第3話 師の遺品
お香とお凛は、神田川の岸辺ぞいに、ぶらぶらと散歩をした。菖蒲の花が咲き乱れ、皐月の情緒と香りが、ここまで漂ってくる。ふたりは、連れ添って歩きながら、言葉をかわしていた。「算法家だと? おぬしが?」お香の台詞に、お凛はうなずいた。
「免許はもらってないけどね」
「だれに習った? 関流か? 最上流か?」
剣術には、一刀流や柳生新陰流がある。同じように、算術にも流派がある。最近耳目を集めているのは、関孝和の弟子たちが集まった江戸の関流と、それに対抗して会田安明が作った東北の最上流。おたがいに非難し合う仲であった。
「流派だと、関先生の弟子筋になるだろうね」
お香は、これにも驚いた。
「ならば、相当な身ではないか。関流は、天下の大一門だ」
「さっきも言ったけど、あたいは免許をもらってないんだよ」
当たり前だろうと、お香は思った。お香は、数えで十七。お凛は十六。見積もっていたとおり、相手は年下であった。十六で免許皆伝になるはずがない。すくなくとも、将棋と剣術で師匠についているお香にとっては、そうであった。
けれども、お凛はあざけるような顔で、「学問に年は関係ないね」と言い切った。お香はこれを聞きとがめて、「経験を積まねば、分からぬこともあるだろう」と諭した。
「算法に、そんなものはないよ」
「ならば、兄弟子より優秀だと言うのか?」
お凛は、ためらいなくうなずいた。お香は、さすがにあきれてしまった。しかし、相手の心情を、うっすらと察することもできた。お香もまた、女武芸者、女将棋指しとして、納得のいかないことはあったからである。
「拙者とて、力量の劣る兄弟子が高段なことに、不満がないわけではない。それは、剣術でも将棋でも、おなじだ。名家の子息や金のある旦那衆は、とんとん拍子で出世することもあるからな。しかし、道というものは、自分が歩むものであって、だれそれが先にいるとか後にいるとか、そういう比べっこをするところではない。ちがうか?」
「免許がもらえないと、知識を教えてもらえないだろう」
たしかに、と、お香は首肯した。
「だが、将棋はちがう」
「そんなことはないよ。将棋だって、家元秘伝の定跡書があるって話じゃないかい」
将棋の家元、大橋家に伝わる秘伝書。そのうわさを、お香も耳にしたことがあった。本屋の娘として、ぜひ手に入れたいと考えていたからである。かなわぬ夢とは分かっていたが、知識欲というものは、それほどまでに悩ましい。
「算法にも、秘伝書があるのか?」
「あるね。算術書なんて売れないから、本になってないものが多いんだよ」
「して、おぬしの師匠というのは?」
お凛は、うっすらと笑みをこぼすばかりで、答えなかった。
言いにくいことなのかと思い、お香も敢えて尋ね返さないことにした。
「大本の師匠にあたるひとなら、教えてやってもいいよ」
「ほぉ……うかがおう」
「久留島喜内」
その名前に、お香は聞き覚えがあった。
「酒飲み喜内殿か?」
「あんた、口さががないんだね。ひ孫弟子のまえで」
これは失礼と、お香は謝り、お凛は笑った。
「まあ、事実だからね。喜内先生は、明け方に金をもらったら、夕方には全部酒に変えて飲んじまうようなひとだったらしいし、夏には夏の着物だけ、冬には冬の着物だけ、ほかは全部売っぱらっちまったそうだ。その金で、酒を買っていたんだと」
「延岡藩のもとで、正式に雇われておられたのでは?」
「そこは致仕して、最後は江戸で亡くなったらしいよ。それに、扶持をもらっていても、金があったとは限らないさ。徳利に底がないんだから」
目の前に弟子がいては、なんとも評価のくだしようがなかった。
お香は、話題を将棋にもどした。
「では、なぜ将棋に興味がある?」
「喜内先生は、詰め将棋を作っていたからだよ」
寝耳に水のような話で、お香は形のよい眉をひそめた。
「喜内殿が、詰め将棋を? ……初耳だ」
「だろうね。まとめて書き残さなかったから、今じゃなにがなにやら……」
「となると、おぬしは喜内殿の遺風を追って、詰め将棋を解いているのか?」
わざわざ神田明神に通うことはないだろうと、お香は思った。それとも、あの屋台は菓子が景品についているから、それが目当てなのだろうか。お凛は、年齢からしてもそうであるが、あまり裕福そうにはみえなかった。着ているものは、あまり変えていないようであり、草履のほうも、ずいぶんと履き古していた。
彼女の疑念を察したのか、お凛は煙管をくわえた。
「……あんたなら、口が堅そうだね」
突然の内緒話に、お香は身構えた。
同時に、信頼されたということが、すこしばかりうれしかった。
「あの屋台の詰め将棋はね……喜内先生の遺品じゃないかと思うんだよ」
「なに? ……今日の詰め将棋が、か?」
「今日だけじゃなくて、ここ数日出ているものは、喜内先生の作と睨んでる」
お凛は、理由を説明した。彼女は以前、自分の師匠、つまりは喜内の孫弟子のもとで、いくつかの遺作をみせてもらったことがあるらしい。そのうちのひとつと、あの屋台に出ていた詰め将棋がそっくりだった。あやしんで何日か通っていると、やはり同一の作としか思えない。喜内が紛失したか、あるいは弟子が流出させたものではないか。お凛は、そう考えていると告げた。
「読めたぞ……おぬし、喜内殿の遺作を蒐集するつもりだな?」
「そういうこと……じかに会ったことはなくても、なんかこう……恩返しみたいなことがしたくてね。あたいの性分じゃないって、笑われちまうかもしれないけれど」
「いや、笑うつもりはない。高いこころざしに、恐れ入った」
相手を見くびっていたことに気付き、お香は詫びた。
見かけによらないとは、まさにこのことであった。
「集めたうえで、どうするのだ? 出版のあてはあるのか?」
「どうだろうね……算法家の詰め将棋なんて、どうすれば本になるのやら……」
「よければ、拙者のほうで版元を紹介するぞ」
お凛の顔から、笑みが消えた。
「……ほんとうかい?」
「うむ、これでも本屋をあずかっている身だ。融通は利く。算術書と同じで、多少の金はかかると思うが、それについては、また考えればよい。喜内殿の弟子筋から、寄付をつのることもできよう」
お凛は、なにやら気まずそうに、菖蒲の園へ目をそらした。紫の花弁が、川辺を埋め尽くしている。風が吹き、しなやかな葉が揺れた。
お凛は振り向いて、お香の目をみた。
「その話、ほんとうだろうね?」
「武士に二言はない」
ならばと、お凛は了承した。ふたりはそれから、近くの茶屋に寄り、さきほどの饅頭を等分すると、茶を飲んだ。その姿は、もはや別式女と女算法家ではなく、年頃の娘ふたりが歓談にふけるような、和気あいあいとしたものであった。