第五話 【早打ち】
「狼狽えるでない!」
大膳の発した大音声が、場の空気をピリリと引き締める。
それから大膳は藩士たちに嚙んで砕くように語りかける。
「まずは事の次第を一刻も早く江戸におわす松栄院様にお伝えしなければならない。」
松栄院とは、十四代藩主である松平斉承の正室だった浅姫の院号である。
天保六年閏七月、斉承卒去の報に接した浅姫は直ちに落飾、松栄院を号した
松栄院は現在の将軍である徳川家慶の異母妹であり、将軍家と深い繋がりを持っている。
主君亡き福井藩にとって、今や最も頼りになる人物と言っても過言ではない。
「今一つは幕府への報告だ。これも遅れれば遅れる程、不利になる。既に半刻前には江戸への早打ちが出立した。」
藩士たちが落ち着きを取り戻すのを慎重に見計らいながら、大膳は話を続ける。
「全てはこれからだ。幕府を説き伏せるのは難儀だろうが、まだ望みはある。
とは申せ、江戸はあまりにも遠い・・・口惜しいが我々国元の人間に出来る事は限られている。
此度ばかりは江戸詰めに働いてもらうしかない。
何かあればすぐに知らせる故、貴公らは与えられた役務を全うせよ。
良いな。」
大膳の話を聞き終えた藩士たちは平伏し、恭順の意を無言で伝える。
「儂からは以上だ。」
話を終えた大膳が番所を退出する間際、まるで今思い付いたかのような口調で右近に声をかける。
「おぉそうだ、右近。其方には話があったのだ。後で私の許に来い。」
「御意」
大膳は右近の返答を聞くや、何も言わず去っていった。
用語解説
【卒去】
位階が四位あるいは五位の貴人が亡くなる事
【院号】
出家した者に授けられる法名の内、特に位の高い者に対して授けられる特別な法名の事。
法名に「院」という文字が付くため、そう呼ばれる。
大名の正室が夫に先立たれた場合、慣例として出家する際に院号が授けられた。
【早打ち】
馬や籠を使って急を知らせる事、または急を知らせる使者そのものを指す。