序章 ——狼少女——
◆
高校入試の合格発表の日、私は受験票を握りしめながら、気の遠くなるような数字の羅列と対面した。情報の大波に呑まれているような気分で視線を動かしていると、不意に一つの数字がぴたりと目に留まる。
「う、受かってる……!」
「やあ君、そこの君」
私が自分の受験番号を見つけると同時に、誰かが声をかけてきた。振り返ってみると、声の主はぶかぶかのコートを着た背の低い少女だった。ずいぶん余っているコートの袖を揺らしながら、彼女は私に近づいてくる。
「受かっていたのかい、おめでとう」
「え……誰?」
「私は……ほら」
少女はコートのポケットから名刺を差し出した。どうして自分の名刺なんか持っているのだろうと思いつつ受け取ると、そこには両手にピースを作った笑顔の彼女の写真と『空言来亜』という文字があった。
「えっと……くう、げん、くるあ?」
「見事に外したな。空言来亜だ。変な名前だろう?」
「いや、そんな……私が間違えただけだよ」
気を遣わなくてもいいさ、と来亜は言う。私も変な名前だとからかわれたことがあるから、彼女がそのように言う気持ちは何となくわかる。
「それにしても……初めて聞いた時は甘味処と聞き間違えたものだが、この神土高校ってのは中々甘くないね」
「あなたも受かってたの?」
私がそう尋ねると、来亜の表情が唐突に暗くなった。さっきまで自信に溢れていた声を一段と低くして、彼女は答えた。
「いや、落ちたよ」
「え……」
しまったと思い、反射的に一歩身を引いた。そこから恐る恐る来亜の顔を見ると、さっきとは打って変わって、にやりといたずらっぽい笑みを浮かべていた。まるで、動揺する私の反応を楽しんでいるかのようだ。
「もちろん、嘘だよ!」
「えっ!?」
「それより、君の名前は?」
「え、えっと……」
戸惑いながらも名乗ると、君も大概変わった名前だねと来亜は笑った。それから彼女と別れて何人かと簡単な挨拶をして帰ったが、来亜の軽妙な語り口となんの前触れもない嘘が何よりも強く記憶に残った。そして、その印象が消えないまま私は入学式当日を迎えることになった。
入学式の日にも来亜に会った。相変わらず、彼女はぶかぶかのコートを着ている。神土高校には一応制服があるのだが、公序良俗に反するものでなければ服装は自由だ。私は制服の方が楽なので制服を着ているが、私服で登校する生徒も少なくない。来亜の格好は奇抜でこそあったが、問題視はされなかったようだ。
「やあ、また会ったね。私たち、どうやら同じクラスみたいだよ」
「あ……来亜ちゃん」
私が来亜の名前を呼ぶと、彼女は一瞬戸惑ったような顔をした後、少し気恥ずかしそうな表情を浮かべながら返事をした。
「……来亜でいいよ」
「その……呼び捨ては慣れてなくて」
「そうかい、なら無理にとは言わないよ。じゃあよろしく、流」
「えー、来亜ちゃんは呼び捨てなの?」
「余計なものは入れない主義でね。いい名前じゃないか。谷降流。タニオリ、ナガレってさ」
来亜の呼び方は、何となくからかっているように感じた。彼女がそのつもりなら、私も少しだけ反撃しよう。
「余計なものは入れない主義なのに、この前私に何の意味もなく嘘ついたの?」
「あ……それは、まあ、その、嘘は私の生命線だからね」
「ふふ、何それ」
私の反撃は予想外だったらしく、来亜は慌てた様子で言い訳をした。彼女の焦りを代弁するように、コートの袖が左右に揺れていた。
こうして、やや風変わりな友人とともに私の高校生活は幕を開けた。それから数日一緒に過ごしたが、来亜のことはほとんど分からなかった。自分について隠そうとしているわけではないのに、彼女は謎に包まれている。特徴的なのにつかみどころのない、不思議な人間だ。そんな彼女のことを少しでも知りたいと思ったので、帰り際に質問してみた。
「来亜ちゃんって、きょうだいとかいるの?」
「ああ、姉さんが一人」
「へえ、どんな人なの?」
「一応物書きをやっているよ。忙しい時は忙しいようだけど、基本的には家でだらだらしてばかり。私と同じ、ろくでなしさ」
「えぇ……」
どうやら、私の想像している姉と実際の姉には相当な乖離があるらしい。だがそれよりも、自分もろとも家族のことをろくでなしと躊躇いなく言い切る来亜の姿勢に困惑してしまった。
「私は嘘をついてばかりで、姉さんは横になってばかり。空言家にはライアーが二人いるってわけさ」
「そうなんだ……」
「ただ、作品は中々みたいだよ。なんでも、書いてある言葉が現実に起こっていると感じられるほどリアリティがあるって評判さ」
一応物書きをやっている、と言うから売れているわけではないのかと思っていたが、どうやら作家としての実力は本物らしい。
「す、すごいんだね!」
「……わざわざここにいない人間の話をすることもないだろう。そうだ、今日は喫茶店でも行かないか?」
私は返事をする前に時計を見て、その指す時刻に驚いて目を見開いた。日が沈んでしまう前に、急いで帰らなければならない。
「もうこんな時間!?」
「そんなに遅いかな、まだ五時だよ」
「ごめん、今日は無理!」
「何か用事でもあるのかい?」
不意に問われ、思わず言葉に詰まる。彼女はどこか訝しむような表情をしていて、思わずたじろいでしまった。
