第1話 女の勝負
神田川の柳土手を歩いていると、一件の本屋にぶつかる。墨の匂いもかぐわしいその店の奥で、あくせくとはたらく、袴姿の少女がいた。姓を八木、名を香というその少女は、白部藩の姫君につかえる別式女。
別式女とは、正式に帯刀をゆるされた女武芸者のことである。
「これで、最後か」
棚に本をならべ終えて、お香は、ひと息ついた。店に流れこむ春の風を胸いっぱいに吸いこんで、おおきく背伸びをする。そのとき、背後にひとの気配があった。客かと思ってふり返ったお香は、アッと口をひらいた。のれんをくぐったのは、先日、神田明神の詰め将棋でお香を出し抜いた、あの少女であった。黒襟に格子の着物。あのときと同じかっこうだ。お香は、どう対応してよいのやら、しばしとまどった。
「この店は、客に挨拶もしないのかい?」
少女のひとことで、お香は我にかえった。
「いらっしゃいませ」
少女はお香の挨拶もそこそこに、店内をみまわした。この本屋、八木堂は、それほどおおきな店ではない。入り口、土間と進めば、そのさきには八畳ほどの店舗。帳場格子が右寄りにおかれているだけで、あとは本の山である。
少女は、右手にもっていた煙管をくるりと回して、お香にむきなおった。
「『算法少女』っていう本は、ある?」
お香は、おやっと思った。
(算術書か……変わった客だな)
そう思いつつ、店の奥から、一冊の紐とじ本をとりだした。緑色の表紙で、ずいぶんとうすい。少女はそれをうけとり、ぱらぱらとめくり始めた。畳に腰をおろし、煙管を右手でくるくると回す。どうやらそれが、彼女の癖らしかった。
くすねられるといけないので、お香は店番のふりをして、少女を見張った。彼女が読んでいる『算法少女』とは、安永四年(一七七五年)に出版された、算術書である。算術書は数多くあれども、この本は、毛並みが変わっていた。著者が女なのだ。おそらく、女が書いた算術書というのは、日ノ本にこれしかないだろう。別式女を勤めるお香は、女も算術書を書けるという事実に、いたく勇気づけられた。
「……」
「……」
いよいよ四分の一刻が過ぎ、いいかげんに声をかけようかと思ったところで、少女はようやく本を閉じた。そして、おおきくため息をついた。そのため息は、なにやら感心の声にも聞こえたし、不満の声にも聞こえた。
「これを、おくれ」
「五百文になります」
値段をきいた少女は、煙管をもういちど回した。
「五百文……まけてくれない?」
「算術書は、仕入れが高くなっております。値引きはできません」
少女は「それなら」と言って、「あたいと勝負して、あたいが勝ったらタダ、っていうのは、どうだい?」と持ちかけた。これには、お香が眉をひそめた。
「勝負とは、どのような了見ですか?」
少女は本をひざのうえにおいて、空いた左手の指を、くいくいと動かした。
「もちろん、将棋だよ……あんた、指せるんだろう?」
話がみえてこない。お香は単刀直入に、真意をたずねた。
「察しが悪いねぇ。将棋であたいが勝ったら、タダにしておくれってこと」
なんとも、けったいな申し出である。お香はかぶりを振った。
「博打はいたしません」
「博打じゃないよ。金のやりとりはないんだから」
「本でも同じことです」
「なんだい? 自信がないの?」
少女のひとことに、お香はムッとなった。接客商売なことも忘れて、
「おぬしに引けをとるつもりはない」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「どうかねぇ……このまえの詰め将棋も、あたいが先に解いたし……」
「あれは、拙者のほうが先に解いていた。宣言が遅れただけだ」
お香の言い分を、少女は鼻で笑った。
これにはお香も頭にきて、ついつい勝負を受けてしまった。店の隅にある足付き三寸盤をもちだして、少女のまえにおいた。少女は我が意をえたりとばかりにニヤリと笑って、煙管の吸い口をくわえた。
「反故は、なしだよ……名前は?」
「香だ。皆は、お香と呼ぶ」
「あたいは、凛」
