第4話 算術いろは
お香とお凛は、それから毎日、神田明神の詰め将棋を集めた。その数、およそ三十。お香は知らなかったが、あの屋台は、午前と午後で品を変えているらしい。思ったよりも早く量がそろうかもしれないと、ふたりはよろこんだ。
かくして、一度、集めたものをまとめてみようという話になった。出来次第では、三十でも出版できるやもしれぬ。お香が、そう助言した。実のところ、お香が目にした詰め将棋は十ばかりで、残りのお題をみてみたいという、好奇心もあった。
ふたりは、お香の本屋、八木堂で待ち合わせた。本の整理を終えたところで、お凛が暖簾をくぐる。お香は茶を出し、弟に店番を頼んでから、彼女を奥の座敷へ案内した。本を売るためではなく、版元や問屋と会談するための部屋であった。作家や版木師も、ここに通される。十六のお凛にとっては、ずいぶんな厚遇であった。
「お構いなしで、いいんだよ。詰め将棋も算法も、一畳ありゃできるんだから」
「おぬしは立派な客人だ。遠慮することはない」
お香は、室内にいた虎猫を抱えて、廊下に出してやった。
我こそが客人とばかりに、猫はニャーと鳴いた。けれども、すぐに奥へと消えた。
「客人ねぇ……」
そう言って煙管をくわえたお凛の表情には、なにか深いものがたたえられていた。
「で、出版できるようになったのかい? 三十そこいらで?」
「それを、いまから調べるのだ。将棋好きの版元には、すでに声をかけてある。相手は、喜内殿の名も存じ上げていた。興味はお持ちなのだが、いかんせん商売であるからな。銭になるかどうか、拙者があらかじめ、見極める次第になった」
「銭って言っても、出版の費用は、あたいのほうで持ってもいいんだろ?」
お香は、うなずいた。しかし、付け加えて、
「言っておくが、売れぬものを出すと、非常に高くつくぞ」
と念を押した。お凛は、額を尋ねた。
「並本百部と特別の薄葉摺二十部で、およそ銀百八十匁だ」
「三両ってことかい」
あいかわらず計算の速いやつだと、お香は思った。むろん、お香も商売人であるから、それくらいの計算は、彼女とおなじ程度にできた。お凛もまた、普段から金勘定をしているのだろうか。ありうると思った。どこぞの奉公人かもしれない。
それともうひとつ、気になったことがあった。三両と聞いて、お凛は顔色を変えなかったのである。夫婦と子ひとりならば、ひと月は養える額だというのに。
「ま、とにかく、詰め将棋のできを見るとしようか」
お凛は、これまで集めた詰め将棋の清書をとりだした。
お香とふたりで、畳のうえにならべる。
「とりあえず、日付の順かね」
「そうだな……屋台の店主が、もともとの並びで出しているとは思えぬが」
「喜内先生だって、もともと並べて作ったとは思えないけどね」
なるほどと、お香は納得した。うわさによれば、喜内は計算をした紙を、障子の裏張りに使う癖があったらしい。詰め将棋を系統立てて作っている見込みは、低かった。
「となれば、拙者たちが編者になるしかあるまい」
「それは、願ったり叶ったりさ……さっそく、みていこうか」
ふたりは、日付の順番に、詰め将棋を検討した。
すべて、解答は分かっている。
「……これなどは、あきらかに習作のようだ」
お香は、中央にある一枚を指差した。
お凛も、うなずき返した。
「9二の打ち歩を避けるお題だね」
9二歩と打てば、玉は死んでいる。しかし、打ち歩詰め、すなわち打った歩で玉を殺してはならないという禁じ手にひっかかる。ほかの駒を動かして、打ち歩にならないように工夫するのが、本作の作意であった。
「8一角成、同玉、7二金、9一玉、8二金、同銀、9二歩、8一玉、9三桂あるいは7三桂と打って、同銀に反対側から再度桂馬を打つ、という順でよいな?」
「そうだね……九手目が限定されていないのは、出版にさしさわる?」
お香は、市中に出回っている詰め将棋の本を回想した。
「家元が公方様に献上するものは、完璧でなければならぬが……」
「ああ、そういう堅苦しいのは、いいよ。遺品集なんだから」
「逆に問うが、算術書に、不完全な作を載せてもよいのか? 遺品集ならば?」
お凛は、ちょいとばかり複雑な顔をした。
「そいつは、むつかしい問いだね……」
「有名な算法家の本にも、まちがった答えが載っていると聞くが」
「そりゃ、人間がやることだからね。まちがいはあるさ。関流と最上流は、おたがいに言い争っているだろう。つまり、どっちかが正しくて、どっちかがまちがっているんだよ。あるいは、両者ともに、まちがっているのかもね」
