でもブラック企業は勘弁してください
ドスッ。
鈍い音がして、その次に激しい衝撃と痛みが体に走る。強く頭を打ったらしく、温かいものが側頭部から流れ落ちて行くのを感じた。
意識が遠のいていく。
まぁきっと、すぐに目を覚ますだろう。現代医学は発達しているのだから。
「大丈夫か、怪我はないか」
荷馬車から降りてきた痩せ気味の男が、肩に触れながら問う。咄嗟に首を縦に振った私に安心した様子で、男は荷馬車に戻る。立ち去るラバの足音を聞きながら、私は考え込んでいた。荷馬車に轢かれかけたことに動揺していた訳ではない。トラックに跳ね飛ばされた記憶が甦ったことに驚愕していたのだ。
私はおそらく転生したのだろうと思う。誰かに「生まれ変わりたいか」なんて問いを投げかけられた記憶もぼんやりもある。しかし、記憶は引き継がれないと言われた記憶もあったのだ。だと言うのに、何故私は過去を思い出してしまったのか。それが頭を悩ませる疑問だった。
だが私は思いのほか冷静だったので、道端で考え込んでいても仕方が無いだろうと家に帰った。この世界では年齢にあまり頓着しない文化のようで自分の歳ははっきりと分からない。しかし五歳くらいだと言うのは何となくわかった。まだ五歳なら、これからについて考える時間は山ほどあるはずだ。
私の家は平凡な農家だった。人参によく似た形だが色はピンクという妙な野菜を育てている。しかも桜のような優しいピンクではなくパッションピンクだ。アメリカで売られるケーキのような色だが、味はナスのようで結構美味しい。記憶が戻った今となってはパッションピンクに食欲が減退するが、美味さを知っているために複雑な気持ちになるのだった。
父と母も家と同じく平凡な人間で、娘に農家を継がせるつもりで呑気に野菜を育てていた。記憶が戻る前は私もそのつもりで生きていたが、今は少し気が変わっていた。前世、私は都会に住んでいて、最先端のものに囲まれながら楽しく暮らしていたのだ。小さな田舎で一生を終えるのは寂しい気がした。家が粗末な木造建築の平屋であることから、この世界はあまり発展していないのかもという気もしたが。とにかく一度都会に行ってみたかったのだ。
「父さん、母さん。この国で一番大きな街はどこなの?」
夕食をとりながら両親にそう聞いてみた。父は普段そんなことを気にしない娘の質問に驚いていたが、五歳児にも分かりやすく説明してくれた。
「ハヌルという街がこの国の国都だ。王様がおわす所だよ。私たちのミハエ村からは馬で一週間だそうだ。父さんも母さんも行ったことは無いが、大層栄えていると言う話だ」
私は心の中でガッツポーズする。国都があるなら行かざるを得まい。だが問題はどうやって国都に行くチャンスを掴むかだ。父と母は行ったことが無いと言うから、きっと農作物を持っていくのは別の人の仕事なのだろう。農民が一週間も家を空けられるはずもないし、役割分担は合理的と言える。という事は、農民として生きていては国都に行けない。何をすれば国都に行けるのだろう?
