4、薬師の弟子は、貴族の養子になる事を提案される
「ええ! 私が……貴族の養子に?!」
シーナはロスの言葉に目を丸くする。それもそのはず。ラペッサとサントスが戻ってきたと思ったら、「シーナ、ちょっと来てくれない?」と言われて執務室に入った。なんだろう、と首を傾げてロスの前に座れば……開口一番に出てきたのがその言葉だったのだから。
彼はなんて事も無いように話す。
「そうそう。シーナ嬢が新薬の作成者の一人として名を連ねてからね、君に対する問い合わせが多くてさ。多分君が城の外に出ようものなら、貴族たちの使用人が群がって話を聞き出そうとするんじゃないかな、と思うんだよね。一応僕からも『邪魔をするな』という声明は出しているから、そこそこ効果はあると思うんだけど、秘密裏に接触しようという者たちが後をたたない気がしてね……」
「シーナさんは王宮薬師室に所属して、まだ間もないですが……その状況で新薬開発に関わる事ができるほどの実力があると示していますからね。貴族たちが我先に貴女の薬を求めて、殺到する可能性もありましょう。口頭で約束するならばまだ取り消すことはできますが……契約書を書かされてしまうと、それがもし脅されて結んだ契約だとしても、正式な契約となってしまいますから」
マルコスが低い声で話す内容に「え、貴族怖い」と怯えそうになるシーナ。いや、そんな理不尽を受けた事があったじゃないか、と思い返す。ヴェローロの王子は宰相しか破棄できないはずの契約を破棄して、追放させられたのだ。この国でも似たような事があっても可笑しくない。
「マルコスの言葉は少し大袈裟だけどね、それに似たような事が起きる可能性はあるって事は覚えていてほしいな」
ロスがこちらに目配せする。
「まあ貴女様に何があっても殿下が何とか致しますが……」
「え、マルコス。私にもできない事はあるよ?」
「ご謙遜を。殿下の言葉遊びは置いておきますが……王宮薬師という肩書き以外で貴女に後ろ盾があればそのような事は起こらなくなるだろう、という話です」
「マルコスが冷たい……」
拗ねる素振りを見せたロスだったが、いつものやり取りなのか彼も面白がっているように見える。仲が良いのだろうと思っていたシーナだったが、ふと気づく。平民の自分が貴族の養子になるなんて……貴族はマナーや礼儀が必須なのでは?!
「貴族になったら、マナーとかで薬の研究の時間が取られてしまいませんか?」
真剣に告げるシーナにロスは目を丸くする。そして大真面目なシーナに微笑んだ。
「そうだよね、それが心配になるよね。ああ、貴族になるからと言ってもそんな気にしなくて大丈夫だよ。基本君が社交界に出る事はないと思ってもらって良い。まあ、お披露目で一度はお願いしないといけないけど……君は薬師だからマナーが拙くても、周囲はそこまで目くじら立てないよ」
「それにシーナさんの所作は非常に綺麗ですから、少し覚えるだけで問題ないかと。どこでそのような所作を?」
不思議そうに見るマルコスに、シーナは告げた。
「師匠に教えてもらいました」
「そうでしたか……とにかく、シーナさんの本職は薬師ですから、一日三十分一週間ほどいただきたいのですが、厳しいでしょうか?」
「きっと貴族たちが群がると、その何倍もの時間が取られるかもしれないけどね」
「……それくらいなら、大丈夫です」
群がられても困ると思ったシーナは、了承する。
「まあ、最低限の礼儀作法が分かっていれば問題ありません。後は相手がどうにかしてくれますよ」
「相手?」
シーナは首を傾げるが、マルコスは微笑んだまま何も言わない。まるでそれを楽しんでいるかのように。
「まあ、それはそれとして……ロス、シーナにどの貴族の養子になるのかを伝えたらどうかしら?」
「ああ、そうだね。それを忘れていた!」
大袈裟に笑うロスも、何となく楽しんでいるように見える。シーナがじっとロスを見つめると、その視線に耐えられなくなったロスは「ごめんね」と言いながら続きを話した。
「君を養子にしてくれる家は、ロマディコ侯爵家だ」
「ロマディコ……侯爵家?!」