「いや、その……ご飯の用意をしなきゃいけなくて」
「……そうかい、じゃあ仕方ないな。飲み物の写真でも送りつけてやろう!」
「あははっ! ごめん、じゃあまた明日ね!」
笑いながらそう言った彼女とすぐに別れ、息を切らして家まで帰った。ご飯を食べた後、彼女から本当に飲み物の写真が届いた。鮮やかな赤色を見ていると、つい果実の瑞々しい甘酸っぱさを思い起こしてしまう。
「……あはは」
何だか喉が渇いてきた。彼女は嘘をついてばかりいるが、嘘だと決めてかかるとかえって罠にかかってしまう。彼女のことをちゃんと理解できる日は来るのだろうか。
夏休みが近くなってきても、来亜がコートを脱ぐことはなかった。初めて会った時からずっと気になっていたその服装について、ついに彼女に直接聞いてみた。
「来亜ちゃんっていつもそのコート着てるよね」
「え、ああ……そうだね」
「暑くないの?」
来亜は一瞬ぴたりと止まって、自分の両手の先で余っている袖を一回ずつ見た。それから、小さな声で返答した。
「……まあ、暑いな」
「それでも着てるんだね」
「……このコートは、兄さんの形見だからさ」
少し遠くを見るような目をして、来亜はそう答えた。気まずい空気が流れるのを感じる。来亜にとってあまり踏み込まれたくない話を聞いてしまったかと思い、申し訳なくて彼女から目を逸らした。その後、もう一度ゆっくりと来亜を見ると、とても嬉しそうな顔をしていた。まさしく満面の笑みだ。
「もちろん、嘘だよ!」
「な……!」
「きょうだいは姉さんしかいないって前に言っただろう?」
「で、でもそのコート、かなり大きかったから……本当なのかなって」
「……そうかい?」
彼女は少し間を置いて返事をした。問い直されたので、私はそのコートに対する率直な感想を述べた。
「うん。来亜ちゃんがそれを着てると、なんだか……子ども博士とかに似たものを感じるよ」
「子ども……」
「あ、ちがっ……」
来亜の表情はみるみるうちに曇り、すっかり落ち込んでしまった。今度こそ、彼女を傷つけてしまったようだ。どうにか励まそうとして、萎れた花のように下を向いている彼女に声をかける。
「その……違うの」
「何がどう違うんだ?」
彼女は顔を上げながら鋭く切り返した。小さくも強かな眼光が、私を捉えて逃さない。
「それは……」
何とか弁明しようとしたが、どう言えばいいか分からず黙り込んでしまった。結局、口からこぼれるようにたった一言だけ発することしかできなかった。
「ごめん……悪気はなかったんだけど……」
「……しょうがないな。じゃあ、喫茶店」
「え?」
「喫茶店、明日一緒に行こう。ちょうど学校も早く終わるし、文句は無いだろう?」
「あ、うん……」
万が一、帰りが遅くなってしまったら困るのだが、罪悪感から断ることはできなかった。もし、拗ねるところから既に彼女の演技────嘘であったなら、私は上手くはめられてしまったのかもしれない。
その後、私は結局彼女がコートをずっと着ている理由を聞き出せていないことに気が付いた。
「そうだ、それで……どうしてずっとコートを着ているの?」
「それ、そんなに重要なことかい?」
「それは分からないけど……何だか気になって」
そんなものかな、と呟きながら来亜は答えた。彼女は両手を広げ、ただでさえぶかぶかのコートをさらに大きく見せる。
「まあ、これが私にとっての正装というだけの話さ」
「その探偵みたいなコートが?」
「ああ。なんせ探偵だからね」
来亜はさらりとそう言ってのけた。そのあまりに自然な様子が、かえって怪しかった。
「何、また嘘?」
「本当さ!」
来亜は胸を張って堂々としている。彼女は嘘を見抜かれたらすぐにタネ明かしをするから、恐らく探偵をやっているのは本当なのだろう。
「とは言っても、まだ何一つ解決した事件は無いけどね」
「それ、探偵って言えるの?」
「名乗る分にはタダだからね」
来亜と別れた後、彼女と初めて出会った時に貰った名刺をもう一度見てみた。最初に見た時は気付かなかったが、裏面に探偵事務所の名前と住所が書いてあった。ちゃんとした名刺なら両手にピースの写真は使わないだろうと思って、見落としたまましまい込んでいたようだ。
翌日、私は彼女と電車に乗り、その近くにある喫茶店に行った。そこで新作らしい飲み物を味わいながら、他愛のない話をした。どこにでもあるようなチェーン店だったが、彼女は隠れ家的な名店にでもいるかのように気取った姿勢で座っていた。その背伸びをするような態度がやはり子どもらしいと思ったが、もちろん彼女には言わなかった。
「この店にはよく来るの?」
「ああ、私の行きつけの店さ」
「そっか……」
そう言うと思った。数ヶ月一緒に過ごしてきて、私にも少しずつ来亜のことがわかってきた気がする。彼女は注文したブラックコーヒーに信じられない量の砂糖を入れ、涼しい顔をして飲んでいた。むしろ、ここがチェーン店で良かったかもしれない。
「家も近くだし、通いやすいところにあるからね」
「へえ、この辺りに住んでるんだ」
「よければ寄っていくかい?」
