幽遠に届かぬ愁い
————15日午前7時29分ごろ、市内の公園で、アルバイト店員の女性(22)が血を流し死亡しているのを近隣住民により発見されました。
死亡した女性は手足をロープで縛られた状態で、胸に刺し傷があり、その場で死亡が確認されました。
衣服の乱れから何者かと争ったと見られ、また、現場の被害状況が今年4月から続いている若い女性を狙った殺人事件と類似していることから、警察は一連の事件と関連付け…
イヤホンからはラジオが流れ、朝から物騒なニュースを伝えている。
そのニュースを聞きながら、俺は火のついた煙草に口を付け、煙を吸い込んだ。
空に向けて思いっきり吐き出すと、少しだけ冷たい風が全てを運び去った。
ここは俺の通う大学の喫煙所。
全面禁煙に向けた取り組みが進んでおり、追いやられるように、構内でも目立たない隅っこに位置にしている。
いずれはこの場所もなくなる。
そのことを噛み締めるように、俺はまたゆっくりと煙を吸い込んだ。
誰かが後ろから俺の肩を叩いた。
振り向くと、そこにはよく知った顔があった。
「おはよう」
一学年上の先輩、三回生の一条史織の口がそう言ったように動いた。
俺は耳からイヤホンを外し、ポケットにしまい込んだ。
「おはようございます」
「何を聞いてたの?」
「ラジオです」
「今時ラジオって」
先輩がからかうように笑った。
長く繊細な黒髪が揺れる。
「馬鹿にできませんよ。まとめサイトなんか見るよりためになりますから」
「真面目ね」
「そうでしょう」
俺はそう言って、煙草の火をもみ消し歩き出した。
「どこに行くの?」
先輩が俺の横に並び、一緒に歩いた。
「どこにも。特に決まっていません」
「用もないのに大学まで来たのね」
「まだ夏休みで、家にいてもやることは無いですから。先輩こそ暇そうじゃないですか。何しに来たんですか」
「君に会えるかと思って」
「え?」
俺は先輩の顔を見た。
その顔が悪戯そうな笑みに変わった瞬間、すかさず視線を逸らす。
しかし手遅れだった。
「嬉しいんだ」
「まさか」
赤く染まっていく俺の顔を、先輩が覗き込んだ。
俺は先輩のこういうところが苦手だ。
どんなに心の内を隠そうとしても、ちょっとでも気を抜こうものなら踏み込んでくる。
先輩は、俺が必死に平静を取り繕っている様を見るのが楽しいのだ。
後輩をからかうことに喜びを感じるような悪趣味な人だ。
「言っておきますけど、先輩なんかに興味ないですからね。いきなりおかしなことを言われたので少し驚いただけですから」
「誰か好きな人でもいるのかしら」
「もちろん」
「誰?」
「言うわけないでしょう」
ほとんど中身のない会話をしながら、構内の中心にある桜並木を歩いていく。
春には満開の桜色でもって景色を演出していたものだが、今では裸の枝が寂し気に揺れている。
「それにしても、大学2年の夏休みなんて一番楽しい時期だっていうのに独りでいるとは、キミも可哀想な人間よね」
「別に良いじゃないですか。これが俺の生き方なんです。先輩こそここにいるってことは、俺と同類ってことになりませんか」
「私だって本当ならこうして暇を持て余したりなんてしたくなかったわよ。例えばサークル活動に精を出すとか、一般的な大学生がするようなことをしたかったわ」
「……なくなっちゃいましたもんね、オカルトサークル」
「キミが入ってくれたら、そうはならなかったんだけどね」
「嫌ですよ。部室で先輩と二人きりなんて、間が持ちません」
「ひどいわ。入ってくれるだけで良いって、あれだけ言ったのに」
「どうせ心霊スポット巡りとかに連れて行くじゃないですか。俺が怖がりなの知ってるくせに」
「本気で怖がるキミの顔が見たかったわ。さぞ面白かったでしょうね」
「正直者ですよね、先輩って」
しばらく歩き、時計台のある中庭に着いた。
普段から人気のない場所だが、夏休みのこの時期では人影は一つも見当たらなかった。
