001 終わりの日
ノエルはいつもシフォンのそばにいた。
ずっと綺麗でとても優しく、母親も同然の少女だ。薄金色の長い髪は苦労に痛んでもランプの灯りを受けて暖かく輝き、荒れることを知らぬ肌は白く艶めいていた。
剥がれかけのコンクリートの壁が剥き出しの牢屋のような部屋。美しいノエルには鳥籠より酷い扱いだが、地下での避難所生活を強いられている今日日、個室を与えられているだけでもありがたいことだった。
部屋には巣を張る虫ケラももういない。この異世界が滅亡する前兆だ。弱き生命はとうに種を絶やし、もはや残っているのは人類くらいのもの。
ノエルは明日がいつ無くなるとも分からぬ日々を14年に渡ってシフォンと共に生きてきた。まだ赤ん坊だったシフォンは大きくなったが、栄養が足りず今もノエルの膝に収まってしまう。
鏡台にはノエルが仔猫を抱いているかのように写る。ノエルに白い髪を溶かしてもらっているシフォンが鏡の中でにっこり微笑んだ。
「ふふ、どうしたの?」
「ううん、目が会ったから、笑っちゃった」
「あらあら。……シフォン、こんなに大きくなったのに、中身は小さいときから変わらないね」
「ええ? 私まだ小ちゃいよ」
ノエルは静かに首を横へ振る。
「ううん。本当に、大きくなった」
「えへへっ」
外部からの刺激が無く、生活環境も一切変わらなかったせいか、シフォンは無邪気で天真爛漫なまま14歳になっていた。
ノエルが櫛を鏡台に置いてぽん、とシフォンの両肩に手を置く。
「はい、これで終わり。んぎゅ〜」
「んあー、どうしたの?」
「今日はゆっくり眠れるように、眠くなるおまじないのハグよ」
「ふああ、ホントに眠くなってきた。ママ、あったかい」
「シフォンもあったかい。それに石けんのいい匂い。私もこのまま寝ちゃいそう」
「ええ、ダメだよ。ちゃんとベッドで寝れないと風邪引いちゃうよ」
見上げるシフォンにノエルが微笑む。
「そう? じゃあ、もう寝ようか」
「うん」
シフォンは手を引かれて立ち上がった。
オレンジのランプの灯りを消すと真っ暗になった。
ノエルの柔らかい手を頼りにベッドに入る。
向かい合わせで横になったのが分かると、シフォンはノエルの胸にうずくまった。
とても静かでお互いの呼吸だけが聞こえる。ねぇ、と声をかけると、どうしたの、とノエルが小さく返事した。
「まだ寝ないで」
「いいよ。シフォンが寝るまで、起きてる」
「約束だよ」
「うん」
「ねぇ、ママ?」
「どうしたの?」
「ずっと、言わないようにしてたことあるの」
「なあに?」
「……。ん〜、やっぱり、いい」
「……。そっか」
シフォンは諦めようとしたが、しばらく悩み、やっぱり、と口を開いた。
「パパのこと、教えてほしいの。いつか、会えたときのために、ほら、特徴とか」
「……。うん」
ノエルはシフォンをそっと抱き寄せ、話を始める。
「ギアスさんは、男らし人よ。本当に、好きになっちゃうくらい、かっこよかったなぁ。一足飛びに軍の階級を駆け上がって、みんなが苦戦するようなモンスターも一人で倒しちゃったこともあった。赤い髪にオレンジの優しい瞳。背が高くて、よく撫でて、からかわれたっけ。……また、会いたいなぁ」
すーっ、すーっ、と寝息が聞こえる。ノエルが話している間にシフォンは寝てしまっていた。
「もう、酷いなぁシフォン。……ふふ、おやすみ。きっとあなたは、ギアスさんに会えるわ。きっと……」
もういつ滅亡してもおかしくない状況とは思えない穏やかな眠りが二人を包んだ。部屋には心地よさそうな寝息が二つ聞こえるだけだった。
それからどれだけの時間が過ぎただろう。
ふと、シフォンは違和感を感じて目を覚ました。地下空間だから余計に時間が分からない。ただ一緒に寝ていたはずのノエルの姿が無く、眠い目を擦りながら扉の方へとぼとぼと歩いていく。
「ママ? もう朝? ……!?」
扉を開けると、そこに広がっていたのは普段の平和な地下避難所ではなく、それはもう、地獄だった。
出てすぐの鉄柵から吹き抜けになっている階下を見下ろせば何かがうずたかく積み上げられていた。何が詰まれているのかと思えば、それは死体の山。見てようやく気が付くむせ返るような鉄と腸の臭い。悪夢にも見たことのない光景に驚愕のあまりシフォンはその場に腰を抜かしてしまう。
「え!? オマエ、ギアスんとこのガキじゃん!」
誰かと思って見てみれば、黄色いショートにポニーテールの、正装に身を包んだ見たことのない女の子。子供にしては冷めている黄色い瞳。
「助けて、ママは、ママはどこ? ……!」
気づくのが遅すぎた。シフォンは黄色い少女が身の丈よりも大きな鎌を手にしているのを見るや否やヘビに睨まれたカエルのように固まってしまった。もう何人となく刻んできたらしく鎌の黒い刀身は血や油でどろどろに汚れていた。
少女の大鎌が石の地面に赤い線を引きながら迫ってくる。
「ママ! ママ! ママ! ママ! ハッ、いいねぇ、バカは。そんなもの最初っからこの世にありはしないよ」
「うう!」
黄色い少女はシフォンの首を掴み、地面から持ち上げてしまった。訳が分からないまま首を吊っている状態に。
これまで感じたことのない苦しみに脚をばたつかせて暴れるがまるで意味がない。
と、次の瞬間。乾いた銃声が響き、耳が遠くなる。シフォンの真横を鉛玉が駆け抜け、黄色い少女の額を射抜いたのだ。
ようやくシフォンは解放され床に叩きつけられた。が、頭を撃たれたはずの黄色い少女は「いって!」と目に砂が入った程度しか怯んでいない。
「シフォンこっち!」
その一瞬の隙をつき、シフォンは誰かに抱え上げられた。
ノエルだった。彼女は別人のような必死の形相でシフォンを前に抱き、死体を避けて廊下を駆けどこかへ逃げていく。
あっという間にどこか知らない部屋へたどり着き、シフォンはクローゼットに押し込まれた。
クローゼットの隙間から見つめ合う。
「ママ、ママ! どうなってるの? 夢じゃないなんて、なんで、どうして!」
「大丈夫。私に任せて。……あなたは、私が守ってみせる。必ずよ」
ノエルはクローゼットの前に鏡台を置いてシフォンをさらに隠した。
「静かにしていてね。約束よ」
「……うん。ママ、死んじゃわないよね?」
「……。もちろん。私が嘘ついたことある?」
「ううん」
「シフォン、何があっても声を出しちゃダメよ。魔法で必ず、何もかも上手くいくんだから。自分の子供のためになら、母親はどれだけでも強くなれる。あなたがいてくれたおかげで私は……、幸せよ。だから約束、できるね?」
「……うん」
もう声しか聞こえないノエルへ、泣きながら無理やりシフォンは頷いていた。ノエルの声は穏やかで温厚な普段からは想像できないようなほど勇ましいものだった。
これもノエルの魔法なのか、シフォンは急にとてつもない睡魔に襲われ、眠ってしまうのだった。