第二十二話 忘れないから
みのりの言葉で、前に進むことを決めた雫。そんな彼女は、遂に…
雫は、壁にかけられている時計を見る。その時計の秒針が頂点へと昇り、短針が3と4の間を、長針が9を指し示す。時刻は15時45分。家のチャイムが鳴る。無意識に手が震えてしまうが、力強く茶色の砂時計を握ってそれを抑え込む。
ゆっくりと足音が近づいてくる。これからここに来るはずの彼も、やはり思うところがあるのだろう。控えめなノック音が部屋に響く。その残滓が消えぬ間に、扉の前にいる人物が入っていいかと問う。二人の鼓動が速まる。雫は軽く息を吸い、入室を許可する。
扉が開き、土屋歩夢が雫の前に姿を現した。
「雫ちゃん…」
「こうやってこの部屋で話すのは、久しぶり…ですね。歩夢君。」
久々の再開自体は朝に済ませてあるが、それと今の状況はまた別で。二人は何から話せば良いか分からなくなる。そのまま、二人はお互いの顔を見れず、俯いて床を見つめている。
「立ちっぱなしもなんですし…その、座ってください…」
「そんな気を使わなくてもいいよ。敬語じゃなくていいし…」
そう言われて、不思議な感覚がした。言われるまで、自分の口調が変わっていることにすら気付かなかったのだから。
口調が変わったのはいつからか、少し思い返す。美波達と出会い、年上とばかり話すようになったからかもしれないし、もっと前から口調が変わった気もする。そういえば、昔は敬語を使って無かった千春に対しても、「最後」以外は敬語で話していた。
そして考えるうちに口調が変わったのも聖因子が原因かもしれないという可能性に行き着き、背筋が凍りつくような感覚が雫を襲う。
考え込んでいた雫だったが、そろそろ会話を始めなければいけないことを思い出し、その不安を強引に押し殺す。俯いたまま上目遣いで軽く歩夢を見ると、彼も不安そうな表情で。雫は軽く顔を上げ、少しずつ自分の思いを言葉にする。
「…あ、ごめんなさい…じゃなくて、ごめんね?いきなり黙り込んじゃって。なんか、いつの間にか敬語に慣れちゃったみたいで…」
「…そっか…」
続きの言葉が出て来ない。思い浮かばない。二人はクッションの上に座り、また床を見つめる。そんな中、先に口を開いたのは雫だった。
「あの‼︎歩夢君に、話したいことが、あって…謝りたいことが、あって…」
二人が同時に顔を上げる。目が合う。それでも二人とも、もう視線を逸らさない。無言で頷く歩夢。そんな歩夢から勇気を貰ったかのように、ゆっくりと、しっかりと語り始める。
「私はあの頃、いじめられてました。」
「うん。」
「でもそれは、今思えば、とても些細ないじめで…実際、いじめ自体は、きっと続いたとしても、しばらくは我慢出来たと思います。でも私は、せっかくの歩夢君の優しさを、誤解しました。」
「そのことは後から僕も聞いたけど、言われてみれば誤解されて当然だったし…雫ちゃんが気に病むことはないよ。むしろ、考えが足りなかった僕が悪かったんだ。ずっと、謝らなきゃって思ってたよ。本当に、ごめん。」
「いえ、そんなことは無いです。歩夢君は悪くない。
私は、許せませんでした。歩夢君を信じれなかった、自分を。最初は歩夢君を疑って始めた引きこもりが、真実を知ってからは自己嫌悪に変わって、家から出られない自分に、時間を重ねれば重ねるほど、嫌気がさして…こんな自分じゃ駄目だ、変わりたい。そう思っていたはずなのに…気が付けば変わることを恐れる自分がいて…そんな負の連鎖が、私を今に縛り付けました。」
「雫ちゃん…でも、僕を呼んだってことは、もしかして…」
そう言われて、黙ってしまう雫。鼓動が早まる。ずっと言いたかったこと。ずっと言えなかったこと。やっとそれを言う機会が来た。それなのに。今までのひとりだった時間が。様々な後悔が。雫の口を縛り付けているようで…
