第2話 算額
翌日、お香は午の刻(正午頃)を過ぎたあたりで、神田明神にくりだした。人目につかないよう、茶屋にすわって、遠目に見張る。さいわいなことに、詰め将棋の屋台は、今日も出ていた。お題も変わっている。同じものは出さないようだ。菓子がかかっているのだから、あたりまえと言えば、あたりまえであった。
さて、一日待ったところで、来るものだろうか。お香は、思案した。本屋の店番や、白部藩でのお勤めもある。日が暮れるまで待つというわけにはいかない。どうしたものか。お香は団子をほおばりかけて、ふいに手をとめた。参拝客のあいだに、お凛の姿をみとめたからである。気取った調子で、詰め将棋のほうへむかっていた。
(千載一遇!)
お香は代金をはらうと、押っ取り刀で茶屋を飛び出した。
気づかれないよう、背後から回り込む。お凛は、例の煙管を右手にして、じっと詰め将棋の図をにらんでいた。
お凛は、百も数えないうちに、ふところへ手を伸ばした。
それを見計らったように、お香は一文銭を指で弾いた。銭はお凛のよこを通り過ぎ、みごと、お代の茶碗にすべりこんだ。チャリーンと、軽快な音が鳴った。お凛はふりむき、目を見張った。お香はそれにかまわず、すぐさま答えを告げた。
「4一角、同金、3二銀、2二玉、3三金、1一玉、2一銀成、同玉、1三桂、1一玉、2一桂成、同玉、2四香、同桂、2二金打までだ」
屋台の主人はうなずいて、菓子を渡してくれた。饅頭だった。
「今日は、拙者がもらうとしよう」
お凛は眉をあげ、肩をすくめてみせた。
「待ち伏せていたのかい?」
「そうだ」
お凛は、あきれぎみに煙管をくわえた。
「お武家様がやるようなことじゃないね。饅頭の横取りなんて」
「饅頭は、おぬしにやってもよい」
お凛は、なにかを察したらしく、急に真面目くさった。
「まさか……もう一局、指そうってんじゃないだろうね?」
「そのまさかだ」
お凛は鼻であしらって、その場を去ろうとした。お香は、彼女の肩に手をかけた。
「待て、そう急くな」
お凛は彼女の手をはらいのけて、きつく睨み返した。
「もう一局、もう一局じゃ、いつかは取り返せるに決まってるだろう」
「本を返せ、とは言わぬ。五百文払え、とも言わぬ」
「じゃあ、なんのために指すんだい?」
そう尋ねられて、お香は言葉につまった。
「そうだな……腹の虫が収まらぬ……とでも言っておこう」
お凛は天を見上げて、高らかに笑った。だが、すぐにそれをやめた。
「馬鹿にしてんのかい?」
「馬鹿にはしておらぬ。将棋を指そうと言っているのだ」
「それが馬鹿にしてるって言うんだよ。あたいは、浮浪者じゃないんでね」
お凛は右手で、あきれた、という仕草をし、そのまま神田明神へとむかった。
お香もあとを追う。今日は快晴もあってか、ひとの出が多い。ふたりが大きな朱の門をくぐると、そこは参拝客でごった返していた。お香はお凛を見失わないように、ぴったりと背中にはりついた。さすがに疎ましいのか、お凛はふりむいた。
「あのね、いくらお武家様だからって、怒るよ」
「拙者は武士ではない。別式女だ」
「似たようなもんだろ。だいたい、昼間っから……」
そのときであった。門のほうが騒がしくなり、大きな板を担いだ人足たちが、人混みをえいやえいやとかき分けて入ってきた。何ごとかと思い、お香もお凛も、口論をやめた。人足たちはふたりの横を、荒々しく通り過ぎていく。お香は、彼らが担ぐ板に、数が書かれていることに気づいた。
「算額か」
算法の得意なひとびとが、自分で作って解いた問題を、神社仏閣に奉納する。このとき奉納される板を、算額と呼んだ。問題が解けたことを神仏に感謝するとともに、才能を示す意味合いもあった。人足たちは、神田明神の目立つところに、算額を掲げた。ひとびとは物珍しそうに集まり、お香たちもそこに参じた。
ひとびとのあいだから顔をのぞかせると、板には次のように書かれていた。
