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一章 ——炎の罪人——

「えーっと、確かこの辺りにあったはず……」


 冬の残滓のような冷たい風を受け、少しかじかんだ手で建物を順番に指さしながら歩く。そして、ふと目に留まった表札の文字を読んで、ようやく目的地に辿り着いたことを確信した。

 空言来亜────約一年前にこの神土町で起こった連続殺人事件、通称"人狼事件"を解決した探偵少女。彼女の事務所を目指して、ここまでやって来たのだ。

 事務所とは言ったものの、何の変哲もない民家のような外装だった。強いて特徴を挙げるとすれば、二階建てであることと、表札に書いてある事務所の主の苗字が珍しいことぐらいだ。だから、ちゃんと調べてから来たのに危うく見逃して素通りしそうになってしまった。


「ごめんくださーい!」


 インターホンらしきものはなかったので、事務所の扉を軽く叩いて声をかける。しばらく待っていると、ぶかぶかの茶色いコートを着た小柄な少女が出迎えてくれた。随分背が小さいから、恐らく来亜本人ではなく、その妹なのだろう。細い手首に対してコートの袖口はかなり広く、かえって寒そうだ。彼女は私を一目見た途端、大きな声を上げた。


「でっかぁ!!」

「ええっ!?」


 少女は腰が抜けたようにその場にへたり込んで私を見上げている。確かに私は背が高い方だが、これほど驚かれたのは初めてだ。お互いに戸惑ってしまったが、少女の方が先に立ち直って声をかけた。


「いや、失礼……少し取り乱してしまった。ごきげんよう、依頼かい?」

「えっと、来亜さんに用があって来たんですけど……妹さん、かな?」


 私の言葉を聞いた少女は突然むっとしたような表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答えた。


「……お探しの来亜さんなら、ここにいるが」

「えっ!?」


 数秒経って、ようやく彼女の言葉の意味を理解した。どうやら私は大きな勘違いをしていたらしい。慌てて頭を下げる。


「す、すみません!」

「……まあ構わないさ。こういう時に平然と受け流してこそ、一人前のレディだからね」

「は、はあ……」


 何だか、ひどく調子が狂う。まだ事務所の中に入ってすらいないのに、既に予想外のことだらけだ。客間に迎えられ、足を組んで椅子に腰掛けている来亜と向かい合う。


「それで、君は?」

「あ、私は江寺奈緒(えでら なお)です! 神土高校の一年生です」

「そうかい、それじゃあ私より五つ年上か」

「え?」


 来亜は私と同じ高校の一つ上の先輩だと聞いていたのだが、事前の情報と全く違うらしい。狼狽えながら飲み物が入ったカップを揺らす私を見て、彼女はくすっと笑みをこぼした。


「もちろん、嘘だよ!」

「な……!」


 空言来亜は嘘が大好きだ。話す時には気をつけた方が良い。彼女が"人狼事件"を解決して間もない頃に出たインタビュー記事に、そう書かれていたのを思い出した。そんな性分だから、大事件を解決したにもかかわらず彼女はほんの一瞬で報道から姿を消し、未だ地元の有名人の域を出ていないのだ。

 そういう噂を聞いていたから、もちろん身構えてはいた。しかし、ここまで脈絡のない嘘を平然とついてくるとは思わなかった。


「まあ、まさか本当に年下だと思いはしないだろうけれどね」

「え、ええっと……」


 そうとも限らないと思ったが、当然わざわざ口には出さなかった。

 それにしても、評判以上の変わり者だ。私も人のことは言えないかもしれないけれど、少なくとも今は彼女に圧倒されるばかりだった。


「本当に嘘つきなんですね……!」

「失礼だな、私はライアーであって嘘つきじゃないよ」

「ライアー?」


 聞き馴染みのない言葉だ。意味を問うてみると、来亜は誇らしげに説明をしてくれた。曰く、嘘を愛してやまない人のことを彼女はそう呼んでいるらしい。”嘘つき”は人聞きが悪いので、あまり好きではないようだ。


「人を騙したくて嘘をついているわけじゃない。嘘を愛してやまないから嘘をつくのさ。嘘つきとは手段と目的が真逆というわけだ」

「な、なるほど」


 むしろ、その方がタチが悪い。思わずそう言いかけたが、きっとそれは彼女も分かっていることだろう。騙されたばかりだが、そう信じたい。


「それで、用件は何だい?」

「あっ、そうでした!」


 来亜に問われ、本来の目的を思い出した。当然、私も世間話をするためだけにここに来たわけではない。姿勢を正して座り直し、話を始めた。


「その、私……依頼というか、お願いがあって」

「ふむ……お願い、か」


 来亜は顎に手を当て、話を聴く姿勢を見せた。確かにいざこうして構えると、さっきまでの人をからかう悪童のような雰囲気はすっかり消えて、立派な探偵らしく見える。その変わりように少し驚きつつも、この事務所に来た目的を打ち明けた。


「私を……ここで雇ってほしいんです!」


 来亜は驚いたように少し目を見開いた。しかし、すぐに目を閉じて悩み始めてしまった。断られまいと、畳み掛けるように頼み込む。


「助手でも雑用でも、ボディーガードでもやります。私、体力にはちょっと自信があるので!」

「なるほどね……」


 来亜の顔がわずかに下を向く。やはり、簡単に雇ってはもらえないようだ。"人狼事件"を解決した探偵の話を聞いて、考えもせず事務所までやってきてしまったが、冷静になって考えてみれば彼女にとって私は見ず知らずの相手なのだから無理もない。


「ダメ……ですか?」

「人手がいらないと言えば嘘になるが……生憎、バディの枠は空いていなくてね。それに、探偵とはいえ私はまだ学生の身だ。人を雇うのは、色々成長してからにしたい」

「成長って……身長とか?」


 彼女に足りないようなものが他に思い当たらず、つい口が滑ってしまった。それを聞いた彼女は、怒って声をあげるでもなく、ショックを受けて不貞腐れるでもなく、一切動揺するそぶりを見せずに冷たく言葉を返した。


「前言撤回だ、君は不採用。依頼がないなら帰ってくれたまえ」

「そんなあ!!」


 ちょっとした失言のつもりだったが、想像よりも大きく状況が動いてしまった。こうなってしまった以上、もう打つ手はないだろう。出直すしかないと思って帰ろうとした矢先、階段を降りてくる足音とともに穏やかな女性の声が聞こえてきた。


「どうしたの、一体なんの騒ぎ?」

「……ああ、姉さん。こっちに下りてくるなんて珍しいね。でも、残念ながらもう終わるところだよ」


 その声には聞き覚えがあった。振り返って姿を見ると、そこには肩や袖の辺りが随分伸びている服を着た女性が立っていた。


「……もしかして、アリア先生?」


 そんな格好でも、一目で分かる。彼女は今急激に売れ行きを伸ばしている作家、アリア先生だ。秀逸な言葉選びが人気で、書かれていることがその場で現実に起こっているようにさえ感じられると評判だ。テレビやラジオにも時々出演しているから、先生の顔や声はちゃんと覚えている。


「ほ、本当にアリア先生だ!」

「私のことを知ってるの?」

「もちろんですよ、先生のファンですから!」


 まさしく願ってもない偶然だ。来亜に姉がいることは聞いていたが、それがアリア先生だとは全く知らなかった。彼女がここにいるなら、なおさら諦めるわけにはいかない。


「ちょうどここに来る時にも先生の本を読んでたんですよ、ほら!」

「まあ、嬉しいわね! 折角来てくれたんだし、良かったらサインでもする?」

「良いんですか!?」


 持ってきていた本を鞄から取り出して先生に見せると、慣れた手捌きで表紙にサインをしてくれた。思いがけず新しくできた宝物をしまったところで、まだ先生には名乗っていないことを思い出した。


「あ、私は江寺奈緒です。よろしくお願いします!」

「ええ、よろしく」

「それにしても、お二人が姉妹だったなんて……驚きました」

「本名は空言愛良(そらごと あいら)って言うの。今はアリアで通っているから、あまり呼ばれることはないけれどね」


アリア先生が来たところでもう一度頼んでみようと思った矢先、来亜が話に入ってきた。彼女は私を指さしながら声を上げる。


「君、もう用は済んだだろう。大人しく帰って勉強でもしたまえ」

「お願いします、そこを何とか!」

「くどいぞ、とにかく君は雇わないからな!」


 先生は来亜の方に目を向けて、まあまあと彼女を宥めた。一方、来亜の機嫌は直る様子がなく、絵に描いたような膨れっ面を見せている。


「この子は来亜に雇ってもらいたくて来ているの?」

「ああ。そうとは思えないけれどね」

「物好きねえ」

「全くだよ」


 二人の物言いには、一切の遠慮がなかった。確かに来亜はかなりの変わり者だが、悪人とは思えない。助手や手伝いを願い出る人がいてもおかしくないはずなのに、どうやら私は物好きの部類に入ってしまうようだ。


