004 夏祭り 前編
シフォンは昼食を残していた。
人並みに食べたことがなかったらしく、彼女には多かったようだ。フィジーが作ってくれたオムライスを見るなり目を輝かせて食べ始め、口の周りをケチャップまみれにしながら勢いよく頬張っていたが、半分くらいで急にギブアップしていた。
フィジーは今までもまるで母親のように進んで家事をこなしてくれていたが、シフォンがやってきたことでお母さんっぽさにますます磨きがかかった。オムライスを残したことは全く怒らず、寧ろ頭を撫でて「美味しかったね」とあやし、そのあとは一緒にお風呂に入って自分の服を貸してあげ、髪もドライヤーで乾かしてあげていた。シフォンの髪からはフィジーと同じ香りがした。お気に入りのシャンプーを使ってあげたに違いない。周りが男ばかりのむさ苦しい中にこんなに可愛い天使がやってきたのだ。いつもは叱り役のフィジーが今日はお人形さんで無邪気に遊ぶ天真爛漫な少女にすら見えた。
おかげで痛んでいたシフォンの白い髪は少しも灰色がかっていない雪のような真っ白に輝いて一切のハネ毛なくまっすぐになり、お肌も艶々もちもちになった。服は流石にチビのフィジーのものでもサイズが合わずダボダボ。今からちょうどいいのを買いに行くと言って自転車でファッションセンターへ出かけて行ってしまった。ただでさえちょこまかとよく動くのに、いつもの倍くらい物腰が軽く、台風のようで呆気にとられるほどの勢いだった。
帰るのも早かった。風呂上りのスカイが「どっか行くの?」と聞いたら「もう行ってきたよ」と言われていたほどだ。
「うわあああぁあぁあぁ! かわいいいいいよおおお! シフォンちゃん天使すぎる〜!」
帰りが早かったのでそんなに買っていないだろうと思いきや最大サイズの買い物袋が張り裂けそうなくらいに買ってきていた。何を着せているのか、フィジーの部屋からは彼女の悲鳴やら奇声やらが飛んでくる。
フィジーの部屋の前で待つこと三十分。唐突にバタッと扉が空いた。
「お待たせ! 見て見て! シフォンちゃんの白い髪にはゼッタイに、ゼーッタイに黒が似合うと思ったの! ほら見て! ヤバすぎる!」
「「お、おお……」」
これは三十分も待った甲斐があった。
シフォンは黒い浴衣に身を包み、明るい赤色の帯を巻かれていた。黒い浴衣が長くふわりとした白い髪とよく引き立て合い、赤い帯は茜色の瞳に似合う。派手すぎず、子供っぽくない薄い花の模様がお洒落にきまっていた。
スカイが面白そうに笑いながらギアスの肩に手を置く。
「ギアス、良かったな。これがオマエの娘なんだと」
「ああ、オレ多分今日で一生分の運を使い果たしたな。明日には死ぬかもしれん。今のうちに遺書でも書いとこうか」
「はははは! バカ言え。これが暢気に死んでられる状況かよ」
「あーもう、ヤベェわ。……。っしゃあ!」
「はははははっ、何のっしゃあ! だよ」
シフォンは恥ずかしがってフィジーの後ろに隠れ、顔を赤くしていた。
これでみんな浴衣姿に着替えを済ませ、準備は万全。そう、今晩は偶然にも近所の商店街で夏祭りなのだ。
○○○○
空が茜色に染まる頃、四人は外へ出た。
きれいに舗装されたアスファルトの地面。植物という緑色のものが飾られた庭。家という大きな箱のようなもの。そして、どこまでも永遠に広がる空。
ギアスたちが普段当たり前に眺めているものがシフォンには全て生まれて初めて目にするものだった。扉の一歩外に出れば彼女は怯えてギアスの腕にしがみついた。
(そうか、そういえば地下で育ったって。外を歩くのはこれが初めてなのか)
ギアスはもう片方の出てシフォンの頭を撫でてやる。
「これが外の景色だよ。みんなで一緒にいるから大丈夫だ」
「……」
前にいたスカイとフィジーがどうしたんだろうと振り向くと、シフォンはギアスの背後に隠れてしまった。
「ああ、なんか、地下の施設で育ったらしくて。外の景色に慣れてないのかも」
「そうなのか。どうする? 今日はやめとくか? 祭りは今日だけじゃないんだし」
「あんまり無理させちゃダメよね」
今日はフィジーが前から楽しみにしていた夏祭りなのに中止にするのは申し訳ない。ギアスは後で追いかけるからと、二人は先に行ってもらうことにして一旦玄関に戻った。
扉を閉めるとシフォンはギアスのお腹に抱きついた。震えている。
「え、そんなにこわいの?」
「……うん」
思っていたより重症だ。
シフォンを上がり框に座らせ、自分は彼女の正面にしゃがんで目線を合わせた。なんだか怒られている子供みたいな顔でしょんぼりしている。
「誰かに外はこわいって言われたのか?」
「……ママが。ママが、外に出ると死んじゃうって」
妙なことを言う奴がいたもんだとギアスは眉を歪めた。
「ママって、えっと、の、の、ノで始まる名前の人?」
「ノエルさん」
「そのノエルって人も外に出たことがないって?」
「……昔はあったみたい。でも、私はママが外に出るところ見たことない。ずっと一緒だったもん」
「ずっとって、生まれた時から?」
冗談まじりで聞いたのだが、シフォンは頷いた。一体どんな環境で育ったのやら。イマイチ理解に苦しむ。未来の世界から来たというのなら今より生活環境は素晴らしいに違いないのに。
(どういうことだ? まさか恐竜が絶滅した時みたいに環境の変化で地上では暮らせなかったのか?)