ふたりは見つめ合い、それからおもむろに、駒をならべ始めた。
……………………
……………………
…………………
………………
パシリ
局面は、今や、のっぴきならない終盤となっていた。
お香は5六桂と打って、お凛の玉を寄せようとしていた。寄せようとしていた、と言うのは、寄るかどうか分からないからである。お香は正座し、袖口に両手を突っ込んだ格好で、盤面を凝視した。
(むずかしいな……拙者のほうは、攻め駒が足らん……)
それに、3四から5四まで、歩が並んでいるのも気になった。
一方、お凛のほうは、しょっちゅう煙管を器用に回して、かるく微笑んでいた。お香は相手が喫煙するのではないかと思い、ひやひやしていたが、杞憂であった。よくよくみれば、煙管の火皿には、まったく煤がついていない。ようは、伊達煙管なのだ。
だが、そこにおかしみを感じるほど、お香には余裕がなかった。
「ま、こうだろうね」
お凛の指がのびて、4三歩成と成った。同銀直、3三歩成。手筋である。
ここまでは一直線であるし、受ける駒がない。お香は、4八成銀と入った。
(同金としてくれれば、よいのだが……)
パシリと駒音が鳴って、6九玉。お香の期待は、はずれた。
しかたがないので、3三銀と手をもどす。同飛成、3二金。
「4二銀」
お凛は、銀を捨てた。お香はこれを読んでいなかったので、思わず首をのばした。
しばし考えて、同飛。お凛は2二金と打った。
(4一玉、3二金、同飛、5三桂成のとき、3三飛と取れない寸法か)
取れば、4二金の一手詰めである。
「4一玉」
「3二金」
お香は、飛車ではなく銀に指をそえた。
「同銀だ」
お凛は、吸い口を甘噛みして、にやりと笑った。
「5三桂……不成」
お香は眉間に皺を寄せ……ハッとなった。
(しまった! 王手か!)
5八成銀、同金、4九飛成の狙いが、ふうじられてしまった。
お香は読み直して、5二玉と逃げた。6二金、同玉、4二龍、5二歩、9五角。
最後の9五角出に、お香はくちびるをすぼめた。
「なかなか、いい手だろう? 逃がさないよ」
「静かにしろ」
はいはい、と、お凛は煙管をくわえた。
7三からは、もう逃げられない。そのための5二歩だったのだが。
(……ダメだ、どうやっても寄っている)
お香は、いずまいをただした。
「拙者の負けだ」
お香は、一礼した。お凛も、満足げに頭をさげた。
「ありがとさん……それじゃ、こいつはもらっていくよ」
お凛は『算法少女』をひろいあげて、店を出て行った。
あとにのこされたお香は、弟が顔を出すまで、投了図をみつめるばかりであった。
その夜、お香は寝つけなかった。将棋に負けたことだけでなく、口車に乗せられて、店の品を賭けてしまったことが悔やまれた。五百文というのは、そこそこの大金である。すくなくとも、一介の町人であるお香にとっては、そうであった。
お香は、暗い部屋のなかで、ぼんやりと天井をみあげた。
(すぐ頭に血がのぼる性分、なんとかせねば……)
常々そう思うお香であったが、三つ子の魂、百まで。
努力してどうにかなるようには、思えなかった。
すると、またあの少女、お凛に対する対抗の念が、むくむくと沸き起こった。再戦に持ち込めないだろうか。お香は、相手の住まいも身分も、尋ねていないことに気づいた。江戸で女ひとりを捜すのは、無理である。お香は、歯ぎしりした。
本を取り返したいとまでは、思わない。武士に二言なし。別式女の身であれ、その心意気にいつわりはなかった。問題は、将棋に負けたこと。江戸界隈では、だれにも引けをとらないと自任していた女将棋指しの自分が、見ず知らずの少女に負けた。しかも、相手は年下のように思える。これはお香にとって、一大事であった。
悶々とするお香は、ふと先日の詰め将棋を思い出した。
(そうか……神田明神にツレなしで来ていたならば……住まいは遠くない。あの詰め将棋を見張っていれば、そのうち会えるやもしれぬ……)
なかなかの名案である。お香はひとり満足しながら、ようやく眠りについた。