「この子を雇うなら、来亜の助手になるわけでしょう?」

「まあ、そうなるね。あくまで仮定の話だが」

「何だか探偵らしくて良いじゃない。私も何か手伝ってもらおうかしら」

「安請け合いはするものじゃないよ。この場は私が収めるから、部屋に戻って作業でもしているといい」


 来亜がそう言った直後、事務所のドアを強く叩く音が聞こえてきた。そのままガチャリと音を立てて、ドアが勢いよく開く。


「あ、そういえば鍵かけてなかったな」

「もう、何回言ったら直るの……」

「いずれにせよ今は営業時間なんだから、別にいいだろう?」


 思いのほか、来亜も不用心なところがあるらしい。もし今入ってきたのが不審な人物なら危険な状況だが、助手としての有用性を見せる機会になるかもしれない。そう思って真っ先に玄関まで行くと、そこに居たのは私と同じ神土高校の制服を着た少女だった。顔は青ざめていて、明らかに憔悴している。想定とはまるで違う弱々しい来客を前にして、ついその場で固まってしまった。


「えっと……?」

「た、助けて……!」

「え……」

「私、殺される!」




 私の後を追って玄関に来た二人に状況を説明し、少女を客間で休ませた。しばらくすると顔色が戻ってきたので、来亜と一緒に彼女に話を聞くことにした。


「さて、まずは君の名前を教えてくれ」

「……小野七奈。神土高校の二年生」

「私と同級生なのか。申し訳ないが……全く記憶にないな」

「大きい高校だからね、私も名前すら知らない同級生の方が多いよ。君は有名人だから、皆知ってるだろうけどね」


 七奈と名乗った少女はだいぶ落ち着いたようで、さっきよりもかなりはきはきと話している。さっきは焦っていただけで、普段は明るい人なのだろう。その様子を見て、来亜は本題に入った。


「では、そろそろ用件を聞いても良いかな?」

「ああ、いきなり押しかけてごめん……」


 来亜の言葉を聞いて、七奈の表情は再び強張る。彼女はぎこちなく頷き、拳を固く握りながら話を始めた。


「……このままだと、私は殺されてしまうんだ。美姫の呪いで……!」


 それだけ言って、七奈は沈黙した。彼女の話は、全くもって要領を得ない。さっきは落ち着いたように見えたが、まだ恐怖や不安が消えていないのだろう。


「……君は話が下手だな!」

「ちょっと!?」


七奈が振り絞るように出した言葉を、来亜はバッサリと切り捨てた。先生が呆れたようにため息をついているのを見るに、これが普段通りの立ち振る舞いなのだろう。しかし、七奈は気にしていないようだ。切羽詰まっていて、怒っている場合ではないのかもしれない。


「そうだな……もう少し順を追って説明してくれるかい?」

「う、うん……分かった」


 来亜にそう言われ、七奈は一度深呼吸してからぽつりぽつりと語り始めた。


「……元々、私たちは八人のグループでよく一緒にいたんだ。だけど、一年前に突然その中の一人……白雪美姫が亡くなった。本人の希望で美姫の両親以外は死因を知らないし、学校も美姫が亡くなったこと以外は何も聞いていないらしい」

「なるほど、それなら私や他の生徒が詳しい話を知らないのも当然か。学校も適当なことは言えないだろうからね」

「うん。しばらくは色んな噂が流れたけど、結局時間とともに落ち着いていった。まず確かめようもなかったし、その後すぐに"人狼事件"の話も出てきたからね。でも……」


七奈の表情が、一層暗くなった。その様子から、彼女がこれから語ろうとしている内容が何となく窺える。


「ついこの前……始業式の日、友達の下駄箱に手紙が入ってたんだ。差出人の名前が書かれていない、待ち合わせの手紙だった」

「手紙……」

「ラブレターかもってはしゃいでたその子は……約束の日の翌日、遺体で発見された」


 七奈は目を伏せながらそう言った。早速考えを巡らせているのか、来亜は時折俯いて話を聞いていた。


「それから数日に一通、グループの子に手紙が届いた。そして、皆亡くなった。もちろん待ち合わせ場所に行かなかった子もいたけど、その日の夜中に家で火事が起こって家族もろとも焼け死んだ」

「そんな……!」

「昨日の夜にも、友達から電話がかかってきたんだ。助けてって声が聞こえた後、すぐに切れた。でも、結局怖くて何もできなかった……!」


 友達を助けられなかった後悔と、自らの身にも死が迫っている恐怖。同じような体験をせずとも、それらが同時に襲い来ることの苦痛が計り知れないことはきっと想像に難くないのだろう。

 話したことで恐怖が蘇ってきたのか、七奈の身体は再び震え始めた。その一方で、恐怖に抗うように話す声は大きくなってゆく。


「やっぱり……美姫は自殺して、私たちを呪ったんだ!」


 身体の中で際限なく生み出される恐怖を吐き捨てるように七奈は声を上げた。決めつけるようなその言葉は、それが真相であってほしいという祈りにも聞こえる。


「私たちは普通に接していたつもりでも、あの子にとっては苦痛だったんだ。思い返してみれば、時々急に苦しそうにすることもあった。それなのに……!」

「待ちたまえ、証拠もないのに断定するのは……」


 来亜の言葉を遮って、七奈は強く叫んだ。過剰な反応に驚いて、来亜は目を見開きながら一歩引き下がる。

 まだ真実は分からない。七奈が抱える数多の感情には、まだ行き場が与えられていない。そうして行き場のないまま積もりに積もった感情は渦を巻き、触れようとした者全てを手当たり次第に巻き込んで傷つける。それが正しくないと知りながら。何も分からないこの状況でも、それだけは間違っていると、気付いていながら。


「残された七人のうち、六人が死んでるんだぞ! この状況が一番の証拠だ!!」

「だが……!」

「それに……もしもこれが呪いじゃないなら、私たちは何でこんな目に……!」


 七奈の声は途端に弱々しくなって、彼女は涙を流しながらその場にへたり込んだ。死への恐怖だけでなく、その原因が一切説明されないという理不尽も彼女の心を蝕んでいる。その気持ちは、痛いほど分かる。


「なるほど。この事件は、解決だけでなく解明も必要というわけだ」

「……助けて、くれるのか?」


 縋るような七奈の目を見て、来亜は頷く。これだけ凄惨な事件の話を聞いたにもかかわらず、来亜の表情は晴れやかで、自信に満ちている。


「もちろんさ。滅多に出会えないような大事件だからね!」


 どうやら、その輝きは正義感よりも好奇心に由来しているようだった。やはり、彼女はただの変わり者ではないのかもしれない。


「では早速、明日から調査を始めよう」

「そっか、ありがとう!」

「まあ、大船に乗ったつもりでいたまえ!」


 来亜がそう言うと、七奈は鞄から一通の手紙を取り出して来亜に見せた。


「じゃあ、これ……」

「ん?」


 来亜が受け取った手紙を背後から覗いてみると、可愛らしい模様の便箋に待ち合わせの場所と日時が書いてあった。確かに、いかにもラブレターなんかに使われていそうなデザインだ。場所は学校の近くの公園で、日時は────明日の二十二時。


「何かの参考になるかもしれないし、自分で持ってるのは怖いからさ」

「……そうかい、それなら預かっておくよ」


 来亜は引きつった笑顔で手紙を受け取った。一方、七奈は肩の荷が降りたといった様子で、さっきよりも明らかに安心していた。アリア先生の勧めで、安全確保も兼ねて今日は事務所に泊まることになったらしく、七奈は早速二階の部屋へ休みに行った。





