四月、とばりと暮
山の中腹に建つこの学校の校舎は、とにかく明るい。隅々まで照らされて、暗いところなど何もないように見える。
桜の季節はとうに過ぎて、校庭の脇に植わっている木は葉桜へと変わっている。四月なかば、暖かい日差しと時折頬をなでていく爽やかな風。ちょっと瞬きすれば終わってしまいそうなほど短いこの季節が、夜明とばりは好きだった。
五階の教室の窓からは、校庭が一望できる。あまりにも優しい光が差し込むので、ついついぼんやりと眺めてしまう。
「とばり、今週の掃除場所は昇降口だよ。早く行かないと終わらない」
隣の席に座っていた宵宮暮が、とばりの肩をぽんと叩いて先に席を立った。とばりは慌ててその背中を追い、階段を駆け下りる。
「外掃除は楽だけど、五階ぶん往復するのは少し面倒だな。そう思わない?」
タンタンとリズミカルに足音を響かせながら、暮がとばりを振り向く。彼はとばりより一、二段ほど下にいるので、元々ある身長差が更に際立つ。
とばりは十四歳で身長百五十五センチ、この年なら平均くらいか少し低い程度だろうか。暮本人に背丈を尋ねたことはないが(悪いと思うので聞けない)、彼の背はとばりの頭ひとつぶん低い。
おまけに中性的と言うのか、なんとも可愛らしい顔立ちをしているので、ブレザーとスラックスにネクタイという制服を着用しているのに女子に間違えられる始末だ。
「ちょっと時間はかかるけど、外に出ると気分が変わるし、ちゃんと掃除してるか先生たちに見張られないで済むし、わたしは別に構わないかな」
「物好きだね。さっさと掃除を終わらせようか」
昇降口周りの掃除は、箒で葉っぱや大きなゴミを集めるだけなので比較的楽なほうだ。アスファルトをざかざかと掃き清める。手を動かしながら、暮が口を開く。
「今学期はもう席替えはしないらしいね。昨日担任が言ってた」
「そうなんだ。じゃあまたしばらくは暮と隣のままだね」
「俺ら、中学入学してからほとんどずっと席が隣だよな。出席番号って大体かな順だしさ」
中学校どころか小学校でもずっと一緒だった。毎年クラス替えは行われるのに、とばりと暮は必ず同じクラスになったし、当然席も隣同士になった。
側にいる時間が長くなれば、お互いを知る時間が長くなる。とばりと暮は、授業中に、休憩時間に、掃除の途中に、少しずつ少しずつ、言葉を交わし、笑顔を交わし、視線を交わして親しくなった。
小学校の頃は常に一緒にいるふたりをからかったり笑ったりするクラスメイトもいたが、中学校に上がればそんなことを面と向かって言う生徒もいなくなった。
「宵宮と夜明でどうしたって近くなるからね。学年の始まりは必ず出席番号順だし、その後に席替えしても移動教室の時にはやっぱり番号で座るしね」
「番号順だけならともかく、一年の時はくじ引きで席決めしたのにとばりが隣になったのには驚いたわ」
箒を動かしながら、暮が苦笑いしている。
「それは申し訳ありませんー。いい加減、わたしの顔ばっかり見てると飽きるよね」
軽口を叩いたつもりだったが、暮は何故か焦った素振りを見せる。いやそういう風には思ってないけど、と言いながら空を見上げた暮が、突然とばりの腕に触れた。
「こっち来て」
固い声の暮に腕を引かれて、体が一歩横に動く。途端に、大量の水とプラスチックバケツがとばりの体の真横をかすめながら地面に落ちた。ガランガランと耳障りな音を立てて、バケツが跳ねて転がっていく。
何が起きたのかよくわからなかったが、校舎を振り返ると、三階の窓から三年であろう男子が二、三人ニヤニヤ笑いながらこちらを見下ろしている。あー残念、外れたわーといかにも悔しそうな声が響く。
「とばり、大丈夫か」
心配そうな暮の声で、驚いたあまり強張っていた体が動き出す。
「大丈夫大丈夫。少しスカートが濡れたくらい。助けてくれて、ありがとう」
こちらを気遣ってくれているが、暮はバケツを落とした三年から視線を離さない。思い切り睨みつけている。
その時、おーいとのんびりした様子で、とばりと暮のクラス担任が掃除の様子を見回りに来た。
「昇降口の掃除終わったかー。そろそろ次の予鈴が鳴るから教室に戻って来い」
「先生、夜明さんが三年に水の入ったバケツを落とされました。校舎の三階から」
「何ぃ! どいつだ!」
暮が三階の窓を指差すと、それまでこちらを覗いていた頭が素早く引っ込んだ。だが、その一瞬で犯人の顔の判別は付いたようで、担任は一目散に校舎に駆け込み、教室への階段を二段飛ばしで駆け上がっていった。
「先生、本気を出すと結構足が速いね」
濡れてしまったスカートをパタパタと動かして乾かす素振りをしてみる。そこまで酷くはないので、このまま午後の授業に出られそうだ。
「そんな呑気なこと言ってる場合。あれもし当たってたらかなり危なかったよ」
苦々しげな表情の暮は、それでも自分の制服のポケットからハンカチを取り出して、とばりの手に渡してくれる。
「拭けるところは拭いておきなよ。濡れてるところが目立つし」
うちのクラスの生徒にちょっかい出したのはどいつだ! 出てこい! と担任の怒声が響き、うわすんませんすんませんでしたと謝る声はガチャンバタンと物騒な音にかき消される。学校一短気で、怒らせたら怖いと評判の先生のことだ。悪質な悪戯をした生徒を捕まえてぶん回す位はしているのだろう。
「あの先生が担任なんてついてないと思ってたけど、こういう時はいいかもな」
もう教室に戻ろう、と暮に促され箒やちりとりを用具入れに片付けて、昇降口から中央階段を登る。
少し先を行く暮の後ろ姿。一段一段と足を動かすたびに、さらさらとした、色素の薄い髪が揺れる。
綺麗だなぁととばりは思う。やわらかい午後の日差しが、暮の髪に反射してちかちかと光る。美しいと思ったのは、光だっただろうか、それとも暮だっただろうか。
「暮」
「ん、何」
「ハンカチ、ありがとう」
持ったままだったハンカチを暮に差し出す。
「もういいの? その、スカートはまだ濡れてるみたいだけど」
「うん、後は自然に乾くしいいかな」
そう、と呟いて暮がハンカチを受け取る、その指先にとばりの指先が触れた。とばりの体温よりずっと熱い、その指先に。
階段の踊り場、灯り取りの小さな窓。壁際の掲示板と、光が差し込む埃っぽい空気。本鈴の鐘が遠くで鳴った。
「おぉ夜明、さっきは災難だったな。早く着席しろ」
教室に入った時、もう授業は始まっていた。クラスメイトの視線を感じながら、とばりと暮は隣同士の席に着いた。
「先生、バケツを落とした生徒はどうなりましたか」
暮の問いかけに担任はんんっと軽く咳払いして、ちょっと懲らしめておいてやったぞと口角を上げた。
先生やるじゃん、と暮と目配せをしてひっそりと笑う。
窓の外、校庭の片隅には八重山吹の花が風に揺れている。




