したのはその一点だけだった。なおも自身を睨む六条御息所に対して、来亜は一切退くことなく話を進める。
「いずれにしても……紡は学校に来るようになった。それだけは紛れもない事実だ。彼女はいつまでも君に利用されるだけの眠り姫じゃないってことさ」
『それが何だと言うのだ。もはや私には関係ないだろう』
「いや、大いに関係あるね。学校に来たということは、紡の中で何かが変わったということなんだろう。それは些細なことかもしれないが……君の思い描いたようにずっと眠っていたままなら決して起こり得なかったことだ」
『……』
「君も本当は分かっているだろう————いつまでも今日にしがみつくことはできない。私たちは、日々違う明日を生きなければならないんだ」
来亜がそう言ってから、六条御息所が口を開くことはなかった。朧げだったその輪郭がさらにほどけ、僅かに残った生体は塵となって消えてゆく。力の源となっている紡の心が変わり、自らを形作る信念を根本から否定した。人の強い想いから生み出される生霊は、その想いが消えれば形を失い、消えるのが道理だ。だから、六条御息所はこれ以上世界に留まることを許されなかったのだ。
かくして事件は幕を閉じた。誰にも語られることのない真相を、一人の少女の記憶に残して————
◆
「奈緒、そろそろ起きたまえ」
「うう……あれ、先パイ?」
来亜に起こされて目を覚ました。辺りを見回すと、既に紡の生霊は消えている。どうやら私が眠っている間に、事件は解決してしまったらしい。残念ながら、今回はほとんど何もできなかったようだ。
「生霊が消えてる……ってことは、全部先パイが解決したんですか!?」
「何を言ってるんだ、作戦が上手くいったのは君のおかげだろう。大活躍だったじゃないか!」
「え?」
珍しく来亜に褒められたが、全く身に覚えがない。どう返事をしたものかと困っていたら、彼女にそれを見抜かれてしまった。
「まさか君……本当に眠っていたつもりなのか?」
「……はい」
「ふむ……だとしたら、あれは一種の夢遊病なのか? いや、だが……」
私が眠っていたことを正直に伝えると、来亜は何かぶつぶつと呟いて、考え事を始めてしまった。瓜谷先生や他の生徒の様子を見るために教室へ移動している時も同じ様子だったので、別の話題を振ってみることにした。
「……ところで、先パイ」
「何だ?」
「結局、あの生霊は姫野さんとどんな関わりがあったんですか?」
「……さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だからね」
来亜は首を横に振りながらそう言った。彼女のことだから、謎を全て解いた上で事態を収めているのかと思っていたので、つい驚いてしまった。
「えー、本当に知らないんですか!? 気になります!」
「知っていたとしても意味はないよ。現に生霊は消えているのだから、紡に説明したって仕方のないことだ」
「はあ……そういうものですか?」
「そういうものさ」
そんな話をしている間に、皆が避難している教室に着いた。皆は既に目を覚ましていて、瓜谷先生の指示でその場に留まっているようだった。
「あ、二人とも!」
「瓜谷先生、ご無事のようで何よりです。事件は無事に解決しましたよ」
来亜の言葉を聞いて、待っていた生徒たちがほっと胸を撫で下ろす中、紡が私の方に近寄ってきた。彼女は私たちが事件に巻き込まれる直前に去ったはずだったが、知らない間に教室に戻っていたようだ。
「……江寺さん」
「あれ、姫野さん……戻ってたんだ」
「ええ。忘れ物に気付いて戻ったら、騒ぎに巻き込まれて……」
紡はどこか気恥ずかしそうに苦い顔をしていた。彼女は周囲の視線がこちらに向いていないことを確かめてから、すぐ近くにいる来亜にも聞こえないような小さな声で私に耳打ちをした。
「その……ありがとう。また学校に来ることにした矢先にこんなことになって、正直怖かった」
「姫野さん……」
「でも、今度こそ頑張ってみようと思う。気のせいかもしれないけれど……前まで感じてた疲れもなくなった気がするから」
「……そっか。良かった!」
紡は自らを縛っていた枷から解き放たれたように、晴れやかな表情をしていた。生霊は、彼女自身にとっても重荷になっていたのだろう。だが、この様子ならば心配は必要なさそうだ。
来亜の方を見ると、彼女は窓の外をじっと眺めていた。直後、来亜は突然血相を変え、教室の出口に向かって早足で歩き出した。私は窓から離れていたのではっきりとは見えなかったが、確かに向かいの棟の四階の教室で何かが動いているのは目に映った。瓜谷先生が声をかけ、急ぐ来亜を呼び止める。
「空言さん、ありがとうね。それで、この異変の原因は……?」
「それは、また後ほどお伝えします。すみませんが、私たちは少し席を外します……奈緒!」
「はい!」