「もっと早く言ってほしかったな!」


 七奈が去った後、来亜は机に叩きつけるようにして手紙を置きながら開口一番そう言った。先生も手紙の内容を見て、呆れたように溜め息をついた。


「確かに、安請け合いはするものじゃないわね」

「その……本当に間に合うんですか?」


 既に不採用となった身だが、つい心配になって尋ねてみた。私の予想に反して、来亜は自信満々に即答した。


「もちろん平気さ、何も心配することはないよ!」

「……ごめんなさいね、追い詰められると姉妹揃ってこんな感じなの。もし良かったら、奈緒ちゃんも手伝ってくれる?」

「はい、もちろんです!」


 同じように即答した私を押しのけながら、来亜が少し焦ったように、待ちたまえと割り込んだ。彼女の視線は私ではなく、アリア先生に向いている。


「姉さん、勝手に決めないでくれないか!」

「でも、他に頼れる相手もいないでしょう。私は締切が近いからちょっと忙しいわねー」

「く……!」


 来亜は苦い顔をしながらこちらに向き直り、軽く咳払いをした。それから私の目を見上げて、五秒ほどかけてようやく重い口を開いた。


「……奈緒、君は仮採用とする。もちろんバディではなく助手として、だ。今後のことは、この一件での活躍次第で考えるとしよう」

「やったー!」


 諦めかけていたところでいきなり話が変わったので、思わず跳び上がって喜んだ。そんな調子だったので、あくまで仮だからな、と来亜に釘を刺されてしまった。


「私、頑張りますから! 先パイも先生も、どんどん頼ってくださいね!」

「……ふむ。先輩、か……」


 来亜は顎に手を当てて、私の言葉を繰り返した。もしかしたら、いきなり距離を詰めすぎてしまったかもしれない。


「あ、もしかして嫌でしたか……?」

「……いや、悪くない。今後も是非そう呼んでくれたまえ」


 来亜は少し余った袖ごと腕を横にぶんぶん振って答えた。声色からは分かりにくかったが、どうやら機嫌を直してくれたらしい。


「さて、それじゃあ早速行こう!」

「はい……って、どこへ?」

「まずは七奈にもう一度話を聞いてみよう。少しは落ち着いただろうからね。もし彼女が友達から待ち合わせ場所について聞いていたなら、そこにも向かってみる。それと、白雪美姫と関係のある人物に心当たりがあるかどうかも聞いておきたい」

「なるほど……」


 来亜が急に探偵らしい振る舞いをしてみせたので、思わず目を丸くする。それを見た彼女は、誇らしげに私の二の腕の辺りをポンと叩いた。多分、肩を叩きたかったのだろう。


「君はここで待っていたまえ。ここは"先輩"の出番だからね!」

「は、はぁ……」


 困惑する私をよそに、来亜は意気揚々と七奈のいる部屋に入っていった。


「大丈夫かな……」

「あれで探偵の仕事はちゃんとやってるのよ。そういう子なの」


 アリア先生はそう言うが、やはり気になってしまう。早速、さっきからカメラのシャッターを切るような音が聞こえている。少なくとも、普通の聞き込みではないことは既に明らかだ。

 先生と話をしながらしばらく待っていると、来亜は携帯電話を持って部屋から出てきた。様子を見るに、期待した通りの情報を得られたようだ。


「待たせたね。とりあえず、首尾は上々だ」


新しく得た情報を私が聞く前に、彼女は携帯を懐にしまいながらこちらに駆け寄り、私の袖を掴んで引っ張った。


「前回の待ち合わせ場所はこの近くの工場跡だ。まだ遺体が見つかっていないかもしれないから、急いで調査するぞ!」

「わ、わかりましたから、引っ張らないでくださーい!」




 来亜に半ば引きずられるようにして工場跡の奥まで進むと、ドレスを着た少女が倒れているのを見つけた。その傍には、かじった跡のあるリンゴが置かれている。リンゴは少し色がくすんでいて、どこか毒々しい。その光景から連想されるものは、ただ一つしかなかった。


「これって、まさか……!」

「まるでおとぎ話のようだな。お姫様が蘇らないというだけで、タチの悪い事件に早変わりだ」

「……やっぱり、被害者に恨みがあったんですかね?」

「さあ、まだ断定はできないね。それにしても……君は遺体に随分慣れているんだな」


 そう言われて初めて気が付いた。確かにこんな状況を前にすれば、普通はこんなに冷静ではいられないはずだ。慌てて引き退がり、来亜の方にすり寄る。


「こ、こわーい! 人が、死んじゃってます!」

「……何を隠してるのかは知らないが、君は嘘が下手だな。まあ構わないさ、慌てて喚くよりはよっぽど良い……っと」


 来亜はそう言いながら手袋をはめて、いきなり少女の着ているドレスの裾をめくった。彼女の大胆な行動に驚いて、思わず手で顔を覆う。


「なっ、ちょっと先パイ!」

「何か見つかったかい?」

「見つかったというか、見損なったというか……」

「何の話だ……?」


怪訝そうな表情を浮かべながら、来亜は顔を隠している私の手を引っ張って下ろした。


「ほら、君も見たまえ」

「えー、いくら亡くなってるからって……」


 来亜に言われて仕方なく少女の方に目をやると、彼女の足は真っ黒だった。火傷の跡なんて生易しいものではない。形を保っているのが不思議なほど、無惨に焼け焦げていた。その威力も執念も、明らかに常軌を逸している。


「ひどい……!」

「いくら人通りのない場所とはいえ、普通は遺体を野ざらしにしておかないだろう……つまり、犯人はこの遺体を見つけてほしかったんだ。それなら、ここに犯人の仕込んだ嘘があると考えるのが自然だろう」


 私が茫然と立ち尽くしている一方、来亜は顔色一つ変えずに推理を語った。もしかしたら、彼女にとっては推理した内にも入らないことなのかもしれないが。


「姫とリンゴときたら、私たちはまず毒殺を疑う。多くの人が知っている分、おとぎ話は強力な先入観を押し付けるからね。犯人はそれを利用したというわけさ」

「……先パイ、すごいですねー!」


 凄まじい速さで、来亜は犯人の思考を看破してしまった。少し強引なところがあるが、やはり彼女は優れた探偵だ。私はあまり頭が良くないから、ただ感嘆するばかりだった。


「どうだ、少しは見直してくれたかい?」

「……それはそれ、ですけど」

「さて、今日の調査はこれで十分だろう。明日、学校で聞き込みをする。そして犯人を絞り込んで解決、という流れだ」

「はーい、って……」


 返事をした直後、今回の調査で自分が何の活躍もできていないことに気が付いた。返事とともに勢いよく挙げた手が、萎れた花のように力なく曲がる。


「どうかしたか?」

「このままだと私、不採用ですよね……」

「そうかもしれないね。まあ、今は事件の解決と解明が最優先だ。焦りは禁物だよ、お互いにね」


 一抹の不安を覚えつつ事務所に戻った後、どうにか評価してもらおうと思ってご飯を作ると申し出た。苦肉の策だったが、思いがけずアリア先生は大喜びだった。しかし肝心の来亜の表情はさほど変わっていなかったので、あまり手応えは感じない。部屋で休んでいた七奈にも声をかけたが、やはり食欲がないようだったので、三人で食卓を囲むことになった。


「それで、調査の結果はどうだったんだ?」

「上々だよ。あとは明日の聞き込みで犯人を絞り込むだけだ」


 アリア先生の様子は、昼間とはかなり違っていた。さっきまでの和やかな雰囲気は消え、声も低く落ち着いている。作家の仕事は大変だと聞くから、疲れが出ているのかもしれない。しかも売れっ子ともなると、もはや私には想像がつかない世界の話だ。様子が違うことについてはあまり触れない方が良いだろう。


「……奈緒ちゃん、どうかしたか?」

「あっ、いえ……何でもないです!」

「そうだ、もう夜も遅いから、奈緒ちゃんさえ良ければここに泊まっていっても良いぞ。七奈ちゃんも泊めるから、気を遣うことはない」


 思いがけない言葉に驚き、危うく箸を取り落としそうになってしまった。


「えっ、いいんですか!?」

「姉さん、また勝手に……いや、違うな」


来亜は先生に抗議しようとして、何かに気付いたように言葉を止めた。先生の言葉に、私が気付かないような深い意味があったのかもしれない。


「えっと……何か意図があるんですか?」

「大したことじゃないよ、姉さんの性格を知っていれば簡単なことさ。今日泊めることで、明日の朝ごはんも作ってもらおうって魂胆だろう」

「……まあ、そんなところだ」


観念したように目を閉じて俯きながら、先生は来亜の言葉を肯定した。その様子を見て、ふっと来亜は勝ち誇ったような笑みをこぼした。


「なんだ、それぐらいならいくらでもやりますよ。他にも、掃除と洗濯ぐらいなら一通りできますから!」

「来亜、すぐにこの子の採用を決めてくれ。このとおりだ」


先生は何の躊躇いもなく、来亜に向かって頭を下げた。そんな姉を見て、来亜は呆れながらため息をつく。


「はあ……曲がりなりにも大人なんだから、簡単に妹に頭を下げないでくれ」

「曲がりなりにもとは何だ、私は真っ直ぐ大人になってきたつもりだが」

「背筋も性根も曲がりっぱなしじゃないか。姉さんが真っ直ぐなのは寝てる時ぐらいだろう」


 傍で見ているだけでもひやりとするような鋭い言い合いだったが、二人とも怒り出すような気配は全くない。あくまで日常会話の範疇なのだろう。絶対に反発されるだろうから言わなかったけれど、遠慮のない言い合いができるような相手がいることが少し羨ましかった。