思いもよらない誘いについ乗ってしまいそうになったが、帰りが遅くなるかもしれないからと丁重に断った。彼女は一瞬神妙な顔をしたが、すぐにほっとした表情を見せる。
「はは、冗談だよ。本当に来るって言われたらどうしようかと思った。人なんて到底呼べたものじゃない有様だからね」
「もう……」
隙あらば危険を冒してでも嘘をつく彼女にやや呆れて溜め息をついた。その時、他の席からの話し声が妙にはっきりと聞こえてきた。
「最近物騒で嫌ねえ」
「そうねえ、うちの子も心配で仕方ないわ」
「毎日一人ずつ女の子が行方不明になるっていうあの事件、もう全国ニュースになってるみたいよ」
来亜の方に向き直ると、彼女は目を見開いていた。どうやら、話が聞こえたのは私だけではなかったらしい。彼女は恐怖ではなく、むしろ好奇心や期待を抱いているように見える。
「来亜ちゃん?」
「これは……事件だね」
「ま、まあそうだろうけど」
彼女は襟を正し、ずいっと身体を前に出して口元で両手の指を組んだ。いかにも探偵らしい姿勢だ。恐らく彼女も私と同じ偏見を持っているから、こんな姿勢をとっているのだろう。
「毎日一人ずつ少女が姿を消す————言うなれば”人狼事件”といったところか。私の初仕事にふさわしい大事件じゃないか!」
「そんな、危ないよ!」
「そう、確かに私も狙われるかもしれない。だが、事件の方からやって来るなんてむしろ好都合だろう?」
自信満々にそう言ってのけた来亜は、残っていた飲み物を一気に飲み干す。さっきまで頑張って取り繕っていた優雅さが、一瞬にして影も形もなくなった。
「早速聞き込みをしよう!」
「あ、ちょっと……!」
私の制止を気にも留めず、彼女は席を立ってしまった。そして話し声の聞こえてきた席へ向かい、そこに座る女性たちに声をかけた。
「お茶の最中に失礼、ご婦人方」
「あら、来亜ちゃん。相変わらず大きなコートね」
どうやら、来亜は女性たちと知り合いのようだ。行きつけの店というのは本当らしい。彼女が何気なく発したであろう言葉も、つい本当かどうか確かめてしまう。何だか悪い癖がついているような気がする。
「……少々お聞きしたいことが」
「ええ、何かしら?」
「少女が行方をくらましているという事件について詳しくご存じで?」
「私たちはニュースで見ただけだから詳しくはわからないわね。事件がどうかしたの?」
来亜は待ってましたと言わんばかりに、自信に満ちた様子で答えた。この時点で、女性たちの返答の予想はついた。
「実は私、探偵を務めておりましてね……この事件を追おうかと思っているのです」
「……あっはっは、嘘はもう少し上手くつきなさいよ!」
来亜は私の予想通りの返答を正面から受け、言葉を失った。女性がいくら言葉を待っても来亜は動かず、いたずらに沈黙が流れる。
「まあいいわ。もし本当に探偵だとしても、事件が事件だからね。くれぐれも気をつけるのよ」
戻ってきた彼女は、不満げに頬を膨らませていた。一応理由を尋ねてみたが、その答えは何となく分かっていた。
「私はそんなに探偵らしくないのか……?」
初めての聞き込みの後、すっかり来亜は落ち込んでしまっていた。彼女を慰めるためにかける言葉が他に見つからなかったので、私はつい口を滑らせてしまった。
「……そんなに落ち込まないでよ、私も協力するから、ね?」
「……本当に?」
来亜はいきなり前に出て、私の顔を見上げた。予想以上の食いつきに驚いて思わず一歩下がってしまったが、ひとまず元気は戻ったようだ。
「も、もちろん」
「……じゃあ私たちはこれからバディを組むわけだ!」
「バディって、探偵というより刑事じゃない?」
「細かいことはいいのさ。それに、友達を助手扱いする方が失礼な話じゃないか」
「それはそうかもしれないけど……私、役に立てるか分からないよ?」
「別に構わないさ。流……この事件、一緒に解決しよう!」
「……うん、そうだね!」
協力するとは言ったものの、私が来亜の助けになれるとは思えなかった。しかし、彼女の嬉しそうな顔を前にして、今更辞退することはできなかった。
帰り道、彼女はずっと笑顔だった。不思議に思って理由を聞いてみると、バレていない嘘がまだあるからだと言う。私は一生懸命考えてみたが、駅に着いても結局何だか分からなかった。
「うーん……分からない」
「まだ考えてたのか、中々粘るね」
「もう帰っちゃうし、教えてよ」
「……仕方ないな。じゃあ、何で私がいま君と一緒に電車を待っているのか考えてごらん」
来亜の言葉を聞いた途端に心当たりが生まれ、思わず声を上げてしまった。
「……あ!」
「わかったかい?」
「そういえば、家が喫茶店の近くって……!」
「ご明察! 喫茶店が行きつけなのは本当だけどね。いやあ、これはかなり長持ちしたな!」
嘘の内容はわかったものの、彼女の家を知らない私には見抜きようのない嘘なので、納得はいかなかった。
「もう、結局意味の無い嘘だし……来亜ちゃん、意地悪だよ!」
「あはは、ライアーにとってはこの上ない褒め言葉だね!」