万句合に、一万二千三百四十五の俳句が集まった。これを清書するため、何人かの職人に等しい数で割り当てたところ、二十六の俳句が余った。次に、これを選評するため、一万二千三百四十五の清書された俳句を、何人かの選者に等しい数で割り当てたところ、五十七の俳句が余った。清書した職人は、それぞれいくつの俳句を担ったか。なお、ひとりあたりの職人に配った俳句の数は、ひとりあたりの選者に配った俳句の数よりも、ひとつ少ない。
「こいつは、難題だ。配った数も職人の数も分からねぇとは」
大工らしき男が、腕まくりをしながら言った。
「二度配っているから、そこが肝なのだろう。門松算だよ」
と、隠居風のご老人。みんな、あれこれと意見を述べる。
喧噪のなか、お香は「ふむ」と漏らした。
「なかなか、むずかしい。答えは載っていないようだ」
どうやらこれは、参拝客への果たし状らしい。答えを当ててみろ、というのである。
お香が頭のなかでそろばんを弾いていると、お凛はフッとため息をついた。
「簡単だね」
「なに? ……解けたのではあるまいな?」
「もちろん、解けたさ」
お香は、おどろいた。とっかかりすら、彼女には見当がついていなかった。
しかし、このまま解法を訊くのも癪なので、お香はたんと考えた。
「……初手は分かった気がする」
「へぇ、言ってみなよ」
「一万二千三百四十五句をくばって、二十六余ったわけであろう。だとすれば、一万二千三百四十五から、二十六を引いた数、一万二千三百十九が、職人にくばられたはずだ」
お凛は、やたら感心した様子だ。お香にとっては、あまりうれしくない反応である。これでは、足し引きの練習をしているこどものようだ。とはいえ、その先も考えてあった。
「して、職人は皆で一万二千三百十九句を持っているから、句の数を甲、職人の数を乙として、甲かける乙が一万二千三百十九になればよい」
「なんだ、そこまで分かっているなら、答えは出るじゃないか」
そう言われて、お香は、はたと困った。掛け方が分からないのである。
そのことを正直に白状すると、お凛は、
「九十七かける百二十七だよ」
と告げた。
「……なに?」
「九十七かける百二十七……掛けて一万二千三百十九になるのは、これしかない」
ありえぬ。お香は、にわかに信じられなかった。
「万を超える数だぞ? 掛け方は、いく通りもあるように思うが」
「それは、勘違い。九十七かける百二十七しかないよ」
勘違いしているのは相手のほうだろうと、お香は思った。しかし、お凛が言った組み合わせ以外で、一万二千三百十九になりそうなものが、思いつかなかった。
「仮にそうだとして、答えはまだ出ておらぬぞ。九十七人の職人に百二十七の俳句を配ったのか、それとも百二十七人に九十七の俳句を配ったのか、判然とせぬ」
「へぇ、そこまでは、頭が回るんだね。じゃあ、今度は選評に移るよ。一万二千三百四十五の俳句を、さっきより一句ずつ増やして、何人かの選者に配る。五十七句余っているわけだから、選者の持っている俳句は、全部で一万二千二百八十八。じゃあ、ひとりあたりの俳句の数は、いくつだろうね?」
分からない。お香はそう答えかけて、すぐに考えをあらためた。
「九十八か、百二十八だ」
選者には、一句ずつ増やして配った。だから、百二十七人の職人に九十七句ずつ配ったならば、選者には九十八句であり、九十七人の職人に百二十七句ずつ配ったならば、選者には百二十八句である。答えは、このどちらかしかなかった。
「そのふたつの数で、一万二千二百八十八を割ってみな」
お凛に命じられるがまま、お香は頭のなかでそろばんを弾いた。
「……む、百二十八は割り切れるが、九十八は割り切れぬな」
「そう、選者に配られた俳句は、ひとりにつき百二十八。職人には百二十七だよ」
お凛は答えを明かして、煙管をくるりと回した。澄まし顔で、
「まあ、門松算としては、ちょいとむずかしい問題か」
とだけ付け加えた。
お香はしばらく唖然としてから、キュッと頬を引き締めた。
「おぬし……いったい、何者だ?」