第7話 かたづけ
金をとりに来いと言われたのは、それから三日後のことであった。お香が本屋で品出しをしていると、お凛の使いという童子が来て、彼女の住まいを伝えた。
「金を工面できました。すぐにいらしてください、とのことです」
童子はそれだけ言って、そそくさと店先を去った。
これには、弟のほうが奥から顔を出して、
「姉上、私があずかりに参りましょうか」
と尋ねた。
「いや、それにはおよばぬ」
お香は弟に本を託すと、自室に引っ込んで、出掛ける準備をした。大小の太刀を腰にさして、鏡をみてから、店のほうへもどった。弟に店番を頼み、伝えられたお凛の住まい、浅草の方角へと歩を定めた。
(金子の額を聞き忘れたな……三日で三両を集めたのか……)
お香は、首を左右にふった。おそらくは、前金であろう。十匁でも二十匁でも構わないから、早めに金を入れてくれるのはありがたいと、そう考えた。版元に顔合わせをするときであれ、絵師との相談であれ、多少の用立てはしなければならない。
それよりもお香が気になったのは、わざわざ浅草まで呼び出されたことであった。病気でもしたのか。あるいは、怪我か。お香は隅田川沿いに進んで、浅草寺をすこし過ぎたところで左に曲がり、人通りの多い道を西へと向かった。さらに一町ほど歩いて、目当ての大店がみえた。その角を右に曲がると、平凡な長屋が続く。
お香は木戸のところで表札をみあげ、お凛の名があることを確かめた。けれども、長屋のそれぞれの戸には、表札がない。どこにだれが住んでいるのか、判然としなかった。
しかも、木戸に掲げられた表札には、ただ凛の一字が書かれているのみであった。
「白い犬が目印と聞いたが……む」
お香は、それらしい犬を見つけた。小柄で、地べたに寝そべっている。
尾が短く丸顔で、なんとも愛嬌があった。
お香はその家に近づいて、玄関の戸を叩いた。
「八木香之進だ。お凛殿はいるか?」
間延びした返事があって、戸が開いた。
「いらっしゃい」
「お凛、おぬしの表札は不親切だ。名だけではだれやら……!」
お香は、お凛の背後にみえる景色に驚愕した。
「こ、これは……」
「どうしたんだい? 貧乏長屋がめずらしいってわけじゃないだろう?」
「い、いや……なんでもない」
「さあ、あがっておくんな」
お凛はそう言って、部屋に引っ込んだ。しかし、足の踏み場がなかった。箪笥や行灯のほかに、文机、行李、本、ちり紙、将棋盤、囲碁盤、矢立、着物、布団、枕、さらには大小さまざまな酒器が転がり、ごみ屋敷のような有様。これには、お香も目を白黒させた。
(およそ、女の部屋ではないぞ……)
お香が言葉をうしなっていると、お凛はふり返って、
「ちょいと散らかってるけど」
とつぶやいた。
「喜内殿も顔負けだな……とりあえず、拙者の座る場所をつくってもらえぬか?」
将棋盤と本の山を、お凛は奥に押しのけた。掃除の、一番下手なやり方である。
お香はパッパと畳をはたいてから、そこに正座した。
一方、お凛は万年布団のうえに腰を下ろして、煙管を手にとった。
「今日は、浅草まで来てもらって、悪かったね」
「いや、構わぬ。いつも足労をかけているゆえ……病でもしたか?」
「まさか、ぴんぴんしてるさ」
こうも部屋が汚いと、妙な病気にかかるのではないか。お香は心配した。
もういちど室内を見回したお香は、将棋盤に目をとめた。
「その詰め将棋は、おぬしの作か?」
「ちがうよ。喜内先生のさ」
すでに神田明神へ行ったのかと、お香はたずねた。お凛はくびを左右に振って、
「弟子筋を回ったら、何枚か持ってるひとがいたんだ」
と答えた。お香はこれに気をよくして、
「知恵の輪も、みつかったか?」
とたずねた。だが、これにはよい返事が得られなかった。
「気長にさがすしかないね……っと、このために来てもらったんじゃないんだよ」
そうだ、金の話であったと、お香も用事を思い出した。
お凛は、ふところから小判をとりだし、彼女のまえに並べた。
「掏られると困ると思ってね。お武家さんのあんたに来てもらったんだよ」