私が返事をするのと同時に彼女は走って教室を出ていき、さっき眺めていた四階の部屋へ向かった。部屋に着くと、以前出会った怪盗が窓際の机に腰掛けていた。前回と同様に顔や肌を隠していて、特定につながる手がかりになりそうな情報は一切ない。性別さえ、見る人によって意見が違うだろう。奴はちょうど逃げ出そうとしているところだったようで、開いている近くの窓から風が吹き込んでいた。
「ごきげんよう、また会ったね。およそ一ヶ月ぶりか」
「怪盗ライト……どうやって、学校に?」
「どうやっても何も、学校なんて侵入しやすい建物の代表だろう。門は低いし、鍵も大したものはない。中で見つかりさえしなければ入り放題、出放題だ。もっとも、君たちのせいで出放題とはいかなくなったが」
「……お前の目的は、何だ?」
来亜はライトに問いかける。奴は焦る様子もなく、来亜の問いに答えた。私たちが応援を呼んでいないことを見抜いているのだろうか。あるいは、応援を呼んでいたとしても容易に逃げ出せる自信があるのかもしれない。
「前も言っただろう、この神土町の闇を照らすことだ」
「そのために学校に不法侵入か……それではまさしくミイラ取りがミイラになるというやつじゃないのか?」
来亜は話しながら、円を描くように遠回りをしながら少しずつライトに歩み寄っていた。奴の方も当然それに気付き、来亜から視線を離さずにいる。
「まあ否定はしないさ。だが……それは同時に僕が手段を選ばないほど本気だということも示している」
「詭弁だな。もしお前が本当に闇とやらを暴いたところで、それが違法な手段によるものならば元も子もないだろう」
「そっちは綺麗事だな。法の下、正義と公正の光に照らされた場所に……本当の闇は存在しない」
そう言った後、ライトは机から降りて両手を広げた。その立ち振る舞いはあまりにも堂々としていて、奴が追われている身であることをつい忘れそうになる。
「さて、今度は君の話をしよう」
「私の話?」
「ああ。今回の事件について、僕は少しどうかと思ったのでね。あの生霊の考えだって、間違いと断じることはできないはずだ」
ライトは生霊について何か知っているようだ。捕まえれば、何らかの情報を聞き出せるかもしれない。来亜は歩みを止めず、奴の言葉に淡々と返事をした。
「……そんなものは知らないね。どんな事情があったにせよ、あれは他者を巻き込んだ上に命まで奪おうとした。だから事件になって、私たちが解決した。探偵として、すべきことをしたまでだ」
「いや、すまない。君の対応が間違っていたとは言わないさ」
ライトは一瞬だけ来亜から視線を外し、一歩下がって窓に近づいた。風が強くなり、奴のマントが激しく揺れ動く。奴はそっと息をついてから、一言だけ付け加えた。
「ただ、どうしても疲れてしまうことはあるものだよ————人間はね」
来亜は何も言わず、その場で立ち止まった。ライトとの距離はかなり縮んでおり、彼女が飛びかかれば袖を掴むことぐらいはできそうだ。しかし、勝負をかけるには心許ない間合いであることもまた確かだった。来亜が近づいて来ないのを見て、ライトは再び話を切り出す。
「さて、君はこれで三つの事件を解決した。"人狼事件"に"白雪姫事件"、そして今回の"眠り姫事件"……どれも不可解な難事件だ。探偵として、君は大いに評価されることだろう」
「……」
「だが、まだ僕の相手にはなれないね。今の君とは勝負にもならない。そうだな……七つだ。あと四つ、君がこれまで挑んできたような難事件を解決したら、対等に渡り合える時が来るかもしれないね」
ライトは平然とそう言ってのけた。だが、それは来亜を見誤っている。彼女は炎を司る悪魔をたった一つの嘘で制しているし、状況からして今回の生霊もほとんど一人で倒したはずだ。事件の数ではなく中身を見れば、奴が来亜を過小評価しているのは明らかだ。
だが、ライトはそれを踏まえた上で本当に彼女を取るに足らない相手と評しているのかもしれない。とすれば、目の前の相手は見た目以上に強大だ。信じがたい話だが、一度考えた可能性を安易に切り捨てるべきではない。それを来亜に教わったばかりだ。来亜は逆にライトの油断を誘うように、微笑を浮かべて挑発的に返答した。
「……そうかな。見たところ、そこまでする必要はないと思うが」
「おや、試してみるかい?」
「そうだな、お手並み拝見といこう!」
来亜は窓側に回って退路を塞ぎながらライトに近づいて手を伸ばし、マントの端をめがけて掴みかかる。しかし、奴はそれを難なく躱しながら背後の机に乗り、そこから来亜を飛び越えて直接窓の外に出た。ライトが四階の高さから空中に飛び出した直後、前回と同じようにパラシュートが開き、ライトの身体を支えた。
「逃したか……!」
「ま、ざっとこんなものさ。僕の言った通りだったね!」
ライトは空中に浮かびながら、高らかに勝利を宣言した。瞬間、来亜は嘘をついた時と同じ、いたずらっぽい表情を浮かべた。それに応えるように、私は窓の外の標的を睨んだ。
「なんてね、まだ終わりじゃないさ──────奈緒!」
「はああああッ!!」