俺はベンチに座り、深く息を吐いた。
「私をこんな所に連れてきて、なんだか緊張するわ」
「何言ってんですか。先輩の相手をするのに疲れたので、少し休もうと思っただけです」
「素直じゃないわね」
そう言って先輩も俺の隣に腰を下ろした。
閑散とした中庭の中心に座る俺たちの頭上では、小さな雲が一つだけゆっくりと流れている。
「ねぇ、煙草やめないの?」
まどろんでしまいそうな静寂を破り、先輩がふと口を開いた。
「やめる予定はありませんよ。それに、俺は怖がりだって言ったじゃないですか。煙草の煙は良くないものを遠ざけてくれるんですよ」
「そんなことを信じてるの? それはただの迷信よ」
「知ってますよ。単に気の持ちようです」
「ふぅん」
先輩が気の抜けた返事をし、背もたれに深く身を沈めた。
風が強く吹き、先輩が目を細めると、長いまつ毛が色素の薄い瞳を覆った。
「お互い暇だし、どこかへ出かけましょうか」
先輩が再び切り出した。
「どこかって」
「どこでもいいわ。ドライブなんて良いんじゃないかしら。私、H山トンネルの方なんてぴったりだと思うの」
「思いっきり心霊スポットじゃないですか。嫌ですよ、行きません」
「私みたいな美人の誘いをよくそんなにきっぱりと断れるわね」
「そうやって自分で言っちゃうところが残念なんですよ。せっかく、……いや、なんでもないです」
「せっかく、見た目だけはタイプなのに」
「そこまでは言ってないです。勘違いも甚だしいですよ」
俺は自分の顔が熱を帯びていくのを感じた。
もしかして、先輩に遊ばれるのは俺に原因があるのだろうか。
「それじゃ、私の家に来て一緒に飲みましょうよ。それこそ大学生らしいわ」
「もっと嫌です。先輩はお酒が入ると今よりもっと面倒くさくなるじゃないですか。それに先輩の家で、先輩と二人きりっていうのも嫌です」
「二人きりとは言ってないわよ。なにか期待してしまったのかしら」
「…そんなわけないでしょ」
「ふふふ」
先輩が肩を震わせ軽やかな笑い声を上げた。
俺はその笑い声が好きだった。
優しく、許されたような、思わず身を委ねてしまいそうな安心感がある。
しかし俺はそれを口にはしない。
俺は先輩には本当の気持ちを伝えたくはない。
先輩との関係は、微妙なバランスでもって保たれているような気がするからだ。
それを余計な波風を立てて崩したくはない。
「それならベタに、映画でも見に行きましょうか」
「どうせホラー映画でしょ。どうしても俺を怖がらせたいみたいですね」
「そんなつもりないのに。どうすれば一緒に来てくれるのかしら」
先輩が頬杖をつき、そよ風のようなため息を吐いた。
その憂いを帯びた横顔に、俺の胸は微かに締め付けられる。
「ホラー映画じゃなければ」
「え?」
俺の言葉に、先輩の目がこちらに向いた。
不意を突かれたように俺の心臓は高鳴る。
それを気取られまいとすかさず続けた。
「ホラー映画じゃなければ良いです。一緒に見に行きましょう」
「本当?」
「ええ」
「嬉しいわ。それじゃあ午後の上映を見て、その後はどこかでご飯も食べましょう」
「良いですね」
「1時に駅前集合で良いわね。準備しなくちゃいけないから、一旦家に帰るわ」
「まだ時間があるじゃないですか。今から何を準備するんですか」
「秘密よ。それじゃまた後で」
先輩は立ち上がり、嬉しそうに手を振った。
俺はそれに微笑み、腕時計を見て正確な時間を確かめた。
時刻は午前十時。
やはり約束の時間までは十分すぎるほどだ。
先輩は一体何を準備するのだろうか。
「今度はちゃんと来てね」
耳元で声がして、俺は振り返った。
しかしそこには誰もいなかった。
俺は驚かない。
今は夏休みで、ここは普段から人気のない場所なのだ。
俺はポケットから煙草を取り出し、マッチを擦った。
煙を吸い込み、勢いよく吐き出す。
それで何かが変わるわけではない。
ただ、気の持ちようなのだ。