「算法家のあいだでは、お題の瑕に寛容である、と?」
さすがにそれは違うと、お凛は答えた。算法家である以上、正しい計算を出すのが、当然の任である。彼女は、そう告げた。
「すくなくとも、不詰みは入れないでもらいたいね。それは詰め将棋じゃないから」
「今のところ、不詰みのお題はないようにみえる」
「だったら、さっきのお題も、素人向けに入れていいさ」
そういうことに決まって、ふたりはべつのお題に取りかかった。
「子供の手習いと一緒で、易しいものから難しいものへ並べるのが常道であろう」
「それは、ちょいとおかしいね」
お香は、わけを尋ねた。
「あたいは、算術書のほうが詳しいし、詰め将棋がどうなっているのか、詳しくないよ。でもね、算術書では、お題をいろいろな型にわけて、それから難易を決めるのさ」
「型とは、なんだ?」
お凛は、ねずみ算と盗人算を知っているか、と尋ねた。
お香は、知っていると答えた。
「どちらも、『勘者御伽双紙』に載っている」
『勘者御伽双紙』とは、寛保三年(一七四三年)に出版された、算術書である。算術書と言っても、遊戯のようなお題が多い。女子供でも読めた。作者の中根彦循は喜内の弟子で、お香が喜内の名前を知っていたのも、このためであった。
同時にお香は、お凛が言わんとするところを理解した。
「似たようなお題は、ひとくくりにしたほうがよい、というわけか」
お香は、ねずみ算について、ふたつのお題を知っていた。
ひとつは人口に膾炙しており、次のようなものである。
正月に、ねずみの夫婦が、雄のねずみを六匹、雌のねずみを六匹生む。それぞれの息子と娘が夫婦になって、二月には、七組の夫婦が、それぞれ雄のねずみを六匹、雌のねずみを六匹生む。これを毎月十二月までくりかえしたとき、ねずみは全部で何匹いるか。
答えは、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二匹である。
十四→九十八→六百八十六と増えていって、最後はとほうもない数になる。
算法の用語を使えば、七の十二乗に二を掛けたものを指す。
「よく覚えてるね。『勘者御伽双紙』のほうは?」
「あちらは、もっとたいへんなお題だ」
将棋盤がある。最初の升目に米を一粒、次の升目に米を二粒、三番目の升目に米を四粒というように、倍々で置いていく。八十一番目の升目まで同じことを繰り返したとき、米粒は全部でいくつになるか。
「答えは二の八十一乗から一を引いたものだが、さすがに覚えておらぬ」
「億とか兆じゃないからね。しかたがないさ」
「して、詰め将棋も、おなじように型分けできると言うのか?」
お凛は煙管を回して、例をいくつかあげた。
「馬でじぐざくに王様を追う詰め将棋は、なんて言う?」
「馬鋸だ」
「龍だと?」
「龍鋸」
「初手で、盤のうえに王様しかいないのは?」
「裸玉だ」
お香はそこまで答えて、ようようお凛の意図を察した。
「なるほど、よくよく考えてみれば、詰め将棋も、すでに型分けされているのだな。盤上の攻め駒がすべて同じ一色図式、玉が5五で詰む都詰め、いちど駒を捨て、そこにべつの駒を打つ打ち換え……あげれば、キリがない」
将棋と算法は、どこか似ているのかもしれない。お香は、そう述べた。
これには、お凛もおおいに首肯して、
「喜内先生は、将棋を計算する方法についても、考えていたみたいだね。将棋向手前持馬有駒成不成変数っていう……あたいは、目にしたことないんだ」
と教えた。お香は、目を見開いた。
「将棋を計算するだと? ……そのようなことは、できるはずがない」
「人間にはできないかもしれないけれど、算法の神様にはできるかもね……平賀源内先生みたいに、とてつもない発明をすれば、からくり仕掛けで計算できるかもしれない。欧羅巴には、歯車を回すだけで動く、計算機というものがあるらしいじゃないか。将棋を計算する箱だって、だれかが発明しても、おかしくないさ」
そのようなことはあるまいと、お香は否定してみせた。
しかし、心のうちが、なにやらざわめいた。
人間よりも強いからくりが生まれるというのは、不気味でさえあった。
「ともかく、詰め将棋を型分けする効用は分かった。読み手にも、優しいと思う。今ある三十番を、ふたりで型分けしてみよう」
お香とお凛は、畳のうえにある詰め将棋の図を、あれこれ並べ替え始めた。