つい強い言い方になってしまったが、来亜は全く気にしている様子ではなかった。むしろ、いつも通り満面の笑みを浮かべている。嘘をつくことでこれほど元気が湧いてくるのならば、嘘が生命線だという彼女の言葉もあながち間違っていないような気がする。彼女の嘘に付き合っていたら、予定よりも帰るのが遅くなってしまった。彼女が先に電車を降りたので、手を振って別れた。それから、日が沈みゆく夕焼け空に度々目を向けながら、急ぎ足で帰った。
翌日の放課後、前々から気になっていたことについて来亜に尋ねてみた。
「あの、来亜ちゃん」
「何だい?」
「その、今更かもしれないんだけど……来亜ちゃんがよく言う”ライアー”って何?」
「あれ、言ってなかったかな。私みたいに嘘を愛してやまないろくでなしのことさ。嘘つきじゃあ人聞きが悪いからね、私はそう呼ぶことにしている」
「そうなんだ……」
私にはいまいちその違いが分からないが、どうやら彼女なりのこだわりがあるらしい。
「そんなことより、今日からいよいよ調査開始だ!」
「そ、そうだね」
彼女は意気揚々と私の袖を引っ張りながら、昨日の喫茶店の辺りへ再びやって来た。街の様子は昨日と変わらず、それなりに人の往来があった。
「それじゃあ始めよう。結構人が多いから、二手に分かれた方が良さそうだな」
「ちょっと危ないけど……人も多いしそうしようか」
そして私たちは聞き込みを始めた。数人に聞いてみたものの、事情を詳しく知っているらしい人は見つからなかった。それもそのはずだ。被害者が例外なく行方不明になっている上に、直接犯人を見たという人もいない。素人目にも、聞き込みで事件の情報を集めるのが不可能に近いことはわかる。
特に情報を得られなかったので、場所を変えようと思って辺りを見回すと、ぐったりして座り込んでいるバディが視界に映りこんだ。
「来亜ちゃん!?」
「……ああ、流か」
「そんな所で何してるの……あ、もう良い情報を聞けて休んでるとか?」
「……疲れた」
彼女は弱々しく呟いた。さっきまでの勢いは見る影もなく、ただでさえ小柄な彼女がさらに小さく見える。
「え?」
「探偵の仕事がこんなに辛いものだったとは……」
「まだ始まったばっかりだよ……」
来亜は抱えていた自分の膝の間にそのまま顔を埋めてしまった。聞き込みを続けるどころか、立ち上がろうとする気配すらない。
「とにかく、私はもう歩けない」
「嘘でしょ!?」
「この目を見てもそう言い切れるかい?」
そう言って、来亜は顔を上げた。彼女の目は、通りすがりの人が背負っていたリュックサックと私の間を行ったり来たりしている。
「……まさかとは思うけど、おぶってほしいとか?」
こくこくと彼女は頷く。私は内心呆れてしまったが、ここで彼女を捨て置くわけにもいかないので、仕方なく彼女を背負うことにした。
「悪いね、流」
「ほんとだよ……」
「そこの曲がり角までで良いから……あぁ、極楽だな。君、おんぶの才能あると思うよ」
「そんなの褒められても嬉しくないよ!」
来亜は私の背中の上でごそごそと何かをしているようだったが、それよりも周りの人たちの奇異なものを見る目の方が気になって仕方がなかった。溜め息をつきながら、彼女に言われた曲がり角まで歩く。
「……はい、ここまででいいよね」
「助かったよ、ありがとう。少し名残惜しいが、聞き込みに戻るとしようか」
「全く、もう……」
子どもみたいなんだから、という言葉がつい口をついて出そうになったが、何とか押し留めた。離れていく彼女をしばらく眺めていると、突如後頭部に強い衝撃が走った。後ろを振り返ることもできず、痛みでほとんど声も上げられない。呻くような音とともに小さく息が漏れるばかりだった。
「うぁ……!」
「へへ……上手くいくもんだな。おい、連れてくぞ。一緒に運んでくれ」
そのまま複数の男に抱えられて車の中に運ばれ、後部座席に放り込まれた。意識が朦朧とする中、最後に来亜の声が微かに聞こえてくる。
「流、そっちはどうだ? 場所を変えた方が良いかな……って、ながれ……?」
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。眼を開けると私は手足を縛られていて、知らない建物の中にいた。ガラスの割れた窓から、傾いた陽射しが差し込んでくる。周りを見ると、私を連れ去ったであろう数人の男たちが同じ部屋にいた。
「ここは……」
「チッ、目を覚ましやがったか。まあいいだろう、逃げれやしねえさ」
「……」
静かに、男たちを睨む。正当な怒りと逆恨みの両方が、私の中でゆっくりと渦巻き始めている。それを知ってか知らずか、奴らは平気な様子で薄汚い笑みを浮かべていた。
「悪いが、お前の身柄はボスに引き渡す。その後は知ったことじゃねえ。俺らは金を貰っておしまいだ」
ああ、なんて運の悪い。だから危険だと言ったのに。でも、こうなる覚悟はしていた。私のかつての友人たちも、こうして捕らえられ、別の人間に引き渡された。今はどこにいるのか、生きているのかも分からない。私も、彼らと同じようになるのだろう。悪事を働く男たちが取引の場にするような所だから、きっと助けに来る人はいない。けれど、もしこのまま日が沈んだら、あるいは────
ふと、下の階の方から足音が聞こえた。あっという間に私のいる部屋まで近づいてきて、ついにその主が姿を現した。
「ごきげんよう、悪漢ども」
「あ……!」