 ご飯を食べ終えた後、明日に備えて早めに支度を済ませて寝ようとしたが、やはりうまく寝つけなかった。人の家に泊まったことがほとんどないからだろうか。あるいは────あまりに静かな夜だからだろうか。

 気分転換のために一度起き上がってみると、隣の部屋から微かに声が聞こえてきた。気になったので、壁際まで寄って話の内容を聞いてみることにした。


「ご機嫌麗しゅう、お姉様。今日もお美しくてよ」

「……要求は何だ? どうせろくでもないことだろうが」

「話が早くて助かるよ。七奈と全く同じ格好を用意してくれ。身長も同じにしたい」

「分かった。明日の夜までに二人に説明を済ませておけ」

「やっぱり持つべきは仕事の早い姉だね」

「上辺だけ褒めても何も出ないぞ。だいたい、締切も近いというのに……」

「そうかい、じゃあ今度ペンでも買ってきてあげよう。それじゃあ、おやすみ」

「はいはい。全く、とんだ不当契約だな」


 先生の呆れたような声で会話は終わった。なぜ来亜はあんな頼み事をしたのだろうか。布団に戻り、ない知恵を絞って考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。




 翌朝、予定通り学校での聞き込み調査に取りかかった。本当は昼休みと放課後に聞いて回るつもりだったが、白雪美姫の関係者として七奈から名前を聞いた人数が思ったよりも多かった。だから、解決するための準備にかかる時間も踏まえ、聞き込みは朝から始めた方が良いと判断したのだ。まずはとにかく手当たり次第に、美姫に関して知っていることや七奈たちのグループの印象について聞いて回った。


「あの子たち、気の毒だよね……少しはしゃぎがちだったけど、白雪さんに悪意を持ってはいなかったはずよ。それなのに、こんなことになっちゃって……」

「白雪先輩は……雰囲気は明るかったけど、よくわかんない人だったな。ミステリアスというか、何を考えているのか分からないことが結構あったよ」

「白雪さん? ああ、確か亡くなる直前は学校を休んでいたね。学校に行く余裕が無かったのかな」


 結局、ほとんどの人は同じような印象を抱いているようだった。白雪美姫は、明るく無邪気なクラスの人気者。しかし、それ以上のことは分からない。誰とでも気さくに話をしているはずなのに、謎に包まれている。そう思うと、何だか少しだけ来亜に似ているような気もする。

 放課後になってから、残った三人————中学の頃から付き合いのある先輩、美姫の幼馴染、去年の担任の先生にも話を聞くことができた。


「……美姫が亡くなる数日前に会ったんだけど、ひどく落ち込んでるようだったね。でも、相談に乗ろうかって言っても首を横に振るばかりでさ。悪いね、結局わからずじまいだ」

「……知らない。多分、他の子が話していたのと大体同じよ。昔からずっと一緒にいたのに、私には彼女が何を考えていたのか分からなかった……今でもね」

「そうだなあ……勉強はよくできていたけど、口数が少ない子だったからそれ以上のことは分からなかったな。何かあるかもしれないと思って頻繁に話はしたけれど、これといって何も教えてもらえなかった。教員として、無力を感じたのを覚えているよ」


 結局、核心に近づくような情報を得られたようには思えなかった。しかし、来亜なら何かに気付いているかもしれないと思い、恐る恐る尋ねてみた。


「あの……ほんとにここから犯人を絞り込めるんですか?」

「……無理だな!」


来亜は両手を勢いよく真上に挙げながら、堂々とそう言い切った。お手上げのようだ。人の命がかかっているのに、何だか随分余裕がある気がする。


「もしかして、やり直しですか!?」

「まさか。やり方を変えるだけさ。あらかじめ犯人を絞り込むのは諦めて、まずは事件の解決に踏み切る」


 来亜の言うことは、まるで分からなかった。犯人が絞り込めていないのに解決できるわけがない。一日中奔走していたから、彼女も疲れているのだろうか。


「えっと……先パイ、一回休憩しますか?」

「心配無用だ。犯人の狙いは明らかに七奈たちのグループの殺害……だから、犯人はもう一度事件を起こさなければならない」


 そこまで聞いて、ようやく私にも見当がついた。しかし、それはあまりにも危険すぎる。私の考えが間違っていることを祈りながら、来亜に答えを聞いてみた。


「……まさか」

「そう、体当たり調査だ!」


 私が予想していたのと全く同じ、かつ探偵の口から到底聞かないような言葉が飛び出した。つまり、来亜は今夜の事件現場に乗り込んで、犯人の姿を直接目の当たりにするつもりでいるのだ。


「君は体力に自信があると言っていたな。少々危険だが、君の力を見せてもらう良い機会にもなるだろう!」


 彼女は胸を張ってそう言った。確かに私にとっては好都合かもしれないが、それで彼女が危険な目に遭っては意味がない。何とか方針を変えさせようと考えていると、もう一つの聞き込み先を思いついた。


「そういえば……白雪さんの家族には聞かなくて良いんですか?」

「一応連絡を取ってみたが、案の定断られてしまった。一年経っても死因すら明かしていないんだし、初対面の相手に話せることは何もないんだろう」


 冷静になってみれば、私がすぐに思いつくようなことを来亜が実践していないはずがない。彼女の言う通り、聞き込みの調査だけでは限界がある。いよいよ腹を括るしかなさそうだ。不安を露わにする私を見て、来亜は自信満々に人差し指をこめかみの辺りに当てた。


「まあ、そう恐れることはないよ。とっておきの秘策があるからね」

「秘策?」

「ああ。七奈にも一緒に説明したいから、一度事務所に戻ろう。そろそろ用意もできているはずさ」




 それから事務所に戻って、七奈と一緒に来亜の話を聞いた。日は沈みかかっていて、約束の時間が着々と迫っている。まだ時間はあるが、あまり悠長に話している余裕はない。


「それじゃあ、作戦を説明する。私が七奈の変装をして待ち合わせ場所に向かい、犯人を取り押さえて洗いざらい吐かせて解決する。以上だ」

「ちょっと待ってください、私の出番が全くありません!」

「仕事は自分で勝ち取りたまえ。助手とはいえ、探偵業に関わるのならばね」


 来亜は私の抗議をバッサリと切り捨てた。しかし、私だけではなく七奈も作戦に疑問を抱いているようだった。座っている来亜の頭上の辺りに視線を向けながら、七奈は彼女に尋ねる。


「そもそも私の変装って……そんなことできるのか?」

「できるさ。準備も済んでいる」

「何とか間に合ったわ。七奈ちゃん、サイズはこれで合ってる?」


 見計らったように、ちょうどアリア先生が服を持って部屋から出てきた。七奈は服を見て、困惑しながらも頷いた。


「合ってるけど、こんなのいつの間に……」

「姉さんの部屋で話を聞いた時、写真を撮っただろう? そこから君の服装と同じものを作ってもらった。もちろん、ちゃんと一度で脱ぎ捨てられるように仕掛けをしてある。変装の解除でもたつく心配はないよ」

「なるほど……って、そうじゃなくて! 私と同じサイズの服を空言さんが着ても……」


 七奈も私と同じように来亜の逆鱗に触れてしまったかと思ったが、意外にも来亜は落ち着いていた。むしろその表情は自信と余裕に満ち溢れ、胸を張ってすらいる。


「そうだな。奈緒ほどじゃないが、私と七奈にもそれなりの体格差がある。通常なら、サイズまで合わせて変装することは不可能だろう」

「う、うん……」


 来亜はにやりと笑いながら、得意げに指を鳴らした。彼女のことだから、ここまでの振る舞いが全てハッタリである可能性も十分考えられるのに、つい期待してしまう。


「だが、これから披露する秘策をもってすれば、それが可能になる。そうだろう、姉さん?」

「もちろんよー!」


 そう言って先生が取り出してきたものを見て、私たちは言葉を失った。私と七奈だけでなく、来亜もだ。彼女は自らが先ほどまで自信満々に語っていた”秘策"の正体を前に、一度深呼吸をしてから沈黙を破った。


「……まあいいさ!」

「い、いいんですか!?」

「一晩の仕事としては上々だろう……そのはずだ!」


 一気に不安になってきたが、もう時間もない。どうにかして、私が来亜を守らなければならない。今の私にできるのは、改めてその決意を固めることだけだった。




 二十二時。変装を済ませた来亜とともに待ち合わせ場所の公園に着いた。私は隣にいると不自然なので、物陰に隠れて様子を見ていた。そこに立っていたのは、美姫の幼馴染だ。来亜はカツカツと足音を立てて前後にふらつきながら、犯人と向き合った。


