第18話 男も女も
お香が頭を下げてから、はや三日が経った。音沙汰は、なにもない。初夏へむかう江戸の街は、今日も今日とて、なにごともなかったかのごとくに賑わっていた。かまびすしい大通りを避けて、お香は水戸藩の黒田とともに、白部の屋敷を目指していた。ふたりの様子をうかがうものは、ただ猫一匹であった。
「香之進、さきほどから、おとなしいな。なにかあったのか?」
「……」
「武士と武士、隠しだてはよくない」
お香は、松の枝のしたでふりむくと、袖口に手を入れたまま、こう返した。
「おぬしには分からぬ話だ」
「ほぉ……これでも、多少の道理は、わきまえているつもりだがな」
「女にしか分からぬ話だ」
この返事に、黒田は眉をひそめたが、にわかに青くなって、
「み、見合いかッ!?」
と叫んでから、あれこれ詮索を始めた。
「相手は、だれだ? 大店のぼんくら息子ではあるまいな?」
お香は袖口から手を出し、黒田のひたいをぴしゃりとやった。
「見合いだとは、ひとことも言っておらんだろう。父上から店を預かっているのに、どこぞへ嫁ぎますとなるわけがない。弟の世話は、だれが見るのだ」
「婿養子という手がある」
お香は、「なるほどな」と添えて、
「いずれにせよ、見合いの話ではない」
と、ことわった。
黒田は胸をなでおろして、
「なら、いいが……して、なにを悩んでいるのだ? お凛か?」
と、面倒なところをたずねてきた。お香は、言葉を濁した。
「……繋がりはあるが、お凛のことではない」
「『女にしか分からぬ』となれば、あとは月のものしか思い浮かばんぞ」
お香は、もういちど黒田のひたいをぴしゃりとやった。
「水戸の藩士は、下世話なことしか言えんのか」
「これでも、真面目に答えているのだ。男にしか分からぬとか、女にしか分からぬとか、世間ではたしかに言うが、日ノ本でおなじ言葉をしゃべっていながら、おたがいにわけが分からぬということはなかろう」
「人間、わけが分からぬことばかりではないか」
黒田はお香をなだめて、とにかく話せと言った。
お香は、半信半疑のような面持ちで、
「では、ずばり訊くが……女が武士になれぬのは、なぜだ?」
と、単刀直入にたずねた。黒田は、あわてた。
「これまた物騒な。旗本に聞かれたら、コトだぞ」
「ふん、ならば、はじめから訊くでない」
お香はそう言い捨てて、白部への道をたどり始めた。
黒田は、それに追いすがった。
「香之進、まさか白部に掛け合って、武士にしてもらうつもりか」
「拙者は、そこまで無分別ではない。今日は、おひいさまの稽古がある」
「なるほど、稽古か……とはいえ、稽古で駄賃をもらっているのだから、それも武士と言えるだろう。出世に興味津々というわけでもあるまい。そもそも、太平の世に出世など、できるはずがないからな。武功は立てられぬし、文官は家格で決まる」
「黒田家は、家格がよいからな」
黒田はため息をついて、両袖に腕を突っ込んだ。
「どうした? いつものおぬしらしくないぞ? なにを拗ねている?」
お香は、しばらく黙った。黒田を無下に扱っているわけではない。むしろ、おのれのなかで、問いそのものが、曖昧模糊としているのであった。
なぜ女に生まれたのであろうか――このように問うことは、お香にとって、道理をなさないように思われた。けだし、女に生まれなければ、それはもはやお香ではなく、赤の他人であろう。なぜ女に生まれたのか、と問えば、それは、なぜおのれは八木香なのであろうか、と問うことと、寸分違わぬように感じられたのであった。
しかしなお、そのように問いたくもあった。
「……」
「……」
黒田も、お香の心情をうっすら察したのか、しばらく押し黙った。