そこにいたのは、私の今の友人だった。
「てめえ、何者だ!」
「私は空言来亜。駆け出しの探偵さ」
自分よりずっと身体の大きな男たちを前にしていながら、全く怯む様子を見せない。
彼女はコートの襟を正して、男たちに向かって話した。沈みかかった夕陽に照らされたその身体から、大きな影が伸びている。
「お前みてえなガキが探偵だあ?」
彼女の言葉を聞いて、男たちは声を上げて笑った。それが彼女の逆鱗に触れる行為だと、彼らは知る由もない。彼女はふっと息を漏らしながら軽く笑った。
「……いや、よく見破ったな。私は探偵なんかじゃない」
「はは、そうだろうなあ!」
「私は霊能力者だ」
「……は?」
来亜の狙いは私にも分からなかった。彼女が自身の正体を偽ったところで、状況が好転するわけでもないはずだ。本当に霊能力者であれば話は別だが、私の知る限りでは、彼女はどうしようもなくか弱い探偵でしかない。
「……お前たち、これまでに相当な数の悪行を重ねたようだな。怨霊がそこかしこに見えている」
「怨霊だあ……?」
「私がここに来たことを奴らは好機だと……待て、後ろ!」
来亜がいきなり声を上げる。その気迫に呑まれ、男たちは咄嗟に後ろを振り返る。しかしそこには手足を縛られたままの私しかいない。恐る恐る来亜の方を見ると、彼女は安堵の表情を見せていた。
「いや、危なかった。お前たち、怨霊に襲われかけていたよ。既にこの周辺でいくつも屍を作っているんだな」
「おい、俺たちはこの街じゃ誰も殺してねえし、こいつ以外は攫ってすらいねえぞ」
瞬間、彼女の表情が引きつる。数秒の沈黙の後、彼女は咳払いをして苦しげに話を続けた。
「……なるほど。しかし私は……そうだな、さっき結界を張った。これでもうお前たちは近づけない」
途端に来亜の嘘が雑になる。男たちはその様子を見てにたりと口角を上げた。彼女の額の汗が沈みかかった夕陽に照らされ、いやにきらきらして見えた。
「……なあ、あのホラ吹きはいつまで置いとくんだ?」
「見られちまったしなあ……いい加減飽きてきたし」
「そうか、なら片付けちまおうぜ!」
男のうちの一人が来亜に襲いかかる。彼女の両隣は机に挟まれていて、咄嗟に逃げ出すのは難しい。思わず目を背けかけた時、男は一瞬何かに動きを阻まれたように見えて────電撃のような音がした直後、彼は気を失っていた。無傷の探偵以外のその場にいた全員が、目の前の光景を信じられずにいた。
「何……!?」
「……嘘を重ねれば重ねるほど、真実は見えなくなっていく。狼少年の語った真実が、彼の村を滅ぼす牙となったようにね」
来亜はそう言いながら、男たちの方に少しずつ近づく。その威圧感に押しのけられるように、奴らは一歩ずつ引き下がっていった。
「そして……嘘で塗り固めた私の言葉に込められた真実は、お前たちを破滅させる銀の弾丸となる」
「ま……まさかこいつ、本当に結界を張ってやがるってのか!?」
その結界の仕組みは、私には全く分からなかった。それは男たちも同じらしく、気を失った男に続いて襲いかかろうとする者はいない。来亜はその様子を見て、得意気に微笑んでいる。
「来ないのか、つまらないな。それなら一つ、別の謎の答え合わせをしよう。流……フードの中、探ってごらん」
「え……?」
そう言われたが、手足を縛られているので探りようがない。しばらく経って、痺れを切らした男の一人が私のフードを探り、小さな機械を取り出した。男は舌打ちをして、手にした機械を床に落として踏み壊す。
「これって……?」
「発信機さ。それを使って、私は攫われた君の居場所を突き止めたというわけだ」
自慢げにタネ明かしをする来亜に、未だ男たちは近づけない。この僅かな時間で、彼女は完全に場の空気を呑み込んでしまった。
「念のため仕込んでおいたが、まさか役に立つとはね。ああ、帰る前には外すつもりだったから、そこは誤解しないでくれ」
「いつの間に……」
おいおい、と来亜は分かりやすく呆れたような仕草をした。両の手を広げ、力なく首を横に振っている。
「……君、まさか私が本当に疲れて一歩も動けなかったと思っているのかい?」
「あ……おぶった時!」
「チッ……小賢しい真似しやがって!」
手出しができずにいる男たちの怒りはどんどん増してゆく。そこに突然足音が近づいて、細身の男が姿を現した。彼は無言で来亜の背後に回り、彼女が構えるより前にその首を掴んで身体ごと持ち上げた。
「がっ……!?」
「……ここなら平穏に引き渡しが終わると思ったんだがね……」
細身の男は呟くようにそう言った。周りの男たちは急にかしこまった様子で彼の方を向く。
「ボ、ボス!」
「どうやらしてやられたようじゃないか、君たち。机の間にピアノ線が張られてるのが見えないのか?」
「ピアノ線、ですか……?」
細身の男がそう言うと、他の男たちの視線が一斉にさっきまで来亜がいた場所へ集まる。見れば、確かに彼女を挟んでいた二つの机の間に細い線が張られている。さっき来亜に襲いかかった男は、これに動きを阻まれたのだろう。
「それに、見ての通りこいつはスタンガンを隠し持っていた。いくら戦闘員でなくとも、これぐらいは気付いてくれなければ頼りにならないね」
「す、すいません!」