「私、ハヌルを見てみたいなぁ」
小さく呟いてみた。何かいい情報をくれやしないだろうか、と一抹の希望を胸に。母が笑った。
「そうねぇ。あそこは王族と貴族しか出入り出来ない街と聞くから、私たちには難しいかもしれないわね」
私は小さな肩を落とした。しかしそこで父が口を挟む。
「いや、それは違うぞ母さん」
期待を込めて顔を上げる私の頭を父が撫でる。
「国立騎士団に入ればいい。ハヌルの街を守る任務に配属されればハヌルに住むことだって出来る。有名な話じゃないか」
父はジョークで言ったらしく、母が「それはそうだけど、国立騎士団に入るなんて無理に決まってるわ」などと反論する。私はその言葉に相当難しいことなのだと察して諦めをつけたのだが、国都への憧れは頭に残っていた。
「おはよう、ラオ!」
朝食を食べて外を歩いていると、今世での私の名前を呼ぶ声がする。振り返ってみるとそこに立っていたのは同じ年頃の少年で、名前は確かリン。私は明るく笑って挨拶を返した。
「リン、おはよう」
挨拶するなり、リンは私の腕を掴んで走り出す。
「秘密基地に行こうぜ!」
慌てて着いていくが、前世よりも風景が通り過ぎるのが速いことに私は驚いていた。なぜこの体はこんなに走るのが速いのだろう。 幼稚園に通っているような年齢の子供が、二十歳だった頃の私より恵まれた体をしているなんて衝撃だ。
その日私は、秘密基地にたどり着くまでに傾斜60°程の傾斜をよじのぼり、幅3mはあろう川を飛び越え、2km程歩かされたが息は大して上がらなかった。
リンと別れて家に帰ってきてから、私は昨日よりずっと深く考え込んでいた。私の身体能力は五歳児としては明らかに異常だが、リンも今の私と同じく能力だ。考えるとすれば、私達二人がおかしいのか、それともこの国…もしくはこの世界の身体能力水準がおかしいのかのどちらかだ。そこまで考えたところで頭が痛くなった私は、取り敢えず家の外に立ててある柵を鉄棒代わりに、逆上がりをしてみた。この身体能力なら、前世で出来なかったこの技もできる気がしただけだ。ただの好奇心である。
試しにやってみると一度目は失敗したが、三度目で大成功を収めた。前世では五十回やっても進歩しなかったと言うのに。胸がとてつもない達成感に満ち溢れていて、思わず飛び跳ねてしまう。生まれ変わって私は運動音痴という負のステータスを捨てることに成功したのだ!
もうこの世界の能力水準がどうだとか、そういう話に興味はない。私が優秀な肉体を持っていることだけが頭の中を巡っている。明日は前世で諦めた跳び箱に挑戦してみよう。ちょうどいい木箱がうちの倉庫にあったはずだから拝借すればいい。農作業から帰ってきた父と母を迎え入れ、夕食を食べながら私は明日を心待ちにするのだった。
「ラオを騎士団に!?」
珍しい来客を出迎えていた母の素っ頓狂な声が聞こえた。我が家で育てたパッションピンクの人参もどきを仕分けしていたところだったが、何やら重要な話らしいので玄関に近づく。来客は国都へ数多の品々を届ける運び屋のバーンだった。彼は明るい老人で、私も以前に何度か国都の話を聞いたことがある。
「バーンさん。どうしたんだい?」
母の後ろから顔を覗かせてそう問うと、老人は顔をほころばせる。
「おぉ、ラオ。元気そうじゃな。お主、今年で16じゃったな」
「そうだけど」
バーンは私の答えに満足気な笑みを浮かべる。
「なら問題なかろう。ラオ、国立騎士団に入らぬか。今人手不足なのじゃ。国王陛下が実力のある若者を見つけて来いとおふれをだされての。このバーンも五人ほど連れて行かねばならんのだ。お主なら不足はない。どうじゃ」
母は断ろうとしているようだった。しかし、この田舎で十一年過ごした私には国都に行けるかもしれないチャンスがあまりにも魅力的だった。
「行く!」
母は私がそう答えることを予想していたようで、小さなため息をついた。
「…ラオはこうと決めたら私たちの言うことなんて聞かないものね。バーンさん、よろしくお願い致します」
十一年もの間、やんちゃばかりしていた事がここでようやく役に立った。私は母に抱きつく。
「母さん、ありがとう!」
バーンも安堵して胸をなでおろしている。
「出発は明朝じゃ。準備しておいてくれ」
「はい!」と元気よく答えてバーンを見送った後、私は荷造りをしてすぐに寝た。明日寝坊などしたら困る。
国都でのスイートライフは今ここから始まるのだ!