「……約束通り来たわね」

「……」

「随分足取りが悪いようだけれど……恐怖で上手く立てないのかしら?」


 来亜は喋らない。話す余裕がない、と言った方が正確だろうか。犯人はその様子を見て嘲るような微笑を浮かべ、名乗った。


「最後の挨拶をしておくわ。私は金山羊子……美姫の幼馴染よ!」

「……これはこれは、ご丁寧にどうも!」


 来亜はそう言って変装を解いた。昼間と同じ、袖の余ったぶかぶかのコートが姿を現す。同時に、それまで彼女が乗っていた竹馬がカラカラと音を立てて倒れた。


「竹馬!?」

「……やはり、そっちに目がいってしまったか」


 来亜は不満げに頬を膨らませた。慣れない竹馬で疲れたのか、足は少し震えている。


「まあいいさ。ごきげんよう、金山さん。体を張った大嘘はいかがだったかな?」

「空言さん……どうしてここに!」

「依頼を受けてね。この事件を解決しに来た。それだけさ」

「……そう。まあ、何でも良いわ。誰であれ、邪魔をするなら死んでもらう」


 羊子はただの人間とは思えない殺気を来亜に向けて放っていた。彼女にあるのは執念だけではない。その背後に、何かを隠している。その気配は、単なる直感と呼ぶにはあまりにもはっきりと形をもっているように感じた。羊子が来亜にゆっくりと人差し指を向けると、その先が微かに赤く光る。瞬間、岩陰に隠れていた獣が突如姿を現したように、おぞましい殺気が全身に走った。


「先輩、危ない!」

「うわっ!?」


 咄嗟に飛び出し、来亜を抱えて走る。後ろを振り返ると、赤い光が大きな炎に姿を変え、さっきまで来亜がいた場所を焼き尽くしているのが見えた。来亜は私に抱えられたまま、おおー、と気の抜けた声を出しながらその様子を見ていた。


「いやあ、助かったよ。まんまと焼け死ぬ所だった。それで……そろそろ下ろしてくれても構わないのだが」

「先輩、一旦このまま退避します。掴まっていてください!」

「あ、ああ……わかった」


 来亜は思いのほか冷静だった。私だけで羊子を止めることになるかもしれないと思ったが、その必要はないかもしれない。羊子は私がいた場所を点で辿るように指をさし、次々に炎を起こす。原理は全く分からないが、幸い精度はそこまで高くないようだ。しかし、このまま逃げ続ければ、いずれ凄まじい勢いの炎が辺りを呑み込んでしまう。それだけは避けなければならない。


「どこに逃げても無駄よ!」

「奈緒、昨日行った工場跡に誘導してくれ!」


 来亜の指示に頷き、公園を出て工場跡に向かった。羊子が放ってくる炎を避けながら、どうにか目的地に辿り着く。昼も夜も人通りはほとんどないし、近くに住宅地もない。確かにここならば、周囲に危険が及びにくいだろう。

 鉄骨の残骸を何度か跳び移り、ある程度高いところまで来てから来亜を下ろした。その時、ちょうど羊子が敷地内に入ってきたのが見えた。誘導は成功したようだ。


「あの所業、まさしく魔女だな。さて、どう止めたものか……」

「先輩、ここは私に任せてください!」


 来亜も言っていた通り、私の力を見せるとしたら今しかない。危険だが、ここで前に出ないわけにはいかなかった。


「君、何か急にしゃっきりしたな。どうしたんだ?」

「あ……」


 この非常事態にあっても、やはり探偵は鋭かった。だが、今は羊子を止めることが先決だ。こんな所で悠長に昔話をしている時間はない。


「それは……少し、話せば長くなります」

「そうかい。じゃあ、それについてはまた後日だ。手短に作戦を伝えるとしよう」


 来亜はそう言って手招きした。屈んで耳を貸すと、彼女は一言だけ私に作戦を教えてくれた。あまりに単純な内容だったので、つい聞き返してしまった。


「それだけ……ですか?」

「作戦はね。戦闘中の指示はその都度出すから、それには従ってくれ」

「でも、こんな簡単な……」

「勘違いされやすいが……こういうのは単純な方が良いのさ」


 来亜は不敵に笑っていた。炎を操る魔女などという現実離れした相手を前にしても、彼女は勝利を確信している。きっと、今度は虚勢ではない。


「それと……これを」

「これは?」


 来亜が手渡したのは、銀のナイフだった。武器なら私も多少は持っているが、私のものとは何かが違う。並外れた業物というわけでもなさそうだが、不思議と特別な力を感じさせる。


「それは"人狼事件"を解決した時に使ったナイフだ。退魔には銀……というのは有名な話だからね。魔女退治にはうってつけだろう」

「……わかりました。使わせてもらいます」


 ナイフを受け取り、地上に向かって跳んだ。来亜も私を追いかけ、近くの鉄骨を足がかりにして降りてくる。危険だが、作戦の根幹をなしているのは来亜の指示だ。それがかき消されないようにするためには、彼女も私の近くにいるしかない。


「ようやく見つけた。辺り一帯を焼き尽くそうかと思ったけれど、その必要は無さそうね」


 羊子が私たちを見つけ、笑みを浮かべる。そして、手前にいる私の方に指を向けた。狙い通り、即座に炎を回避して一気に距離を詰める。


「速いッ……!」

「もらった!」


 迫った勢いのまま、羊子の首を手刀で叩く。しかし、彼女の首は鉄のように硬く、逆に私の手に痛みが跳ね返ってきた。反動で軽くふらつきながら、急いで退避する。


「かっ……たあ!!」

「気を付けろ、奈緒! 魔女は悪魔から力を受けた存在だ!」


 羊子にも聞こえるように来亜が叫ぶ。明らかにただの人間ではないとはいえ、彼女はまだ魔女であると明かしたわけではない。来亜は羊子の反応を見て、その確証を得ようとしているのだろう。


「何かの仕掛けにしろ、あるいは実物にしろ、必ずどこかにいるはずだ。彼女に力を与えている────悪魔が!」

「魔女……ね。半分正解といったところかしら。姿を現しなさい、フラウロス!」


 羊子が叫ぶと、彼女の傍に豹のような姿をしたものが現れた。野生的な獰猛さを感じさせる外見とは裏腹に、大きく鋭い爪を羊子の首元に優しく添えている様子はどこか令嬢を守る執事に似ているようにも見える。


「あれは……!」

「フラウロス……炎を操る悪魔だ。奈緒、やはり羊子は……」


来亜がその次に発していたであろう言葉を強く否定するように、羊子は彼女の言葉を遮って口を開いた。


「魔女……ではないわ。魔女は悪魔に魂を売った存在。私は逆に、悪魔を従えているのよ」


 私たちの追っていた犯人は、想像以上に強大だったようだ。しかし、来亜は平気な顔をして黙っている。普段の子どもらしい外見と立ち居振る舞いが全て嘘だったのかと疑いたくなるほど、彼女は冷静だ。


「なるほど。さっき奈緒の手刀が弾かれたのは、その悪魔が庇ったからか」

「そうね。その子も大概人間離れしているけれど、悪魔には及ばないでしょう」


 羊子の一言で、鼓動が一気に早まった。私の中にある何かが、外に出ようとしているような感覚が走る。甘く見られたことに対する怒りでも、正体を現した悪魔に対する恐怖でもない。ただ、目の前の強大な相手に惹かれるように————それはほんの一瞬だけ、私の身体を乗っ取った。


「————悪魔なら、殺してもいいか」


 地を蹴って、フラウロスに向かって一気に接近する。悪魔が後退しながら吐き出す炎を避けながら、勢いを止めずにその懐へ迫ってゆく。鼓動がさらに早まり、微かに口角が上がる。頬を掠めた熱気が、私を享楽の中へ引きずり込んでゆくのを感じた。

 その爪が、牙が、そして炎が、私の命を奪い取ろうと立て続けに襲いかかってくる。その全てをすり抜け、来亜から受け取ったナイフを振るう。瞬間、鉄のように硬かった皮膚に、嘘のようにあっさりと刃が通った。切られた悪魔の腕が音を立てて地面に落ちると同時に、その持ち主は歯を食いしばるように小さく吼える。


「ガァッ……!」

「え……?」


 ふと我に返ると、手元のナイフの刀身をなぞるように悪魔の鮮血が滴っているのに気がついた。全くの想定外だったが、状況が有利になったことは間違いない。私の身に起こったことについて考えるより、今はこの戦いに決着をつけなければならない。