今までその場にいなかったにもかかわらず、細身の男は一瞬で来亜の仕掛けを見破った。その事実一つで、他の男たちとは格が違うことを十分すぎるほど理解した。
「……随分目がいいんだな、お前」
「失礼、タネ明かしは自分の手で行いたいタイプだったかな?」
彼女は何とか首を回し、男を睨みつけようとする。しかし男は力を強め、鷲掴みにするように彼女の首をとらえて離さない。彼女の顔は徐々に青くなってゆくが、男が力を緩める気配はない。彼は一見油断しているようでありながら、嘘によって抜け穴を作ることを全く許さぬ冷酷さを持っていた。
「ぐ……!」
「悪いが、私たちも組織で動いているのでね。下手に逃がせば消されるのはこちらだ。迷い込んだネズミにはここで死んでもらう」
「────やめて!」
耐えかねて、思わず声を張り上げた。その場にいる全員がこちらを見る。直後、辺りが急に暗くなった。ついに日が沈んだのだ。とうとう、私は谷降流ではなくなってしまうのだ。手足を縛っていた縄が千切れ、私が立ち上がると同時に、重力に従ってはらはらと力なく落ちていった。
「来亜ちゃん……ごめんなさい」
「いや、流……君、眼が、紅く……!」
沈む夕陽を吸い込んだような真紅に染まった私の眼を指さしながら、彼女は動揺を隠しきれない様子で私を見た。
「……ごめんなさい。私、あなたのことを裏切ってしまう」
◇
流の紅い眼を見た直後、来亜の目の前には惨状が広がっていた。血祭りという言葉すら、その光景の前にはあまりにも生ぬるい。来亜に襲いかかって失神した男も、その仲間である他の男たちも、彼らとは桁違いの力を持つ細身の男さえ瞬く間にその命を奪われて、それぞれ身体がおかしな方向に曲がったまま辺りに散らばっていた。突如漂ってきた血なまぐさい匂いに、来亜は思わず一瞬姿勢を崩す。
「ああ……!」
「ごめんなさい、来亜ちゃん。私……嘘をついていました」
「……君の正体については、確かに思い当たる節があった。だが、そんなことがあるはずはないと切り捨てた。まんまとしてやられたわけだ!」
来亜は目の前の怪物に対して驚きこそしたが、恐れも怒りも抱いてはいなかった。自身にかつてないほど大きな脅威が迫っているにもかかわらず、彼女は笑っている。
「ははっ……全く、君も大したライアーじゃないか!」
「…………」
来亜の反応を見て、流は戸惑っていた。これまでその紅い瞳で捉えてきたのは、恐怖や苦痛に満ちた表情ばかりだったから。人の命を容易く奪う怪物を相手に、来亜は一歩も退かずにそのまま話を続ける。これは虚勢か、それとも何か勝算があるのか。あるいは、そもそもそのような二択に相手の考えを絞らせるのが彼女の策なのか。際限なく湧き上がる破壊衝動に食い潰されながら、流の思考は断末魔を上げるかの如く急激にその速度を高めていた。
「確かに私が今まで疑問に思った点は、君の正体がそれであれば全て辻褄が合う。なぜ、日が沈む前に君は帰るのか。なぜ、バディを組んだ時にわざわざ役に立てるか分からないなんて言ったのか。そして……君を攫った男たちがここでの犯行は初めてだと言っていたことも」
「……それは」
「……それは?」
言いかけて口を噤んだ流に問い返して、来亜は発言を促した。流が再びゆっくりと口を開くと、研ぎ澄ました刃物のような鋭い牙がわずかに姿を覗かせた。
「私が————人狼だから。”人狼事件"の、犯人だから……!」
獣と化した相棒の体毛が夜風に靡くのを、来亜はじっと見つめていた。もはや焦点が合っているのかどうかさえ定かでない流の眼を見据えて、来亜は問いかける。
「……どうして、こんなことを?」
「それは……来亜ちゃん、あなたを食べるためです」
「いたって月並みだな」
「……驚かないのですか」
「察しはつくからね」
流が目的を明かしても、来亜は普段と同じ様子だった。流が一歩近寄ってみせても、彼女は眉一つ動かさない。彼女は一度息をついてから、再び流の眼を真っ直ぐ捉えて問う。
「では……どうして、こんなことに?」
「……!」
来亜は、流が人を襲うのには何か理由があるのだと考えた。彼女、谷降流はいたって普通の少女だった。たとえその正体が人狼であっても、人間としての彼女に乱暴で暴力的な面は一つとして見られなかった。現に、こんな状況になった今も理性的に話ができているのだ。明らかに、彼女は衝動や本能とは別の何かを抱えている。
「そんなの、理由なんてない……私が人狼だからです」
「ふむ……最後ぐらい、嘘のないやり取りをしたいものだが」
「……あなたが、それを言うのですか」
来亜の言葉を聞いた流は、身体の中から溢れ出してしまいそうな激しい衝動を食い止めるように息を切らしながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私たち人狼には、二つの種類があります。普段から狼として生きるものと、普段は人として生きるもの。私は後者でした。仲間と山の中で家を作って……穏やかに暮らしていました」
流は話しながら、涙を流していた。鮮血のように紅い眼が、微かに滲む。来亜はそれを見て、今度こそ流の言葉に嘘はないはずだと悟った。