侯爵家と言えば、マグノリアの家と同格である。貴族制度など正直分からないが、シーナからすれば天上の存在である事に間違いない。
「ロマディコ侯爵家はね、代々外交官の家系でね。現当主と長男である次期当主は現在我が国の外交官として飛び回ってくれているよ。次男は頭を使うのが苦手だからと、近衛として働いている。そしてね、その家には三男がいるんだ」
「三男ですか?」
「そうだよ。三男はね、元々魔道師団に所属していたのだけれど、当主と次期当主に協力を依頼して、薬師室を創設したんだ」
シーナは目を見開いて後ろを向く。すると、そこには視線を逸らすためか横を向いているサントスがいた。耳からロスの笑い声が聞こえ、楽しそうに告げた。
「そう、君が養子になるのはサントスの実家さ」
「室長のご実家に……」
シーナはぼそっと呟いた。そして何やら考え込む。
「養子の打診をしたら、二つ返事で了承してくれたよ。夫人なんか『諦めていた女の子が来るなんて!』と目をキラキラ輝かせていたくらいだからね……きっと色々お世話をしてくれると思うよ」
それでもシーナは動かずに何かを考えている。見かねてサントスが声をかけた。
「私の実家ではダメでした?」
心配そうに尋ねるサントスだったが、シーナは慌てて否定した。
「あ、いえ。そういう訳ではありません……ただ……」
「ただ?」
彼女は大真面目な表情でサントスに顔を向ける。
「養子になったら、室長の事を『お兄様』と呼んだ方がよろしいのでしょうか……?」
「「「えっ?」」」
その場にいた全員が目を丸くする。
「え、そうですよね? 養子とは家名を名乗る事ですから……薬師長が私のお兄様、になるという事ですよね?」
「……」
全員が思ってもみない悩みを聞いて思考が停止する。その中でも一番早く我に返ったのはダビドだった。
「あはは! シーナちゃん、真剣に何かを考えていると思ったら、そんな事を考えてたの?! 面白いねえ〜!」
その笑い声でサントスも正気に戻った。
「いえ、普段通り薬師長と呼んで下さい。実家では……その時考えればいいでしょう……」
「分かりました」
そのやり取りを見て、ダビドは隣に立っているリベルトの耳元にそっと話しかけた。
「リベルト〜、良かったね!」
「……何がだ?」
「何がって……ねぇ?」
向こうでは、シーナとサントスがロマディコ侯爵家について話をしていた。そのまま休憩を取る予定だった事もあり、マルコスが手ずから紅茶を入れてロスとラペッサに振る舞っている。
意味深に笑うダビド。彼を見てリベルトはため息をつく。自分の考えが彼に見透かされている気がしたのだ。
この話を聞いた時、サントスの立場が羨ましいと思った。義理ではあるがシーナの兄は彼女にとって特別な立場になるだろう。サントスが彼女の「特別」になる事へと嫉妬した。女性に対してそんな気持ちを持った事のないリベルトは、その思いを気のせいだと一度は捨ておいた。
けれども、シーナが彼の事を「お兄様」と呼ぶ姿を見て、羨望がひょっこり顔を出す。
リベルトももう認めるしかない。自分はシーナの「特別」になりたいのだと。
その事にダビドは気づいているから、ああやって声をかけているのだろう。
そして彼は気づいているはずだ。シーナがサントスの事を仕事仲間としか思っていない事に対して自分が安堵している事。一方で、サントスは仕事仲間として距離が近いのに、義理の家族として側にいる事ができる事を自分が羨んでいる事に。
「ねぇ、リベルトはいつ気がつくのかな?」
ニヤニヤとした笑みを見せているダビドに、リベルトは息を吐いた。
「……分かっているだろう?」
「え、僕、分かんないなぁ〜。でもリベルト、自覚してるんだ」
「……まあな」
「わぁ! そんな素振り見せてなかったのに〜」
ニコニコと楽しそうに話すダビド。多分彼はサントスがシーナに対して好意を持っている事も知っている。それをサントス本人が気づいていない事も。そしてそんな関係を楽しんでいるのだ。人間観察が趣味だ、と言い張るだけはある。
「リベルト、頑張ってね」
「言われなくても」
そうダビドに告げたリベルトの瞳は、シーナを見据えていた。