2 秘書オグラマール
「弟よ、大事な鍵を無くしてしまったのだ。見つけるのを手伝ってくれ、頼む!」
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「本日の予定を申し上げます。軽く体を動かしていただいたのち、汗を流して朝食。午前は事務仕事。昼食後、行かないでしょうが国王陛下、王太子殿下へご機嫌伺い。その後乗馬の訓練と、剣術の鍛練の時間となっております。いつも通りですが。」
今日も朝早くからマールが塔に来た。毎朝同じ時間に来て、同じことを言う。予定通りにアルタクスが動かないのも毎日同じ。それなのにまた翌日同じ様にやってくるのだ。
マールの髪はかつてのアルタクスと同じ漆黒。瞳は髪と同じ黒。しかし彼女にはかつてのアルタクスと同じだけの魔力はなかった。ないどころか他人の魔力を吸い込んで無効化する、驚きの力の持ち主だった。
そんなマールが何故側仕えのような真似をしているのか。それは本人の希望だからだ。マールとしてはヒショのつもりだそうだ。
曰く、茶を入れたり簡単な身の回りの世話、予定を管理したり執務の補助をする、補佐官の様なものらしい。この城では身の周りの世話は侍従、予定管理や執務の補助は文官がするものだが、マールの国では違うようだ。
マールは別の国の人間だ。いや、この世界の人間ですらない。アルタクスが十五歳の時に召喚し、十二年遅れでこの国に辿り着いた、異世界の聖女なのだ。
「早く寝室から出てください。ヒンレックも手伝って!」
乳兄弟の騎士ヒンレックを部下の様に使い、マールはアルタクスを寝台から追い出した。とりあえずは身支度を整え居間に出る。ここは塔とはいえ、寝室、居間、執務室と階ごとに分かれ、それなりの広さがある。そうでなくては成人男子が十二年も健康なまま室内で過ごせなかっただろう。
マールに言わせると、もっと狭い部屋で運動もせずに成人男子が何年も過ごし、健康ではないが病気もしない、ニートという種族がいるそうだ。アルタクスはマールの世界に行ってみたいと思いかけ、慌ててその思いを打ち消した。万が一にも力が発動しては困る。
毎朝鏡を見ては髪の色が真っ白に抜け落ちていることに安堵し、死神の目がアルタクスをも連れ去ってくれないかと、無駄な期待をする日々だった。
そんな人間がこの2週間、毎日あの黒髪を見ている。マールと会った最初の日、不覚にもアルタクスは叫んで居間から逃げ出してしまった。二十七の男がすることではない。
しかしあの日の恐怖と絶望が、無為に過ごしたこの日々をひっくり返す勢いで戻ってきたのだ。あたかも死神が迎えに来たかの様に。
その考えに至り、むしろアルタクスは安堵した。迎えが来たのかと。あの日自分が行くべきだった所に、ようやく連れて行って貰えるのかと。
しかしこれは大変失礼な考えだった。聖女としてアルタクス自身がマールをこの世界に呼び寄せたのだ。
例え十二年の遅刻で目的が果たせず、民が死に国土が荒廃しようとも。本来の居場所を捨てさせてこの国に召喚したのはアルタクスなのだ。民からの謗りも、理不尽に対するマールからの批難も、アルタクスが負うべきことだった。
不思議なことにマールはアルタクスを一切責めなかった。この国に降り立ってからアルタクスの塔に来るまでに一週間。マールに何があったのかはわからないが、非常に落ち着いた態度で対面を果たした。
無様にアルタクスが逃げ去っても、少しして安堵の顔で舞い戻っても、完璧な淑女の笑みで対処した。
一方でマールは執務に慣れた官吏の如き言動をする。決してたおやかな淑女のそれではなく、キビキビとした様は、清廉な聖女のそれとも違うようだ。
遅きに失したといえ、マールは聖女だ。神殿で太陽神と月の女神に祈りを捧げ、民の安寧を願う者であるはずだった。
しかしマールは言う。自分は聖職者ではなく一般市民だと。戻れないのは仕方がないが、神に依頼された仕事を完遂するのが目的であり、この国の事情では動かないと。
そして望んだ役職がアルタクスのヒショだった。
「もう運動はいいから朝食にしましょう。いい加減ぼんやりするのは止めてラジオ体操を覚えて欲しいものです。」
驚いたことにこの二週間、マールとヒンレックはこの部屋で共に朝食を取る。乳兄弟とは言っても共に食事を取るのは、塔に篭る前からも含め初めてのことだった。
しかも用意をして城から運ぶ為の行き来が面倒だそうで、下の階でマール自身が調理しているという。
非常に気安い物言いのせいか、ヒショというのは幼少期につく乳母のようなものに感じる。当初不敬な程のマールの砕けた言動に、ヒンレックも対処に困っていたが、ここには三人以外誰もいないのだ。気にした所で意味もない。
朝食を食べ終わった所で執務室に移動する。書類仕事は予定通りにこなすことにしている。アルタクスにとって、これは懲役なのだ。
この塔で死ぬまで罪を償い続ける。そうマールに告げて、当初彼女を追い出そうとした。ところが「それでは労役を追加しましょう」とアルタクスに馬の世話をさせ、「馬の運動も労役のうちです」と乗馬をさせられた。
塔とは違い、周りには使用人もいる。アルタクスを怖れず顔がわかる距離に立つなど、以前では考えられないことだった。それもマールの手配によるものらしい。
彼女は他人の魔力を吸収して無効化する様子を、城で働く沢山の人間の前で実演してみせたのだ。マールがアルタクスの側に付いている限り、周囲の人間の恐怖心は抑えられる。
もはやアルタクスには吸収される魔力など残ってはいないのだが、他ならぬアルタクス自身がマールを側から離さなくなった。
謁見も剣術の稽古もせずに塔に戻る。当然マールも一緒だ。通常未婚の淑女は部屋で男性と二人きりにならない。ヒンレックもいるが他に女性はいない。しかしマールの国では相手にもよるが、それは問題になるほどのことではないらしい。
この国では女性の名誉に関わる問題だ。ところが最初の一週間で、マールは王にアルタクスとの婚約を認めさせたらしい。「形式上のことです」と、最初の日にマールは顔色も変えずに言ってのけたが、アルタクスの方はそうはいかなかった。
「あなたは僕の以前の婚約者がどうなったか知らないのですか?」
「あなたのお兄さんに乗り換えたんですよね。とんだ悪女ですね。」
「!?――いや、それはそうなのだが……そうではなく……」
「自業自得の悪人達のことは気にせずに。もし王子殿下に他に愛する人が出来たら、すぐに婚約破棄して差し上げます。これは塔に出入りするための、便宜的な手続き上の話ですから。」
「――それならば、いいのだが……あなたにもいい人が出来たら、ここに出入りするのは止めてください。」
「であれば王子殿下早くニート脱却していただかないと!――いえ、お仕事はされていますので、ニートではなく単なる引きこもりでしょうか。」
初日からそんな物言いでアルタクスに二の句を継げなくさせて、マールは塔へヒショとして出入りする許可をもぎ取った。もはやアルタクスには拒否権などなかった……。