 来亜の方を振り返ると、私がフラウロスと戦っている間に、彼女は羊子に一歩ずつ近づいていた。来亜はいつの間にかコートから取り出していた手錠を得意げにくるくると回している。


「さて……君が魔女じゃなくて良かったよ。ただ悪魔を従えているだけなら、今の君は丸腰だというわけだ」

「く……まだよ、フラウロス!」


 羊子が叫ぶと、悪魔は切れた腕を再生して炎を放った。突然の出来事だったが、来亜は予見していたかのようにすかさず私に指示を出す。


「奈緒、右に避けろ!」

「はい!」


 指示通り、右に避ける。直後、悪魔は私を追って向きを変えながらわずかに距離を詰め、再び口を開いて炎を放つ構えを取った。


「もう一度だ、右に避けろ!」

「……はい!」


 さっきと同じように、右に避ける。それでも悪魔は止まらず、さらに一歩近づいてもう一度大口を開ける。


「まだ来るぞ、右に避けろ!」

「先輩、ちょっとうるさいです!」


 避けながらそう言うと、来亜はむっとした様子を見せた。次の炎が来る瞬間、彼女は一層大きな声で指示を出す。


「……左に避けるな!」

「えっ!?」


 左に向かって踏み込んでいた足で咄嗟に地を蹴り、その反動を利用して何とか反対側に回避した。来亜の方を見ると、何事もなかったかのように顎に手を当てて考え事をしている。


「もう、こんな時にムキにならないでください!」

「ムキになんてなった覚えは全くないよ。こんな時に妙な言いがかりをつけるのはやめたまえ!」


 見え透いた嘘をついて、来亜は私の文句を一蹴した。こちらは危うく死にかけるところだったというのに、全く気にしていないようだ。


「そんなことより、今ので確信できた。フラウロスの炎は羊子から離れるほど弱くなっている!」

「……!」


 言われてみれば、最初の炎に比べてその後の炎はいくらか避けやすかった。三度目の炎に至っては、来亜の意地悪があっても対応が間に合ったぐらいだ。


「悪魔を羊子から引き離してくれ————頼む!」

「……わかりました!」


 悪魔の弱点を見抜いた来亜は、事件の解決に向けて一気に踏み込む指示を出した。私が伝えられた作戦の通りに行動しているのを確かめると、彼女は羊子を追いかけて走り出す。行き止まりまで追い詰められた羊子は、息を切らしながら眼前の来亜を睨んでいた。


「何なの、あの子……何で悪魔と互角に戦ってるのよ!」

「あっはっは、こっちが聞きたいな!」


 来亜は改めて羊子に問いかける。私たちには、彼女に聞かなければならないことがある。事件を解明して、七奈がこの悲劇の呪縛に囚われたままにならないようにするために。


「さて……どうして、こんなことを?」

「あら、もしかしてもう勝ったつもり?」

「ハッタリかい? そういうのはもう少し前もって使っておくべきものだよ」


 羊子は不敵に笑っている。来亜と同じ、揺るがぬ勝利を確信している表情だ。自身は


「確かに、フラウロスは私から離れるほど力を失うわ。でも————そんなの、対策してないわけがないでしょう?」


 羊子はそう言って、手を高く挙げながら叫んだ。それに呼応するように、私の目の前にいたフラウロスが羊子の方を向く。


「来なさい、フラウロス!」

「な……まさか、喚び戻せるのか!?」


 私の目の前から突如悪魔の姿が消えると同時に、羊子のそばに大きな黒い影が現れる。そして、それは瞬く間に初めと同じ姿に戻っていった。輪郭を取り戻した悪魔の眼光が、来亜を射止める。

 眼前に立ちはだかった悪魔の姿を見て、来亜は目を見張った。ただし、それは羊子の期待しているような、絶望の表情ではない。相手を陥れる一瞬の隙を捉えるため、彼女は目を見開いたのだ。


「……なんてね。そんなの、対策してないわけがないだろう?」


 私たちの勝利は揺るがない────表情までよく見えるほど、私はずっと二人の近くにいたのだから。

 来亜が指を鳴らしたのを合図に悪魔めがけて飛びかかり、ナイフでその心臓を突き刺した。悪魔は大きな断末魔を上げ、視界まで震えるほどの衝撃が走る。地鳴りのような揺れが数秒続いた後、悪魔の身体は崩れ落ちて塵となり、それと同時に叫び声も止んだ。

 私は内心驚いていた。悪魔が姿を現してから、来亜が羊子に向けて嘘をついたのは一度だけだ。それも、子どもが遊びでつくような単純な嘘。しかし、それが悪魔を倒す決定打となった。たった一つの嘘、たった一本の牙で、彼女は悪魔の命を抉り取ったのだ。

 来亜から手錠を投げ渡されたので、羊子の両手を拘束した。彼女は抵抗こそしなかったが、その表情はどこか不服そうだ。


「おや、どうして負けたのか分からないって顔だな」

「……そうね。正直、今の状況は全く腑に落ちていないわ」

「そうかい。それなら、タネ明かしといこう」


そう言って、来亜は不意に後ろを振り返る。彼女の視線を追うと、遠くに街灯がぽつりと立っているのが見えた。その光に照らされて、彼女の足元から影が伸びている。自分の背よりも長い影を見て満足そうに笑みをこぼした後、来亜は話を始めた。


「さて……最初に違和感を覚えたのは、フラウロスの姿を見た時だ。姿を隠せるなら、わざわざ私たちに見せる必要はないはずだからね」

「……そうね」

「それなのに、君はフラウロスの姿を見せた。つまりはそうする必要があったということだ。例えば……身を隠している間は、君も悪魔を視認できなかったとしたら?」


 羊子は悔しがる様子もなく、ただ黙って来亜の話を聞いている。どうやら、新たに別の悪魔を呼び出すことはできないようだ。再び戦いになる気配もないので、来亜の傍に戻って彼女の話を聞くことにした。


「ひとまずそれが姿を見せた理由だと仮定したが、そうすると今度は戦いの中でずっと姿を現している理由がない。最初に姿を見せた時点で大まかな位置は把握できただろうから、後は隠れて戦った方が有利なはずだ」

「……」

「あれだけの力を持った悪魔だ。いちいち指示なんか出さず、適当に暴れさせれば大抵の相手は圧し潰せるだろう。しかし、君はそうしなかった。恐らく、そうできなかったんだろう」


 ずっと来亜の話を聞いていると、何だか彼女の言っていることが分からなくなってきた。そこまで複雑な話をしているわけではないはずなのに、残念ながら私の理解が追いつかない。


「先パイ……話が分からなくなってきました」

「何で君の方が話を遮るんだ……まあ、要するに悪魔は身を隠したままだと力が弱まるんじゃないかと思ったんだよ。それでも無抵抗の人間を焼き殺すぐらいは造作もないだろうが、戦うとなると話は別だ。下手に出し惜しみをしたせいで負けてしまっては話にならないからね、全力を出すために羊子は私たちに悪魔の姿を見せたというわけさ」

「な……なるほど……?」


 せっかくまとめてもらったが、残念ながらあまりしっかりと理解はできなかった。その様子を見抜いたのか、来亜は深い溜め息をついて話を戻した。


「失礼、進めよう。それから、フラウロスの力について奈緒に身体を張って検証してもらい、君と悪魔の距離が炎の威力に関係していることを確認した。それに気付いたことを明かしても、君は一切の動揺を見せなかった。だから、何か対策があるんだろうと踏んだのさ」

「……なるほどね」


 苦々しい表情を浮かべながらも、羊子は納得したようだった。しかし、その直後に彼女は一つの疑問を投げかけた。


「でも、その子……奈緒は私からフラウロスを引き離すように指示されていたはずよ。どうして私がフラウロスを喚び戻した直後に奇襲ができたの?」


 その疑問を待っていたと言わんばかりに、来亜は口角をうっすらと上げた。したり顔の見本のような、自信満々の表情だ。


「簡単なことさ。奈緒には事前に伝えておいたんだ。私が”頼む”と付け足して指示をした時は真逆の行動を取ってくれ、とね」


 戦いに出る前に来亜から聞いた、たった一つの単純な作戦。その正体を聞いた羊子は、虚をつかれたような顔をしてその場にへたり込んだ。こうして、事件は無事に解決した。後は、七奈たちを狙った理由を解明するだけだ。


「では、今一度聞こう────どうして、こんなことを?」

「……本当の悪魔を、裁くためよ」


 羊子は俯きながら、呟くようにそう言った。ぽつりぽつりと、火のついた蝋が溶け落ちるように、彼女はゆっくり話し始める。


「美姫が亡くなる直前、あの子はずっと学校を休んでいた。心配だったから、プリントを届ける時に学校を休んだ理由について聞いてみた。けれど、あの子は答えてくれなかった……」


