表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/20

第3話 師の遺品

 お香とお凛は、神田川の岸辺ぞいに、ぶらぶらと散歩をした。菖蒲あやめの花が咲き乱れ、皐月さつきの情緒と香りが、ここまで漂ってくる。ふたりは、連れ添って歩きながら、言葉をかわしていた。「算法家だと? おぬしが?」お香の台詞に、お凛はうなずいた。

「免許はもらってないけどね」

「だれに習った? せき流か? 最上さいじょう流か?」

 剣術には、一刀流や柳生新陰流がある。同じように、算術にも流派がある。最近耳目を集めているのは、せき孝和たかかずの弟子たちが集まった江戸の関流と、それに対抗して会田あいだ安明やすあきが作った東北の最上流。おたがいに非難し合う仲であった。

「流派だと、関先生の弟子筋になるだろうね」

 お香は、これにも驚いた。

「ならば、相当な身ではないか。関流は、天下の大一門だ」

「さっきも言ったけど、あたいは免許をもらってないんだよ」

 当たり前だろうと、お香は思った。お香は、数えで十七。お凛は十六。見積もっていたとおり、相手は年下であった。十六で免許皆伝になるはずがない。すくなくとも、将棋と剣術で師匠についているお香にとっては、そうであった。

 けれども、お凛はあざけるような顔で、「学問に年は関係ないね」と言い切った。お香はこれを聞きとがめて、「経験を積まねば、分からぬこともあるだろう」と諭した。

「算法に、そんなものはないよ」

「ならば、兄弟子より優秀だと言うのか?」

 お凛は、ためらいなくうなずいた。お香は、さすがにあきれてしまった。しかし、相手の心情を、うっすらと察することもできた。お香もまた、女武芸者、女将棋指しとして、納得のいかないことはあったからである。

「拙者とて、力量の劣る兄弟子が高段なことに、不満がないわけではない。それは、剣術でも将棋でも、おなじだ。名家の子息や金のある旦那衆は、とんとん拍子で出世することもあるからな。しかし、道というものは、自分が歩むものであって、だれそれが先にいるとか後にいるとか、そういう比べっこをするところではない。ちがうか?」

「免許がもらえないと、知識を教えてもらえないだろう」

 たしかに、と、お香は首肯した。

「だが、将棋はちがう」

「そんなことはないよ。将棋だって、家元秘伝の定跡書があるって話じゃないかい」

 将棋の家元、大橋家に伝わる秘伝書。そのうわさを、お香も耳にしたことがあった。本屋の娘として、ぜひ手に入れたいと考えていたからである。かなわぬ夢とは分かっていたが、知識欲というものは、それほどまでに悩ましい。

「算法にも、秘伝書があるのか?」

「あるね。算術書なんて売れないから、本になってないものが多いんだよ」

「して、おぬしの師匠というのは?」

 お凛は、うっすらと笑みをこぼすばかりで、答えなかった。

 言いにくいことなのかと思い、お香も敢えて尋ね返さないことにした。

大本おおもとの師匠にあたるひとなら、教えてやってもいいよ」

「ほぉ……うかがおう」

久留島くるしま喜内きない

 その名前に、お香は聞き覚えがあった。

「酒飲み喜内殿か?」

「あんた、口さががないんだね。ひ孫弟子のまえで」

 これは失礼と、お香は謝り、お凛は笑った。

「まあ、事実だからね。喜内先生は、明け方に金をもらったら、夕方には全部酒に変えて飲んじまうようなひとだったらしいし、夏には夏の着物だけ、冬には冬の着物だけ、ほかは全部売っぱらっちまったそうだ。その金で、酒を買っていたんだと」

延岡のべおか藩のもとで、正式に雇われておられたのでは?」

「そこは致仕ちじして、最後は江戸で亡くなったらしいよ。それに、扶持ふちをもらっていても、金があったとは限らないさ。徳利とっくりに底がないんだから」

 目の前に弟子がいては、なんとも評価のくだしようがなかった。

 お香は、話題を将棋にもどした。

「では、なぜ将棋に興味がある?」

「喜内先生は、詰め将棋を作っていたからだよ」

 寝耳に水のような話で、お香は形のよい眉をひそめた。

「喜内殿が、詰め将棋を? ……初耳だ」

「だろうね。まとめて書き残さなかったから、今じゃなにがなにやら……」

「となると、おぬしは喜内殿の遺風いふうを追って、詰め将棋を解いているのか?」

 わざわざ神田明神に通うことはないだろうと、お香は思った。それとも、あの屋台は菓子が景品についているから、それが目当てなのだろうか。お凛は、年齢からしてもそうであるが、あまり裕福そうにはみえなかった。着ているものは、あまり変えていないようであり、草履ぞうりのほうも、ずいぶんと履き古していた。

 彼女の疑念を察したのか、お凛は煙管をくわえた。

「……あんたなら、口が堅そうだね」

 突然の内緒話に、お香は身構えた。

 同時に、信頼されたということが、すこしばかりうれしかった。

「あの屋台の詰め将棋はね……喜内先生の遺品じゃないかと思うんだよ」

「なに? ……今日の詰め将棋が、か?」

「今日だけじゃなくて、ここ数日出ているものは、喜内先生の作と睨んでる」

 お凛は、理由を説明した。彼女は以前、自分の師匠、つまりは喜内の孫弟子のもとで、いくつかの遺作をみせてもらったことがあるらしい。そのうちのひとつと、あの屋台に出ていた詰め将棋がそっくりだった。あやしんで何日か通っていると、やはり同一の作としか思えない。喜内が紛失したか、あるいは弟子が流出させたものではないか。お凛は、そう考えていると告げた。

「読めたぞ……おぬし、喜内殿の遺作を蒐集しゅうしゅうするつもりだな?」

「そういうこと……じかに会ったことはなくても、なんかこう……恩返しみたいなことがしたくてね。あたいの性分じゃないって、笑われちまうかもしれないけれど」

「いや、笑うつもりはない。高いこころざしに、恐れ入った」

 相手を見くびっていたことに気付き、お香は詫びた。

 見かけによらないとは、まさにこのことであった。

「集めたうえで、どうするのだ? 出版のあてはあるのか?」

「どうだろうね……算法家の詰め将棋なんて、どうすれば本になるのやら……」

「よければ、拙者のほうで版元を紹介するぞ」

 お凛の顔から、笑みが消えた。

「……ほんとうかい?」

「うむ、これでも本屋をあずかっている身だ。融通は利く。算術書と同じで、多少の金はかかると思うが、それについては、また考えればよい。喜内殿の弟子筋から、寄付をつのることもできよう」

 お凛は、なにやら気まずそうに、菖蒲の園へ目をそらした。紫の花弁が、川辺を埋め尽くしている。風が吹き、しなやかな葉が揺れた。

 お凛は振り向いて、お香の目をみた。

「その話、ほんとうだろうね?」

「武士に二言はない」

 ならばと、お凛は了承した。ふたりはそれから、近くの茶屋に寄り、さきほどの饅頭を等分すると、茶を飲んだ。その姿は、もはや別式女と女算法家ではなく、年頃の娘ふたりが歓談にふけるような、和気あいあいとしたものであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