そのことが、お香にとってはありがたかった。
「……黒田は、なぜ白部の屋敷へ?」
黒田は、すぐには答えなかった。お香は、不審に思った。
「内密の話か?」
「さあな」
仮に内密の話ならば、そうだと答えるのは間抜けである。お香はそのことに気付いて、我ながら失笑してしまった。と同時に、白部の正門が見えてきた。門番に挨拶したふたりは、上がり口で、それぞれの廊下へと分かれた。
お香は、縁側沿いに庭を一望しながら、銀姫の部屋のまえで、膝をついた。
「八木香之進、参りました」
「……」
しばし返事を待ったお香は、やおら障子を開けた。
カタンという小気味よい音とともに、主君の部屋が露になる――銀姫の姿はなかった。お香は腰の太刀に手をそえて、庭へ降りた。左右を見回したが、それらしき人影も、それらしき足跡も見当たらなかった。お香は、砂地も念入りに確かめた。
「庭へは、出ていないということか……となると……」
大名の江戸屋敷は、広い。豪商の屋敷に比べれば狭いが、お香のような一介の町人からみれば、どこをどう使ってよいものやら、途方に暮れるような広さであった。
しかし、江戸屋敷というものは、部屋割りが大層細かく分けられていた、あそこは女中たちの詰め所、あそこは取次、あそこは上段の間というように、およそ無駄がないのである。したがって、銀姫が隠れられる場所も、たかが知れているのであった。
お香は、文庫の収まった蔵に向かって、屋敷を半周した。すると、蔵の戸が、わずかにひらいていた。お香は足音を立てないように近づき、戸をうまく開けた。銀姫の真っ赤な着物のすそが、行李のうしろから、ちらりと覗いてた。
「おひいさま! お覚悟!」
お香は、銀姫に襲いかかった。逃げる間もなく、姫は捕まってしまった。
「こりゃ! 無礼であるぞ!」
暴れる銀姫を肩にかついで、お香は庭のほうへ引っ立てた。
一応は主君であるから、怪我をしないように、気をつけて縁側におろした。
「おひいさま、毎度毎度、稽古をさぼろうとするのは、やめていただきとうございます」
「いつ稽古をするかなど、わらわの勝手であろうが」
「いいえ、白部のお殿様から、おひいさまの指南役をうけたまわっております」
「わらわは、頼んだ覚えなどないぞ」
銀姫はむすりとして、部屋のなかへもどってしまった。
お香はあきらめずに、姫をその場に正座させた。
自身も正座して、両膝に手をそろえ、滔々と説教を始めた。
「よろしいですか。おひいさまは嫁入りのお年頃で、許嫁も決まっております。いつ嫁ぐかという段なのでございますから、はしたない振る舞いは、今後一切、お控えいただきとうございます。先方が噂を耳にして、『じゃじゃ馬との婚姻は相成らん』となれば、御家名にも傷がつきますぞ」
銀姫は、途中から顔をそむけて、
「先方の噂なら、わらわも聞いておるわ。大した男ではない」
と愚痴った。お香は、右手で畳をしばいた。
「おひいさま! ご主君がお決めになられた相手ですぞ!」
「香之進、おぬしも大名の屋敷に出入りする者なら、多少は武家の気苦労も察せぬか。わらわは、町人のように尻を触られて、『あらいやだ、このひと、わたしに気があるのね。恋文でもしたためようかしら』……などとは、できぬのだぞ。堅苦しい」
銀姫が、艶に入った仕草などそえて演じるものだから、お香は真っ赤になって、
「おひいさま! なにをおっしゃっているのですか! 言葉をお慎みください!」
とたしなめた。銀姫は、ふたたび面倒そうな顔になった。
「一々、うるさいのぉ。主従の間柄が、分かっておらん」
「『三度諫めて聞かざれば、すなわち号泣してこれに随う』とは言え、拙者は何度でも言わせていただきますぞ。おひいさまは、口が悪過ぎます。どこから、そのようにはしたない言葉を覚えられるのですか? 女中ですか? 出入りの商人ですか?」