あれこれ考えても未来のことは分かるわけがなかった。
ギアスは不安げなシフォンに微笑んで言う。
「シフォンがいた未来の世界じゃ外は危ないところだったかもしれないけど、今はなんにもこわいことなんかないよ」
「ほんと?」
「ほんとうさ。フィジーたちだって平気で出ていったろ? そんな危ないところに堂々と突っ込んでいくようなことがあるわけないでしょ。大丈夫だよ」
「んん〜」
シフォンの両手を取り、
「オレも小さい頃は孤児院っていう建物の中で育って、久しぶりに外に出ることになったときはこわかったよ。でも新しい家にはスカイとフィジーがいて、毎日スゲー楽しかったから、外がこわいとか、いつの間にか忘れてたよ。ずっとオレが一緒にいるから大丈夫だ。それに今日はシフォンにも見せてあげたいものがたくさんある。きっと今までで一番最高の日にしてやるよ。約束する。だから、ほら、一緒に行こう」
そう言ってやるとシフォンはわぁ〜っと笑みを浮かべて立ち上がった。ギアスの腕にくっついて、
「じゃあギアス、ずっと私の隣にいてね。絶対だよ」
「おっ、ああ、もちろん」
ようやく外に出ることができた。
シフォンはまだ見慣れない景色にびくびくしているが、歩いているうちに少しずつ慣れて、どうにか夏祭りの会場である商店街にたどり着いたのだった。
陽は沈み、空は深い青に変わっていた。
スカイとフィジーはどこに行ったのか分からない。この人混みで探すのは難しいだろう。
ギアスの端末にはフィジーからメッセージが届いていた。今どこにいるのか位置情報も送ってきてくれているようだが、あえて既読はつけずにそっとポケットに仕舞う。
あの二人なら時間を無駄にして待っているわけもなく、二人で出店を巡って満喫しながらのんびり合流するくらいのつもりでいるに違いない。ギアスはシフォンと手を繋ぎ、フィジーたちとは反対の方角へ歩みを進める。
それにしてもシフォンの可愛らしさは恐ろしいものだ。すれ違う女子高生たちが口々に「え! 何あの子むっちゃ可愛い! 待ってヤバイ!」などと言って騒ぐ。多分、人混みに揉まれて迷子になっても野郎より女子たちに囲まれて目立つだろう。当然、親子だと気づくはずもなく、「兄妹なのかな?」という声しか聞こえてこなかった。
「おや! お嬢ちゃん可愛いねぇ! お兄さんと仲がいいのねぇ。特別に綿アメをプレゼントしちゃうわ!」
綿アメの出店に来たら丸々太ったおばちゃんが大喜びで綿アメをシフォンに手渡してきた。
「おお……。もこもこしてる」
「え! いいんすか!?」
「いいのよ! 二人とも外国の人なの?」
「いえ、日本生まれで」
「あらそうなの! いやーねぇ、どうりで日本語が上手だと思ったわ! こんなに背の高い素敵なお兄さんがいて幸せねぇ」
どちらかといえばこんなに可愛い娘ができて幸せだ。
シフォンは小さな舌で綿アメをさっそくペロペロしながら「えへへへ」と嬉しそうに笑っていてまたギアスの胸を無意識に射抜く。
(ヤベェ、可愛い。これほんと夢じゃねぇよな)
バレないように舌を噛むと痛い。夢ではなかった。
文字通り太っ腹なおばちゃんにお礼を言ってその場をあとにし、シフォンが喜びそうな次の出店を探しに歩き始めると、もう「足が疲れた」と言われた。
ちょうど境内へ続く階段が近かったので、そこへ行って休むことに。
階段に隣り合って座ると、目の前は出店の列が真っ直ぐに並んでいた。空もますます暗くなってきていてぼんやりした出店の明かりがきれいだ。
「おっ……」
おもむろにシフォンが肩にもたれかかってきた。「おいおい」と言いかけ、言葉を飲み込む。おそるおそる腕を回して髪を撫でて愛でると、シフォンは心地よさそうに目を閉じ、小さくなった綿アメを舐る。
(うっわ、ヤバイ)
自分の娘だというのに恥ずかしくなってギアスは視線を空へ投げた。
幸せだ。
ずっと血の繋がった家族がいなくて、すれ違う親子や兄弟を羨めしく指をくわえて見ているだけだったのに、とうとう実の家族ができた。スカイとフィジーがいても埋め合わせられなかった心の隙間が埋まった。
娘というより妹ができたような気分で、それもこんなに可愛いとは、きっと世の男が一人残らず羨む状況だ。
「ギアス、あったかい。ずっと会いたかった」
「そうか」
ゆったりとした時間が流れていく。
涼しい夜風、ひんやりした石段、ぼんやりした屋台の明かりと独特の香り。そしてシフォンの頬の柔らかさ、温かさが心地よい。
流れの遅くなった時間がこのまま止まってしまえばいいのにとすら思う。こんなに満たされた気持ちになったのは初めてだった。きっと一生、この温かな光に包まれた時間のことを忘れることはないだろう。