『雫ちゃん。』
どこからか、声が聞こえた気がした。聞き慣れていたはずなのに、もうどこか懐かしく感じてしまう。そんな、目の前の少年の声にどこか似ている柔らかい声。
『雫ちゃん。』
どこからか、声が聞こえた気がした。最近出会ったばかりの、雫が一歩踏み出す勇気をくれた少女。彼女の、日溜りのような暖かな声。
ー私も、ちゃんと一歩、進まなきゃ。怖いって気持ちは、悪くない。怖いからって、逃げ続ずに、一歩踏み出すのが大事だって…あなたが、教えてくれたから‼︎
「歩夢君…今まで、本当に…ごめんね‼︎」
歩夢の腕が近づく。その腕の力に逆らわずに身を委ねると、雫の顔は歩夢の胸に抱かれていた。堪えていた涙が、そして、一番伝えたかった言葉が溢れ出す。
ー昨日までの私だったら、きっと、言えなかったはずです。でも、どこか私に似ているあなたが、変われるって、言ってくれたから…
「歩夢君…」
軽く歩夢の肩が震えるのを感じる。彼の表情は見えない。
「私‼︎」
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
二人は水野家の玄関にいた。
「大丈夫?」
「うん…歩夢君が、いるから…」
二人が頰を赤らめ、俯く。と、リビングの扉が開く音。スリッパの音が近づいてくる。
「雫…」
「お母さん…今まで、その…ごめんなさい‼︎」
「ちょっと来て。」
「は、はい…」
洗面所に連れて行かれる雫。歩夢のいる玄関からは、洗面所に入った二人の声だけが聞こえる。何やら、どこか楽しげな声が。その声に耳を傾けながら歩夢がしばらく待っていると、雫の母が出て来た。
「雫。出て来なさい。」
「で、でも…」
「いいから‼︎」
「ひ、ひん⁉︎」
背中を叩かれて洗面所から出る雫。歩夢の視線に気付いて洗面所に戻ろうとするが、母親に止められる。仕方なく洗面所から出る。
「その…変じゃ、ないですか?」
上目遣いで歩夢を見つめる雫。彼女の伸びきってしまっていた髪の毛が短くなり、綺麗に整っていた。
「その…似合ってるよ。」
どこか懐かしく感じるその姿を見つつ歩夢は答える。いつの間にか、二人の頬には笑みが浮かんでいて。
雫が俯きつつ、無言で歩夢の元へ向かう。そして、歩夢の指の先に軽く触れる。それに気が付いた歩夢が、そっと雫と手を繋ぐ。
「雫。行ってらっしゃい。」
「行って、来ます。」
扉に触れる。ドアノブが冷たい。肩が軽く震える。
ー…久しぶりの、外…
それを意識すると、軽く怯んでしまう。ドアノブの冷たさすら、雫を拒否する為のもののように思えて。と、扉に触れる手とは反対の手に、確かな温もり。
ー大丈夫。信じられる、そして、信じてくれる人が、隣にいますからね。
少女は勇気を出して扉を開く。隣にいる少年に支えられながら。息を吸って、もう一度。
「行って来ます‼︎」
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
外へ出ると、心地よい肌寒さが雫を包んだ。
ー空が、青い…
窓からでも見えたはずだった景色。しかしカーテンで外の世界から逃げていた雫にとっては、たったそれだけのことでさえ懐かしく感じられて。
「歩夢君、その…ありが、とう。」
「どういたしまして。」
二人は、見つめ合い、笑い合う。
「じゃあ、行って来ます。」
「うん。じゃあ…また明日。」
「はい。また、明日。」
一歩。また一歩。ゆっくりと踏みしめて歩く。踏み出すごとに、あの日から一軒の家だけの中だけになってしまっていた雫の世界が、また少しずつ広がっていく。
少し歩いただけなのに、足が疲れる。長らく家から出ていなかったからか、慣れないアスファルトの地面に体力を持っていかれるような感覚。そんなことさえも、久々だからか楽しいことに思えて。