「……でも、私たちの平穏は突然壊されました。街に流れた人狼の噂を聞きつけた狩人たちが、仲間をみんな捕らえてしまいました。人狼は、言ってしまえば魔物ですから……捕まえれば高く売ることができるのです。ちょうど私が山菜を取りに行っている間の出来事でした」
「魔物、か……」
「抵抗したらしい仲間は、死んでいました。私は帰ってきて、いやに静かな家の中に何人かの狩人が残っているのを見ました。彼らは私を見つけると、僥倖とばかりに襲いかかってきました。ちょうど日が沈みかかった時のことでした」
ひどい話だ、と来亜は呟いた。流が現に生きている以上、その後のことは明らかだ。流は一度話を止めて、恍惚としたような表情を見せる。
「……美味しかった」
「————」
来亜は、まだその場に留まっている。彼女の目の前に立っているのは、もはや谷降流ではない。人を喰らう魔物。生きるついでに恨みを晴らす、怪物だ。それでも来亜は動かない。本当の自分を曝け出す友人の姿を、じっと見つめている。
「それから、人として生きていた私は再び獣となりました。人の味を、思い出してしまった。人を喰わなければ、生きていけなくなったのです」
「それで、自分が少女であることを利用して獲物に近づいていたわけだ。人間も食べるなら若いのが良いのだろうが……今の話のわりには贅沢なことだね」
「……来亜、さん。虫のいい話ですが……あなたを食べても、よろしいですか?」
息を切らしながら、流は問いかける。それを聞き、来亜はようやく一歩退がって返事をした。
「心苦しいが、お断りだ。私はまだ駆け出しの探偵だからね。これから経験を積まなければならないんだ────獣にくれてやる身体はない」
「……あなたは、こういう時には正直なのですね」
人狼が来亜に襲いかかる。速さはそれほどないが、来亜が正面から対峙して勝てるような相手ではない。彼女が人狼の牙から逃れるためには、相手を欺き続けて思い通りに操らなければならない。至難の業であることは、言うまでもない。しかし、それが来亜の最大の得手であることもまた同様だ。
来亜は風を切って走りながら部屋を出ると、階段の前で一度立ち止まった。そしてコートの中から取り出した香水で少し服を濡らし、残りを瓶ごと下の階に落として上の階へと走った。
流を助けに行く前、彼女が人狼であるはずがないと来亜は確かに断じた。しかし、だからこそ多くの備えをしてきた。もし、流と二人で帰り、ポケットの中身を全て彼女に見せられたなら。一つ一つ中身を取り出して、これだけの備えが全て杞憂だったと笑い話にできたなら。もはや叶わぬ夢想が脳裏をよぎり、来亜は歯を軋ませる。探偵の策略と、人狼の膂力。文字通り、命懸けの闘争が始まった。
「……さて、ここからどうするか……」
来亜は扉を開けて屋上に出た。屋上には隠れられそうな物陰がいくつかあったが、しらみつぶしに探されれば見つかってしまう。ただ隠れていても、生き延びることはできない。
「……よし、これだ」
来亜は置いてあった長いロープを拾い、柵に巻き付けて下へと垂らした。これで、下へ降りることができる。しかし、人狼は今ちょうど下の階にいるはずだ。すぐに逃げるのは得策ではない。それに、逃げてしまっては事件を解決することはできない。
「……この事件は、ここで解決しなければならない」
自分に言い聞かせるように来亜はそう唱え、近くの物陰に身を隠した。しばらくすると足音が近づいてきて、ギィ、と扉の開く音が辺りに響いた。人狼が、再び同じ空間にやって来た。
「ロープ……これを使って下に?」
人狼はそう呟きながら、垂らされているロープの先を目で追うようにして下を眺めた。だが、すぐに人狼は真後ろを振り返った。月光が、怪物の姿を冷ややかに照らす。
「……違う。匂いが、します」
人狼の言葉を聞いて、来亜は凍りついた。最初の撹乱に使った香水が裏目に出てしまったようだ。人狼が、ゆっくりと近づいてくる。
「……どこにいるの、来亜さん。私、もう待ちきれません」
流と同じ声で、怯える子どもを誘い出すように人狼は優しく呼びかけた。来亜は息を潜め、人狼が来るのをじっと待っていた。足音がやや近くなってきた時、来亜はわざとコートを振るわせ音を立てる。人狼は一直線に音のした方へと向かい、来亜の腕をもぎ取ろうと掴みかかった。瞬間、人狼は目の前に突如現れた炎に驚いて急停止する。常軌を逸した反応速度が裏目に出て、目の前の獲物への攻撃よりも本能的な炎への恐怖が打ち勝った。
「ッ!!」
来亜は自らの命を救ったライターをポケットにしまい、屋上を出て階段を駆け降りる。流が捕らえられていた部屋の隣には給湯室があった。悪党たちが出入りしていたためか、水道も止まってはいない。蛇口を捻って水を勢いよく出し、辺りに水を撒き散らしながら部屋の奥へ逃げた。
「……参ったな。ライターは最後までとっておきたかったんだが」
来亜には、人狼にとどめを刺す手立てがある。流との最後の対話のうちに、それが有効である確信を得ていた。だからこそ、それがなければ死んでいたとはいえ、一瞬でも動きを止められる手段を失ったのは大きな痛手だ。来亜があれこれと考えているうちに、再び人狼が迫ってくる。今度は狭い給湯室の中で、彼女は人狼と対峙することになった。