私は胸ポケットから先の尖ったペンを取り出し、パラシュートめがけて真っ直ぐに投げた。来亜が遠回りにライトに歩み寄っていたのは、近づいているのを気付かれにくくするためではない。彼女の本当の狙いは、ライトの視線から私を外すことだった。ありふれた攻撃が、来亜の力で意識外からの一撃に変わる。先端が勢いよく刺さってパラシュートは壊れ、ライトは再び空中に放り出された。
「え?」
「せいぜい、快適な空の旅を楽しみたまえ」
「うおおおおッ、バカーーーー!!」
ライトは叫びながら、四階から真っ逆さまに落ちた。窓に駆け寄って様子を見ると、体育館の方から突然体操マットが飛んできて、空中でライトを受け止めていた。目の前で起こったことが信じられずに呆然としていると、怪盗はにやりと笑ってこちらを見た。
「はあ……流石に肝が冷えたよ。全く、平然と恐ろしいことをするな」
「ど、どうなってるんですか!?」
「あっはっは、もちろん秘密さ。まだまだ詰めが甘いってことだね!」
いつの間に取り出したのか、ライトは本のようなものを右手に握っていた。あれがこの不可思議な現象を引き起こしているのだろうか。
「先パイ、どうしますか!?」
「く……もう一本だ!」
来亜がコートのポケットから取り出したペンを受け取り、マットに狙いを定めて力いっぱい投げる。しかし、マットはひらりと軌道を変えて軽々とペンを躱した。
「なっ……空中でも自由に動けるのか!?」
「ずるーい!!」
「それじゃあ今度こそお別れだ。くれぐれも助手の教育はしっかりしておきたまえよ、探偵がお縄につくのは流石に笑えないからね!」
そのままマットは加速し、ライトの姿はすぐに見えなくなってしまった。追跡が徒労に終わったことでついに疲れが身体に追いつき、つい力が抜けてへたり込む。
「うーん、結局逃げられちゃいましたね……」
「あの力は一体……」
来亜は少しの間、神妙な面持ちで何か考え込んでいた。しかしすぐに考えるのをやめて、一度大きく伸びをした。
「まあ、逃がしてしまったものは仕方ない。奴は四つの事件を解決しろと言っていた。事件を追う中で、きっとまた会えるだろう。その時こそ、捕まえてみせよう」
「そうですね、次こそ引導を渡してあげましょう!」
「……意味、ちゃんとわかっているかい?」
その後、私たちが散らかしてしまった机の片付けなどをしている間にマットだけが飛んで帰ってきた。マットを広げてみると、一枚のメモ用紙が挟まっている。
「これは……うわ、英語ですね」
「どれ……いや、ただのローマ字じゃないか。”このマットは学校のものだから返しておくよ。君たちが体育館に戻しておいてくれたまえ”、と」
来亜はメモを手に取り、読み上げてからポケットにしまった。確かに、筆跡はライトの正体を突き止める有効な手がかりになるかもしれない。それはさておき、とりあえず文句を言いたい。
「えー、飛ばせるなら体育館に直接返せばいいじゃないですか!」
「全くだ。嫌がらせのつもりなんだろうが、許しがたいね……奈緒、持っていってくれるかい?」
「まあ……いいですけど、はい」
来亜に言われ、体操マットを拾って持ち上げた。物が大きいので少し持ちにくかったが、特に問題なく運べるだろう。ふと来亜の方を見ると、彼女は戸惑うような苦笑を浮かべていた。
「……何も、片手でとは言っていないんだけれどね」
片付けや報告などの事後処理を済ませて外に出ると、門の前にアリア先生の車が停まっていた。私がマットを運んでいる間に来亜が呼んでくれていたらしい。
「二人とも、お疲れ様。事件は解決できたかしら?」
「まあ……あと三日ってところかな」
「解決したようね」
先生に嘘を軽くあしらわれ、来亜は膨れっ面をしながらシートベルトを締めた。しかしその直後、彼女は何か閃いたようにぱっと表情を変え、いたずらっぽく笑った。
「……いや、やっぱり早くてもあと一週間ってところだろうね」
「先パイ、流石にバレた嘘をつき通すのは諦めた方が……」
「何を言う、私たちはもう一つ、大事件を抱えたままじゃないか」
先生は来亜の発言の真意を汲み取ることができたらしく、それは確かに大変そうね、と苦笑した。何だか私だけが取り残されているように感じて、居ても立っても居られなかったので直接聞いてみた。
「あ、あの……どういうことですか?」
「おや、分からないか。解決には君の力が必須なんだが」
「えっと……よく分かんないですけど、私にできることなら何でもしますよ!」
「おお、それは頼もしいね。それじゃあ、ぜひとも頑張ってくれたまえ……再試験」
「……あ」
すっかり忘れていたものの存在を思い出し、さーっと自分の血の気が引いていくのがはっきりと分かった。夢から一気に現実に引き戻されたような気分だ。
「も、もう勉強は勘弁してくださーい!!」
私の悲鳴をかき消すように、車は音を立てながら走り出す。これから待ち受ける戦いに思いを馳せながら、せめて今だけはと縋るように目を瞑った。