「そんな、気持ちが良いときに…」
「やはり、私は邪魔か?」
「当然です。」
雫の前にアースが現れる。彼は足音も無く雫の方へ向かって来る。軽く俯いていて、表情は読めない。
「まさか、君が立ち直るとはな。」
「まだ、立ち直れてはいません。立ち直るためのケリをつけるために、ちょっと勇気を出しただけです。」
「その勇気を出すのが、本来難しいところなのだがな…」
言われた雫は思い返す。実際、背中を押されるまでの約一年半。それを無為にしてきた。その罪悪感が更に自分が前に進むことを邪魔する足枷になるという悪循環に囚われていたから。
みのりのあの言葉が無ければ、いつまであの部屋にいたかは分からない。それを意識しながら、言葉を紡ぐ。
「確かに難しいことでした…もし私が、一人だけだったら。話は、それだけですか?」
「あぁ。それだけだ。」
そう言い残し、彼は雫に背を向ける。そんな彼を、少し悩んだ末に呼び止める。
「待って下さい。私には、話があります。」
「ほう?」
「私、あなたに怒っています。」
「だろうな。私は、君達を救い、人類を見捨てるか。人類を救い、君達を見捨てるかという選択を迫られ、あっさりと天秤を傾けた。不快な思いを抱かれて当然だろう。」
彼方を見つめながら、ゆっくりと答える。そんなアースに、自分の思いを伝えるのに一番の言葉を必死に探しつつ、雫は答える。
「はい。そうですね…でも、あなたを恨んではいません。」
「ほう?それは何故だ?」
意外そうな声を出して、視線を雫に向ける。その視線に屈することなく、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「質問に質問を返すようで悪いんですけど…あなたは、何で千春君にあの取引を提案したんですか?」
「…私に利があったからだ。消滅しても日記帳だけは残す契約をすれば、彼は消滅を選ぶ可能性が高いと考えた。消滅ではなく病死という道を選べば彼の弟である土屋歩夢の心の傷を今以上に広げる。そうなれば彼が幸せに生きることに対する罪悪感を覚えさせかねないことは、容易に想像できることだからな。」
「…歩夢君の心の傷云々は…そうですね。否定しません。でも、あなたが千春君と取引したのは…千春君を安心して消滅出来るようにする為の、大義名分を作る為じゃないですか?」
アースが、そっと視線を逸らす。その様子を見て、軽く視線を下げる雫。
「…図星、なんですね。」
「…君は頭が良過ぎる。」
「いえ、賢くなんてありません。千春君が約束を破って私達に聖因子の真実を伝えていれば、私達はもっと警戒して戦っていました。そうなれば、自然とあなたが私達の砂時計を手に入れられる可能性が低くなる。それは、千春君の砂時計一つと釣り合うわけがない。だったら、本当の目的はリスクとリターンが関わらない別の場所…感情論にある。そんなこと、簡単に分かります。
きっと千春君も、あなたのその優しさに気付いたから、約束を守ったんです。」
「…優しい、か。今の私には、皮肉にしか聞こえない言葉だな。」
「そうかもしれませんね。でも…」
そこで言葉を探るように黙り込んで、そのまま口を閉ざしてしまう。そんな雫の様子を見て話題を変えようと口を開くアース。
「では、こちらから質問させて貰おう。何故、日向みのりなのだ?君は何故、特別な根拠を持たない彼女の言葉で歩き始めた?」
「それは…きっと、似ているからです。私とみのりさんの、根本的な部分が。私も歩夢君がいなかったら、誰と関わることにも興味を示さないで、拒むようなことをしないで…そんな生活を送っていたはずです。でも、私の前には歩夢君がいて、その影響で私は人との関わりに興味を持ちました。そして、興味を持った結果…