お香が散々詰問していると、障子越しに、か細い女の声が聞こえた。
「おひいさま、お殿様がお呼びでございます」
女中のお初であった。
お香は、説教を中断せざるをえなくなった。
「父上が、何の用じゃ?」
「屋守のご子息さまがお越しとのことです」
銀姫は、さっと立ち上がった。
「聞いておらぬぞ!」
「たまたま、お立ち寄りになられたとかで……」
銀姫は、着物の帯をほどいて、衣装をなおし始めた。
「わらわは稽古をしておったから、着替えに手間がかかると伝えて参れ!」
「おおせの通りに」
「香之進! なにをぼやっとしておるのじゃ! 手伝わんか!」
かくして、てんやわんやでお色直しを終えた銀姫は、南蛮渡来の鏡をのぞきこみ、
「ふむ……おかしゅうない」
と、ためつすがめつ、念入りに化粧を確かめた。
「よし……それでは参るぞ」
銀姫は、あらかじめ廊下に控えさせておいた女中たちと、客間に去って行った。その足取りを眺めながら、お香は鼻息も荒く、
(ふん、あのようなことを言って、まんざらでもないではないか)
と、あきれ果てた。屋守の子息とは、ようするに、銀姫の許嫁である。
しばらくして、脱ぎ散らかされた衣装をまとめに、お初がもどって来た。
お香は、かたづけをするお初の背中を見下ろしながら、
「おひいさまの相手というのは、どのような御方なのだ?」
とたずねた。お初は手を休めずに、かがみ込んだまま、
「今年で十五になられましたが、ずいぶんと誠実な御方のようです」
と答えた。お香はにやりと笑って、
「となると……おひいさまの尻に敷かれかねんな」
と、ひとりごちた。
「さあ……どうでございましょうか……おひいさまはおひいさまで、なかなか惚れ込んでおられるようでございますし……縁の品など、二、三お持ちに……」
「しかし、『大した男ではない』とおっしゃっていた」
お初は、まあまあ、という感じで、のらりくらりと返した。
「おのれが悪口を言うのと、他の女に悪口を言われるのとでは、少々……」
「『うちの亭主は甲斐性なしだ』と『おまえの亭主は甲斐性なしだ』は、同じであろう。どちらも悪口ゆえ、慎まねばならぬぞ。『女大学』も、人の悪口は禁じている」
お初はそこで、ようやく顔をあげた。
「そのふたつは、異なるように思われますが……」
「なぜだ? 同じ男について、同じことを述べているのだぞ?」
「はぁ……まぁ……そのようなことも……えぇ……」
お初は、なんとも言えないような調子で、ふたたびかたづけに取りかかった。
お香は、こういう態度があまり好きではないので、重ねて尋ねかけた。そのとき、廊下の奥から、べつの女中たちが歓談しつつ現れた。お香は、頭を下げられたところで、ふと彼女たちにも、おなじことを尋ねてみたくなった。
「妙な問いかけで悪いが、おぬしたち、『うちの亭主は甲斐性なしだ』という妻の物言いと、『おまえの亭主は甲斐性なしだ』という他の女の物言いと……このふたつは、同じことだと思わぬか?」
女中たちは、おたがいに顔を見合わせて、
「いえ……ちがうのではないかと……」
と口をそろえた。
「どこがだ?」
「その……香之進様は、同じだと思われるのでございますか?」
お香は、首を縦に振った。
「同じ男について、同じことを言っているのだ。文の意も、同じに違いない」
年長の女中は、なんとも言えない笑みを作って、
「香之進様は、殿方のように、道理を大切になさるのでございますね」
と言い、その場を去った。
お香は、面白くないと思い、
「女も道理は大事にせんといかん……拙者は先に帰る」
と言い残してから、白部の屋敷をあとにした。