「さ、三両だと……?」
唖然とするお香に、お凛は眉をもちあげた。
「百八十匁だろう? ……銀じゃないと駄目かい?」
「どうやって賄った?」
「どうやってって……あんた、盗んだと思ってんじゃないだろうね?」
さすがに、そうは疑っていなかった。盗みは、江戸において大罪である。他人のふところから十両盗めば、死罪。それほどの大金でなくても、入墨刑に処せられる。入墨刑というのは、腕に二本の入墨をほられる刑罰であった。加えて、五十叩きが待っている。お凛がいくら世間知らずでも、盗みは働かないであろう。
「三両は大金だ。無理はしなくてよい」
「無理なんか、してないよ。さあ、納めといてくれ」
お凛は、きらきらと光る小判を、お香の膝前に出した。
お香はこれに手を伸ばさず、両腕を袖口に差し込んだまま、金の出所を尋ねた。
「借金では、あるまいな?」
「十六で、どこから借りるのさ」
「質入れか?」
「入れるもんがあるように見えるのかい」
お香は室内を一瞥して、ため息を漏らした。
そして、もうひとつ、ある問いが漏れかけたが、口をつぐんだ……お凛が、遊郭勤めではないかと思ったのである。明暦二年(一六五六年)、浅草寺の裏にある日本堤へ、吉原の遊郭が移って以来、浅草は遊女の町でもあった。
しかし、遊女が長屋にひとりで住めるはずもない。彼女たちは年季奉公で、身請けされない限り、二十七までは吉原住まいだからである。だとすれば、いったいどうやって三両をこしらえたのか、見当がつかなかった。
お香は散々考えた挙句、ふと、こう思った。
(金がないと決めてかかるのは、お凛を侮辱していまいか?)
こんな話を聞いたことがある。貧乏長屋で、独り身の老人が亡くなった。着ているものはぼろぼろで、葬式費用も出せなかったから、無縁仏として葬った。それから数年、明和の大火で長屋が焼け落ち、いざ再建となったところで、地面に奇妙な穴がある。掘ってみると、小判の入った壷が出てきた。老人は、大層な金持ちであったにもかかわらず、金の使い方を知らなかったので、そこに埋めておいたのだ
お凛は、この手の女なのかもしれない。算法と遊戯と酒があれば、ほかに要らないという様子だ。お香は背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「失礼した。この三両、たしかに受け取ろう。証文は、あとで届ける」
「証文なんか要らないよ」
そういう考えはいかんと、お香は注意した。世の中には、悪徳商人もいる。金を受け取りながら、証文がないのをいいことに、もういちど支払いを求める輩である。
「それと、もうひとつ……部屋をかたづけろ」
お凛は、かたづいていると答えた。お香はあきれた。
「これをかたづいていると呼ぶのは、江戸でおぬししかおらぬぞ」
「どこになにがあるか分かっているのに、これ以上なにをするのさ」
「かたづけは、物の在処を正すだけではない。見た目をよくするものだ」
お香の説教に対して、お凛は、はいはいと答えるばかりだった。
結局、その日はお凛が神田明神へ行くことになり、お香は一旦、帰宅した。三両を持ってうろうろするのは、気が引けたからである。帰り道、よくよくまわりに注意して、八木堂につくと、帳場箪笥へ小判を隠した。帳場箪笥というのは、からくり仕掛けの箪笥で、金目のものを盗まれないようにする、いわば金庫であった。帳簿をつけ、証文を作成し、みずからの花押を記した彼女は、翌日ふたたび、浅草へとむかった。日が昇るまえで、大通りはずいぶんとにぎやかだ。しばらく歩いていると、ふいに黒襟の女が目にとまった。
(お凛か?)
お香は小走りに、彼女のあとを追った。すると、やはりお凛であった。鼻緒のある下駄をつっかけて、いつもと違う出で立ちだ。声をかけようとしたお香は、ふと立ち止まる。意を決したようにうなずくと、道の端へ身を寄せた。
(あまり気は進まぬが……黒田の忠告もあるからな)
三両の出所を確かめるため、お香は、忍び歩きを始めた。