2.
彼と出会ったのは、そんなある夜のことだ。
連日終電続きだった私は、その時も波長が合ってしまっていた。見たくもない網棚の光景が目に入り、寝不足と車内の湿度で吐きそうになっていた。
どうにかこらえて終点のホームに降り、改札に殺到する人波に混ざらず、まずやり過ごして呼吸を整える。
ちょっぴり人心地がつけたところで、視線を感じた。何気なくでつい目をやると、いたのは網棚の上の住人だった。ホームに据えられたベンチの下から、ソフトボール大のそれが値踏みするようにこちらを見ている。
誤魔化しようもなく視線が合い、それはにたりと目を細めた。三日月の形に口角が歪む。
粘っこい悪意が絡みつき、目をつけられたのだと悟って、ぞっと肌が粟立った。
凍りついたように動けない私を尻目に、それは細い手足でずるりと陰から進み出る。緩慢に這いずって私の影までにじり寄り、
「失礼します」
そこへ、声がかかった。
あっという間もなかった。背中の方からすっと箒を持った影が現れて、まるでポイ捨てされた吸い殻みたいに、それをチリ取りに掃き込んでしまう。
そうして私を振り返ったのは、同い年くらいの駅員だった。まだ制服を着こなせてない印象で、やはり同じく新入社員なのだろう。
唖然とする私が何を言うよりも早く、彼は敬礼の仕草をして、にこりと笑ってみせた。
「ご迷惑をおかけします」
がたがたと揺れるチリ取りを持ち上げ、きびきびとした歩みで遠ざかっていく。
しゃんと伸びた背中はとても頼れる印象で、しばらくそれを見送ってから、お礼を言いそびれてしまったと気がついた。
以来ちょくちょく、彼が目につくようになった。正直を言うなら無意識に、探してしまっていたのだろう。
てきぱきと日々の業務をこなすその姿は、作業の遅さを責められてばかりの私にとって大層眩しいものだった。
幾度か慌てて掃除用具を取り出してきて、何もないホームを掃くさまも見かけた。私のように波長が合った時だけでなく、彼は平素からあれを知覚しているらしかった。
いつか感謝を伝えよう。あれについても話してみようと思いながら、私はいつだって勇気がない。
できないままに数か月が過ぎ、そのうち彼に変化が起きた。
爽やかな笑顔がくすみ、定規のように伸びていた背はいつの間にか猫背になった。
ぱりっとしていた制服も、どことは言えず全体的によれくたびれてだらしなくなり、ぼんやりと佇んで、駅のそこここの暗がりを眺めていることが増えた。ひどく、疲れている様子だった。
どうしたのかと案じはしたけれど、ただの乗客が、不躾に立ち入ったことを訊くのも憚られる。
だからなけなしの気力を振り絞り、横を取りざま、「おつかれさまです」と会釈をした。
彼は私を覚えていたらしかった。こちらを認識するとはっとした顔で会釈を返し、それから少し照れた素振りで敬礼をして、
「ご迷惑をおかけしまーす」
と囁いてくれた。
きっと、精一杯の空元気だったのだろう。声には張りがなく、調子も間延びしたものだった。
何がしてあげられたらと思いはした。
けれど間の悪いことに、業務がそれから急に立て込んだ。
「多忙」の「忙」の字は心を亡くすと書くとはよく言ったものだ。私の余裕はますます失せて、彼の姿を目に留めることもなくなってしまった。