「どこまで逃げても無駄ですよ。ずっとあなたの近くにいて、あなたの匂いはよく分かっています」
「……いくら相手が同性で狼でも、そんなことを言われて良い気はしないな」
「まだ余裕がありそうですね。では、その活きのいい口から……」
人狼が濡れた床に足を踏み入れた瞬間、来亜は手に持っていたスタンガンを勢いよく床に投げつけた。破壊された機械から漏れ出た電流が、水を伝って彼女を襲う。
「く……!」
「はあ……効かなかったらどうしようかと思ったよ。一つしかないが、命には代えられないね」
電流が床に滴る水の中に走り、来亜と人狼を強力に分断する。しかし、人狼の表情に焦りはない。目の前にあるのが獲物ならば喰らい、そうでないならば壊す。彼女の本能に刻み込まれた行動原理はいたって単純だ。そして、当然ながら彼女自身の内にはそれを可能にするだけの力が備わっている。
「こんなもの……!」
人狼は一度水場から離れて体勢を整えた後、電流を受けることも厭わず全力で突進した。命知らずの剛力を秘めた大きな腕が、そのまま来亜の首めがけて襲いかかる。彼女は咄嗟に避けたが、爪が右の頬を掠めた。直後、来亜は人狼のいた出入り口の方へ走り、水を飛び越えて部屋を抜け出す。微かに痛む右の頬を手で触りながら、彼女はコートから防犯ブザーを取り出して栓を抜き、階段の方へ滑らせるように投げた。そして、来亜は最後の仕掛けをするために、最初の大部屋に戻った。ほどなくして、人狼も彼女を追いかけて部屋に入ってくる。防犯ブザーには目もくれず、人狼は匂いを頼りにして部屋の中に潜んでいる来亜を探した。香水の匂いがする方に目を向けると、その眼にコートの背面が映った。人狼は、反射的にそのコートに襲いかかった。
「————見つけた!」
狂喜で牙を剥き出しにしながらコートに触れた瞬間、再び電流が人狼を襲う。来亜は反対の机の下から飛び出して、訳が分からず動けないでいる人狼の首を銀のナイフで掻き切った。
「がっ……!?」
「かかったな……私の勝ちだ」
「う、ぁ……なん、で……!」
辺りに血を撒き散らしながら、必死にもがいて生にしがみつこうとする人狼を、来亜はその場に立ったまま見ていた。いつもなら自分の嘘に騙された相手に満面の笑みを向ける彼女だが、今は僅かに口角を上げることさえせず、目の前の被害者をただじっと見つめるばかりだった。
「……じゃあ、冥土の土産にタネ明かしだ」
「……」
「まず、私は君にひとつ嘘をついた。もう分かっていると思うが、私はスタンガンを一つしか持っていなかったわけじゃない。給湯室で使い切ったように見せて、君の動きを止める電流はもうないと錯覚させた」
来亜は、人狼の反応を待たずに話を続ける。人狼も、この事件の解決を待ち望んでいた者の一人だ。その命が途絶える前に、来亜は全てを明かそうと急いでいるのだ。それが、探偵の務めなのだと彼女は信じている。
「椅子にコートをかけて、残していたスタンガンを私の首に相当する位置に仕掛けた。同時に防犯ブザーの音を鳴らしていたから、君は嗅覚に頼らざるを得なかった。そのおかげで、君はコートの辺りで物音がしないことにも、電気を放つスタンガンの音にも気付けなかった訳だ」
そう言いながら、来亜は椅子にかけたコートを手に取って羽織った。生温かい返り血の感触と香水の甘い香りが、同時に彼女に襲いかかる。
「そして、君の首を切ったのは銀製のナイフだ。退魔には銀が有効だというのは有名な話でね。効くかどうかは怪しかったが、君の”魔物”という言葉で確信できた」
「私、は……」
人狼が何かを言いかけているのが来亜にも聞こえたが、彼女は話を止めない。彼女には、今にも自分を置いていこうとしている相手を待つことはできなかった。
「……最後に、君がスタンガンを破壊して電流を受けている隙を狙って後ろから首を切り裂いた。これが一番大変だったよ。何せ……相棒を切るわけだからね」
「……私、私が……悪かった、の、かな……」
最後の力を振り絞るように、人狼はそう言った。来亜は一度天を仰いでから、人狼の方に向き直って返答する。
「……さあ。解決後の考察は、探偵の管轄外だ」
来亜の言葉を聞いた直後、人狼は眠りにつき始める時のような遅く深い呼吸を始めた。もう身体には全く力が入らないようだった。
「もう流石に限界か。全く、見習いたいほどのしぶとさだな」
人狼は、言葉を返さない。来亜は深く息をついて、ナイフを構えた。間もなく訪れる最期の時を、少しだけ早めるために。
「────さよならだ、狼少女。どうか来世は、幸せに」
眼を閉じた流の胸に、来亜はもう一度ナイフを突き刺した。そして、彼女は完全に動かなくなった。
建物の中に、再び静寂が訪れた。月明かりが窓から差し込み、血にまみれた部屋の惨状をありありと照らし出す。
「……嘘つき。一緒に事件を解決するなんて、初めから無理だったんじゃないか……!」
独り残った少女は、駆け出して建物を出た。返り血を浴びたコートには、まだ温もりが残っていた。
小さな街に住まう人々を震撼させた”人狼事件”。その最後の現場には、被害者たちの肉片と、人狼の亡骸————そして、数滴の涙の跡ばかりが残っていたという。