みのりさんは反対で、金城さんが現れても、人との関わり自体に興味を示すことはなかった。その結果、私達との関わりを得て、きっと、変わり始めた。私達は、なんか、同じコインの表と裏みたいな、そんな関係だと思うんです。」
どうやら腑に落ちた様子で、空を見上げるアース。彼につられて、雫も空を見上げる。冬だからだろうか。既に太陽は少し沈みかけて、空の一部を橙色に染め上げている。青空と夕焼けのコントラスト。久々に見た夕焼けのかけらに、どこか心を打たれる雫。そっと手を胸に当て、その光景を目に焼き付ける。空を眺めたまま、アースは口を開く。
「そうか…何はともあれ、ひとまずはラグナロードとやらを始末しない限りは何も始まらない。不甲斐ない話だが、私にはその力は無い…本来なら、このようなことを頼む資格など無いだろう。だが、それを承知の上で、だ…頼む。」
「その為の話し合いに、今から行くんです。」
そう言って、雫はアースとすれ違って金城邸に向かう。その背中が見えなくなるまで見送るアース。彼は雫の姿が見えなくなると、誰にも聞こえないような大きさの声で何事かを呟き、そして光の粒となってどこかへ消えていった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
雫がその部屋の扉を開く。中には、みのり、月美、美波、そして金城愛の姿。雫は中にいるメンバーを確認し直す。その内に4人の視線がこちらに向いていることに気がつくと、部屋の中に入らず、そっと扉を閉じる。
「え⁉︎雫ちゃん⁉︎何で入って来ないの?」
「私、知らない人が、いるなんてこと…聞いて、ません‼︎」
そんなことがありながらもなんとか雫を説得すると、ゆっくりと扉を開けて中を覗きこみ、そっと部屋の中に入って来る。
「あの、その…待たせちゃって、ごめんなさい…それで、そちらのあなたは?」
「んん?私?私は金城愛。仁美のお姉ちゃんって言えばぁ、分かるかなぁ?」
「…え?何で、金城さんのことを?」
「うん。覚えてるし〜、忘れないよぉ?」
そう呟き、ポケットに手を入れる。そこから取り出されたのは、純白の砂時計。中には一粒も砂が入っていない。
「私達のと違う、砂時計…?」
雫は自分の持つ銀色の砂時計を取り出し、純白の砂時計と見比べる。
「あなたは、一体…」
「私、持ってるんだ〜…未完成の聖因子。擬似聖因子。月美ちゃんから、砂時計の解析を頼まれちゃって。その時に分かったんだぁ。これは人体の機能の残量を可視化するデバイスに過ぎないって。で、その対象の機能を特定して、それを任意の人物に付与出来るワクチンを作ったのぉ。まぁ結果としては、機能を付与出来る人物は、ワクチンを作るマテリアルとなった人と近い遺伝子情報を持つ人物だけだったけど…まぁ、それが分かったのも仁美のおかげなんだけどねぇ。」
純白の砂時計を見つつ、愛はどこか寂しげに呟く。
「まぁ、それは置いておいて…」
どう切り出せば良いか分からず、戸惑いながらも話題を変えようとする月美。みのり達の表情も暗い。
「えぇ?月美ちゃん、酷いぃ。」
そんな、沈んでしまった空気を払拭すべく、とぼけてみせる愛。意図は他の4人に伝わったらしく、口の端に淡い笑みが浮かぶ。
「作戦会議を始めましょうか。」
こうして、最終決戦へと向かって確実に時間が流れていく。
恋愛シーンは初めてだったんで正直自信が無かったのですが…いかがでしたでしょうか?
次回、第二十三話は7月1日です。
そして…初出情報‼︎最終話は7月15日です‼︎以前のpixiv先行公開が二十三話だったのはこういった理由がありました‼︎残り二話‼︎最後までよろしくお願いします‼︎