3.
そうして、ある夜。
私は誘惑に勝てず、とうとう終電の座席に座ってしまった。薄目で網棚の上を警戒して、もしあれが寄ってきたらすぐに立ち上がるつもりだった。
けれど疲れと単調な列車の揺れとが眠気を弥増し、迂闊にも私は眠り込んでしまった。
はっと目を覚ましたのは、人々が下車する気配でである。意識がしゃんとした頃にはもう、車内はすっかり空だった。
慌てて鞄を抱え直し、私も降りようとしたその時、頭上にただならぬ気配を覚えた。
それで、反射的に見上げてしまった。
見上げるべきではなかったのに。
ずるり、と。
網棚の上を這うものがいた。
それはまるで蛇だった。鱗のない肌色の長い胴が、およそ車両一両ぶんの網棚を占拠している。
裸の蛇は体をうねらせ、向かいの網棚へ頭部を伸ばす。そしてそこへ蹲っていた人型のそれを、ぱくりと無造作にひと呑みにした。
あまりの光景に声も出ない。
網棚の上のものたちが食らい合うさまなど初めて見るものだった。
恐ろしさから目を逸らせず、私は頭上の蛇をただ見つめ続ける。その視線を察したように、蛇がぐうと体をよじって振り向いた。
悲鳴を上げなかったのは、奇跡に類するものだったろう。
長く長い蛇体の先端にあったのは、あの駅員の顔だった。
彼は私を認識し、にたりと三日月の形に口角を歪める。
「ご め い わ く を お か け し ま ぁ ぁ ぁ ぁ す」
二又に裂けた舌で空をちろちろと舐めながら、言った。
間延びして耳に障る、ひどく嫌な声だった。
彼はしばらく私を見下ろしていたが、やがて興味を失ったように瞬きをした。大きさからは思いもよらぬ俊敏さで、忽ち車外に滑り出る。
向かいの線路に這い降りると、もうこちらを振り返ることなく、そのまま駅と夜とが孕む闇の中に消えてしまった。
翌日、私は辞表を出した。
徒歩の距離にパートを見つけ、何の用があっても、あの終点駅は使わないようにした。
他に仕様がなく電車に乗る折も、決して網棚の上は見ないようにしている。
そうする理由に、恐ろしさは無論ある。
でも、それだけでは決してなかった。
あの夜の後ろ姿には、どうしようもない寂寞が漂っていた。振り返れば、そのように思われてならない。
だからもし、網棚に彼を見つけてしまったら。
また、「ご迷惑をおかけします」と告げられてしまったら。
私は手を伸ばせば失われなかった何かを想って、泣き出してしまいそうな気がするからだ。