 羊子の声が微かに震える。今もなお収まらない怒りを押し殺そうとするような低い声で、彼女は話を続けた。


「高校に上がる前はそんなこと全くなかったから、高校に上がってから美姫に近づいてきた七人組の生徒に原因があると思ったの。それを指摘した途端、何も話さなかった美姫がいきなり首を横に振った。それで、押し問答のような形で喧嘩になった。結局、それが美姫との最後のやり取りになった……」

「そんな……」

「美姫は最後まで否定していたけれど、七人があの子を傷つけていたのは間違いないわ。喧嘩になった時、美姫の腕に痛々しい傷跡みたいなものがあるのも見えた……!」


 その後は、私たちの知る通りだろう。復讐を決意した羊子は、七奈の友達を一人ずつ呼び出して殺し、その遺体に白雪姫のような美しいドレスを着せた。苦痛を伴う惨めな死を包み隠すために。あるいは、それが悪に対する報いであることを他の誰かに暴かせるために。


「これが、この事件の全て。本当の悪魔は……奴らの方よ」

「……そうか」

「……ねえ、空言さん。一つ聞いても良いかしら?」


 来亜は黙って頷き、問いかけを促した。数秒の沈黙の後、羊子は強く拳を握り、目を伏せたまま問う。


「これが悪いことなのは分かってる。でも……美姫のためにはこうするしかなかった! あの子だけが辛い思いをしたまま、やがて忘れ去られるなんて……そんなこと、あっていいはずがない!」


 羊子の気持ちは理解できる。たとえ失ったものが戻ってこなかったとしても、失ったもののためにできることは確かにある。彼女の場合は、それが復讐だったのだ。少なくとも、私には羊子を責めることはできない。


「聞かせて。私……間違ってる?」


 救いを求めるようなか細い声で、羊子はそう言った。来亜は真っ直ぐに彼女の方を向いて答える。


「……さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だ」

「……そう」

「私は魔法の鏡じゃないからね、君の問いに対して正しい答えを返すことはできない。だが……これだけは言っておこう」


来亜は顔を上げた羊子の目を見ながら言葉を続ける。冗談の混じった言葉とは裏腹に、その表情は真剣そのものだ。


「これは君の起こした事件、君の犯した罪だ。美姫のため……そんな言葉で、死者に罪をなすりつけるんじゃない」

「……!」


 今この時だけは、その小さな身体にただならぬ迫力が宿っているように感じた。嘘をついてばかりいる来亜の口から飛び出した、偽りのない彼女なりの答え。それを聞いた時、彼女が密かに抱えているものの片鱗を見たような気がした。

 来亜の言葉に続くように、空から一枚の手紙が降ってきた。少し遠かったが、宛名に書かれた文字がいくつか見えた。そこには確かに”羊子”と書いてある。


「あの手紙……羊子さんに宛てたものです!」

「君、あんな遠くの文字が読めるのか!?」

「私、ちょっと拾ってきます!」


 風に揺られる手紙を必死に追いかけてどうにか掴み、羊子に渡す。彼女は宛名の文字を見て、驚いたような表情を見せた。


「この字、美姫の……!」


 羊子はそう言って、半ば破るようにして手紙の封を開ける。彼女は恐る恐る、手紙に書かれた文字を一つずつ声に出しながら辿った。


『羊子、昨日はごめんね。病気のことを言おうと決心したはずなのに、いざとなると言い出せなかった』


 亡くなったはずの美姫から届いた手紙。ここには、残酷な真実が綴られている。初めの数行の時点で、それを察するには十分だった。しかし、羊子は手紙を読むのをやめなかった。この手紙が、この事件を全て無に帰してしまうとしても、もはや向き合う他に術はない。


『……私の身体には、腫瘍があるの。初めて見た時は小さかったのに、治療が追いつかずにどんどん大きくなっていって、今ではおとぎ話の毒リンゴみたいになっちゃった』


 羊子の声が、少し震える。美姫は彼女にも、そして恐らく七奈たちにも、最後まで病気のことを隠していたようだ。来亜も驚いたのか、微かに目を見開いている。


『この病気のことは、本当はずっと隠しているつもりだった。皆には弱々しい、みっともない姿を見せたくなかったから。両親にも相談して、私が死んだ後も秘密にしてもらうことにしたの。最初はそういうゲームをしているみたいで、何だか楽しかったわ』


 いつの間にか、雨が降ってきていた。羊子は背中を丸め、手紙を庇いながら読み続ける。美姫がこの世界に遺した最期の痕跡が、雨に濡れてなくならないように。


『でも、昨日……あなたが怒って部屋を出て行った時、急に死ぬ時のことが怖くなった。このまま何もしなければ、死んだ後もあなたに誤解されたままだと思うと、すごく嫌だった』


 手紙を握る羊子の手に、一段と力が入る。その一方で、文字を辿る声はさっきよりも弱々しく震えていた。背中では庇えない雫が手紙に落ちて、いくつかの文字が滲む。


『だから、隠していたことをこの手紙に書いて残すことにしたの。この手紙がいつかあなたの手に届いて、私の隠していた全てを知って、それで終わりにしてくれるように』


 ひどい手紙だ。こんなたった一枚の手紙で、これで終わりだと割り切れるわけがない。これは、もはや呪いだ。死ぬまで記憶に焼きついて、火傷のように決して消えない。

 羊子は自身の抱える感情をどうにか押し殺そうとするように歯を食いしばりながら、最後の一節を読んだ。


『私が死んだ後は、私の友達とも仲良くしてね。いつも七人で一緒にいる、同級生の女の子。皆、すごく優しい人たちよ』


 それが、美姫の本当の望みだった。だが、もはや叶うことはない。ここはおとぎ話の世界ではない。決して、一度失われた命が再び戻ることはない。


『この手紙を……読んでくれて、ありがとう。世界で、一番、大切な————!』


 言葉が出ない。目の前で残酷な結末が紡がれてゆくのを、私たちはただ黙って見ていることしかできなかった。

 美姫が亡くなってからおよそ一年の間、羊子が抱き続けてきた執着が、恨みが、そしてそれらを全て注いで作り上げた復讐が、美姫の遺した希望を跡形もなく焼き尽くしてしまった。羊子に降りかかったその事実の重さは、察するに余りある。


「な……仲良くって、何よ……! 私、こ、殺し……殺しちゃったじゃない……!」


 羊子は引きつったような表情を浮かべた後、うずくまって呻くような声を上げた。ぐしゃぐしゃに濡れて文字の滲んだ手紙を強く握り締めながら。


「これで……終わり、なんですね」

「……いや、まだだ!」


 来亜は何かに気付いたようにはっと息をつきながらそう言うと、泣き崩れる羊子を置き去りにして、最初に逃げてきた高所に向かって突然走り出した。慌てて追いかけながら、その意図を問う。


「先パイ、急にどうしたんですか!?」

「常識的に考えてみたまえ、こんなに都合よく手紙が降ってくるわけないだろう!」

「あ……悪魔と戦った後に常識を持ち出さないでくださーい!」

「この辺りで一番高い場所……そこに、事件の真相を知る者がいるはずだ!」


 来亜を必死に追ってようやく屋上に辿り着くと、そこには彼女の他にもう一つ人影があった。背格好は男性とも女性ともつかない。仮面のようなもので顔を隠していて、目と口元以外はほとんど見えない。ただ、その人影が微かに笑みを浮かべていることだけは確かだった。


「はあっ、はあっ……先パイ、足はや……!」


 息を切らしている私に構わず、来亜は人影に向かって問いかける。その口調には、既に若干の敵意が込められていた。


「……お前は、何者だ?」

「おや、出会って早々に難しい問いかけをするものだな」


 彼、あるいは彼女は、自身を睨む来亜の目をちらりと見て返答した。何かの機械を通しているのか、声に少しノイズが入っていて、やはり性別は分からない。


「はあ……哲学をするためにわざわざこんな高所に来る人間がいると思うかい?」

「どうかな、山頂なんかは案外適していると思うけどね。ともかく、今のは軽い冗談だ。そう本気にされると困る」


 全くもって要領を得ないやり取りに辟易したように来亜は溜め息をついて、もう一度目の前の相手に問いかけた。


「……質問を変えよう。単刀直入に聞くが、さっき手紙を落としたのはお前だな?」

「……さあ、何のことかな」


 人影は、飛び回る鳥を目で追いかけるかのように視線をあちこちに散らせながら返答した。


「おいおい、嘘が下手だな。目が泳いでいる……いや、泳ぎすぎだろう! からかっているのか!?」

「あっはっは、まあそんなところさ!」


 人影は笑いながらいきなり地面に向かって飛び降りると、パラシュートのようなものでゆらゆらと空中に浮かんだ。適当な刃物を投げて撃ち落とそうと身構えたが、来亜に手で制止された。


「待ちたまえ、情報を聞く前に攻撃するのは得策ではない」

「……分かりました」

「おや、後ろの子は助手か何かかな?」


 その質問に来亜は答えない。目の前の不審者がふわふわと宙に浮きながら返答を待っているにもかかわらず、沈黙を保っている。その意図が気になって、相手に聞こえないような声で来亜に聞いてみた。


「な、何か答えるとまずいんですか?」

「特に意味はないよ、単に嫌がらせで答えてないだけだ」

「ええ……」


 とうとう先に向こうが痺れを切らした————というよりは、重力に負けた。奴はゆっくりと着地した後、ここまで聞こえるような声で呼びかけてきた。


「さて、それなりに遊んだところで、最初の質問に答えよう。僕は……怪盗。怪盗ライト。この神土町の闇を照らす者さ!」

「範囲が狭いな!」

「ああ、別に覚えてくれなくたって良いよ。その方が好都合だ」

「生憎、私は物覚えが良い方でね。こんな見るからに三流の怪盗なんか、忘れるはずもないさ」


 ライトと名乗った怪盗は、来亜の挑発を全く気に留めずに時計を見ていた。出会ったばかりなのに、来亜の口撃を見事にのらりくらりと躱している。小手調べのような嘘に騙されっぱなしだった私とは大違いだ。


「おっと、今回はそろそろお別れとしよう。できればもう会いたくないものだが……そうはいかないだろうね」

「な……待て!」


 来亜は走って追いかけようとしていたが、今から階段を降りて地上に着く頃には、もう姿を見失ってしまうだろう。彼女も今回は諦めるしかないとすぐに悟り、その場で足を止めた。


「く……無意味な嫌がらせなんてするものじゃないな!」

「やっぱり嫌がらせで黙ってたのか……まあいい。君たちは精々気をつけて降りたまえよ、ここの階段結構急だからな!」


 そう言い残して踵を返した後、ライトがぽつりと一言だけ呟くのが聞こえた。


「いつか、必ず本当の自分に向き合うんだ……期待しているよ、空言来亜」

「あの人、先パイの名前を……?」


 ライトの姿が見えなくなると、来亜はやれやれと息をついてその場に座り込んだ。訝しんでいる様子もないから、恐らく彼女にはライトの言葉は聞こえなかったのだろう。


「何だったんだ、あれは……」

「先パイ、何か心当たりはないんですか?」


 相手が来亜の名前を知っているようなので一応聞いてみたが、案の定彼女は首を横に振った。


「あったら随分と楽だったんだが……残念ながら、怪盗の知り合いはいないね」

「そうでしたか……」

「何にせよ、手紙を落としたのが奴なら、この事件の裏側を知っているはずだ。それなら、羊子の力や悪魔についても何か情報を握っているのかもしれない。次に会った時に捕まえて話を聞いてみるとしよう」


 来亜はやけに意気込んでいるようだった。理由を尋ねてみると、彼女は不敵な笑みを浮かべながら答えてくれた。


「それはもちろん、探偵として、怪盗との勝負を避けるわけにはいかないからね」

「確かにそうですね!」

「それに、もしかしたら……」

「……もしかしたら?」

「ああ、何でもないよ。ただ次はからかい返してやれるだろうと思っただけさ」


 来亜は何かを隠しているような気がしたが、やましいことを誤魔化しているという雰囲気ではなかったので、詮索はしないことにした。

 今度こそ事件が一段落したと思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。その場にへたり込んで、そのまま身体を横たえる。


「はあ……疲れました」

「ひとまず、今は怪盗のことについてこれ以上考えても仕方がないか。少し休んだら帰ろう。姉さんにも連絡してある」


その場でしばらく休憩していると、一台の車が建物の近くまで走って来るのが見えた。そこからアリア先生の呼ぶ声が聞こえてくる。階段を降りて先生のもとまで辿り着くやいなや、当然の疑問を投げかけられた。


「あんなところで何やってたんだ?」

「ちょっと追いかけっこをね。いやあ、足が来てくれて助かったよ」

「置いて帰るぞ」

「まあお姉様、そんないけずなこと言わないでおくんなまし」

「どこの誰を元にしたんだ……全く、後で仕事手伝ってもらうからな。大体、締切直前の作家をこき使いすぎだ」


 先生の様子は昨日の夜と同じで、冷静さを感じさせる鋭い目つきと口調をしている。しかし、昼間と全く違う雰囲気とは裏腹に、優しさは相変わらずだ。君らも送ってやろうと言って、先生は私と羊子も車に乗せてくれた。

 羊子は交番の近くの住宅地で降りた。確か美姫の家はもう少し先にあったような気がしたが、何も言わずに見送った。


「そうだ、先パイ!」

「何だ?」

「採用の話ってどうなりましたか!?」


 羊子が降りてから、車が発進する前に急に思い出して来亜に尋ねた。来亜はしまった、とでも言いたげな表情をするだけに留まらず、しっかりと声にも出した。


「なんだ、結局考えてなかったのか……」

「仕方ないだろう、悪魔まで絡んだ大事件だったんだ。流石にそんなことを考えている余裕はなかったよ」


 来亜は一度咳払いをして、助手席から私のいる後部座席の方に振り返った。運転席と助手席の間から、片方の目だけが覗いている。


「……奈緒、君は少々礼節を欠く言動が目立つ」

「お前が言うな」


 先生が横から口を挟み、来亜は一瞬口ごもる。しかし、何とか持ち直して話を続けた。


「……が、この事件は君のおかげで解決できた。それは紛れもない事実だ。だから……君を助手として採用しよう」


 その言葉を聞いて、私は思わず両手を挙げた。ぐい、と一気にシートベルトが持ち上がる。これがなかったら、間違いなく立ち上がっていた。


「やったー!」

「子どもみたいな喜び方をするな、君は!」

「いいじゃないですか、本当に嬉しいんですよ!」

「全く……」

「是非、これからもどんどん頼ってくださいね!」


 ひとしきり話が終わったのを見て、先生がカーナビの地図を触りながら私に声をかけた。


「さて、そろそろ行くか……奈緒ちゃん、家はどの辺りだ?」

「……あ」


 ここで、重要なことを思い出した。できるだけ考えないようにしていたが、思い出してしまった以上はどうにかするしかない。


「もしかして門限かい? 気の毒なことだ。随分遅くなったから、こっぴどく叱られるだろうね」


 来亜は悪戯っぽく笑って、からかうように言った。そんなことで済めば、どれだけ良かっただろう。


「その……私、いま家ないんです」

「なっ……!?」

「えっと、その……そう、親が海外に行くからって勝手に売り払っちゃって。今までは残されたお金であちこちに泊まって何とかしてきたんですけど……」


 話す準備を全くしていなかったので、しどろもどろになってしまった。先生は私の話を聞いて、堪えきれずに声をあげて笑った。


「あっはっは! 門限どころか、そもそも門がないときたか!」

「姉さん、笑ってる場合か! それにしても、どうすれば……」

「良ければうちに来るといい。どうせ事務所で働いてくれるわけだし、まあしばらくは何とかなるだろう」


 全く悩む様子もなく、先生はそう言った。あまりに決断が早かったので、むしろ私の方が戸惑ってしまった。


「えっ……本当にいいんですか!?」

「私としては大歓迎だ。来亜がいいと言うかどうかは分からないがね」


 そう言って、先生は来亜の方をちらりと見る。来亜は苦々しい表情を浮かべていたが、しばらく悩んだ末に答えを出した。


「……仕方あるまい。採用すると言った以上、君は正式に私の助手だ。その辺に放り出して、野垂れ死なれては困る」

「先パイ……!」

「ただし、家事は手伝うこと!」


 来亜は私の方をびしっと指さして付け加える。それを見て、先生は呆れたような表情を浮かべていた。


「お前が言うな……」

「そういうわけで、これからよろしく頼むよ」

「ありがとうございます! こちらこそ、よろしくお願いします!」


 行き先が一つになった車の中で、ふと怪盗の言葉を思い出した。本当の自分に向き合うこと。それが、来亜には必要なのだろうか。そうだとしたら、きっと彼女も私と同じだ。私にも、今の自分が本当の自分とは違うという感覚が確かにある。自分に対して何か嘘をついているような気がするのだ。そんな疑念はつゆ知らず、私たちの乗る車は雨露に濡れる夜道を駆け抜けていった。

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