序
人間とは、戦いの歴史である。
天明二年(一七八二年)春、神田明神へむかう道は、大勢のひとにあふれていた。ある者は夫婦で連れだち、ある者は商売仲間と、屋台の算段。年長の子につれられて、草履を鳴らすこどもたち。そのこどもたちが駆け抜けたさなかに、ひとりの若侍がいた。桜色の羽織に紺の袴、大小の太刀。ほっそりと整った面立ちのなかには、ささやかな可憐さがある。喩えて云えば、菖蒲の花。きりっとした葉のうえに、大輪の華を咲かせたよう。艶やかな髪を腰まで垂らして、赤いひもで結わえていた。
「香之進」
名前を呼ばれた若侍は、ふと振り返った。黒い羽織にねずみ色の袴を着た侍が、こちらに手を振っていた。布地の光沢からして、いかにも潤沢なおもむきである。おそらくは、旗本か、それに準じる身分であろう。彼は、香之進に歩み寄ると、気さくに挨拶した。
「香之進、奇遇だな。今日は、どうした?」
若侍も、くったくなく微笑んで、
「神田明神に、ひとつお参りしておこうと思ってな……剣之介は?」
と尋ね返した。剣之介と呼ばれたほうの侍は、ひたいを軽くなでて、
「俺の用事は、あれだ」
と言い、通りの端、松の枝のしたにぽつんとある出店を指差した。香之進は、ちょっとばかり目を細めて、「けったいだな。売り物がないではないか」とつぶやいた。さもあらん。店と呼ぶのもおこがましい代物で、桟敷のうしろに一枚の木板がおかれているだけ。これでは講談もできまいと、香之進は思った。
ところが、その板に貼られている紙をみるやいなや、表情が変わった。
「詰め将棋か?」
「ああ、ここ数日、あそこで懸賞をしているらしい」
「判じたら、なにかもらえるのか?」
世間じみた質問に、剣之介は微笑んだ。
「菓子がもらえる」
それを早く言えとばかりに、香之進は出店へとむかった。剣之介も、あわてて追う。ふたりの影を認めた店主は、六十を過ぎた頃であろうか、なかなか高齢の男で、腰が曲がっていた。茶色い木綿の古着。あまり裕福そうではない。目が悪いらしく、ふたりを交互にみくらべて、「お武家様でございますか?」と尋ねた。
「うむ」と剣之介。男は手を合わせて、「お許しは、きちんと得ております」と、頭を下げた。剣之介は、かぶりを振って、「いやいや、俺たちは、詰め将棋を解きに来たのだ。役人ではない」「はあ、左様で」「ただで解かせてもらえるのか?」「解くたびに、一文いただければと思います」「そうか」
安いな、と、香之進は思った。近年、蕎麦は一杯十二、三文ほどであるから、娯楽としては破格であった。剣之介も拍子抜けした様子で、香之進のほうを向くと、「どちらが先に解く? ゆずってもいいぞ」と述べた。「なんだ、剣之介、自信がないのか?」「菓子が食いたそうな顔をしているからな」「ぬかせ」香之進はムッとなりつつ、一文を取り出した。すると店主は、「お答えをいただくときで結構です」と告げた。
香之進は承知して、お題をにらむ。
(……なんだ、簡単ではないか)
一文を差し出そうとしたところで、背後からひゅっと、小石のようなものが飛んだ。
香之進が刀の鍔に手をかけた瞬間、ちゃりんと、桟敷のうえの鉢が鳴った。回答料を入れる器であった。そのなかで一文銭がくるくると回り、最後には横倒れになった。
見れば背後に、ひとりの少女が立っていた。黒襟に格子の着物。足もとには、楓の模様をあしらった、白と赤の襦袢が鮮やかだ。小ぶりな顔に眉をきちんと引いて、煙管をくわえ、妖艶な笑みを浮かべていた。だが、その大人びた表情とは裏腹に、年は十七、八であると思われた。
「あたいが先だよ」
少女は、ふたりの侍に怖じ気づいた様子もなく、サッと割って入った。店主は、ちらりと香之進たちのほうを盗み見た。が、ふたりとも無言なので、少女に答えを問うた。
「1四金、同歩、2四金、同桂、1三飛、3二玉、1二飛成、同香、3三飛、同玉、2五桂、3二玉、2二金、4一玉、3三桂不成の十五手詰みだね」
ほぉ、と、香之進は感心した。正解である。
少女は煙管を甘噛みして、店主から菓子を受け取った。「悪いね、お侍さん」とその場を立ち去ろうとしたところで、ふと、香之進に視線をとめた。
「拙者の顔に、なにか?」
「あんた、女だね」
香之進は、くちびるを軽くむすんで、こくりとうなずいた。
「左様だ」
「ま、女同士、勘弁しておくれよ」
少女はそう言い残して、神田明神の方向へ立ち去った。
香之進……またの名をお香は、腕組みをして、ため息をついた。
「拙者のほうが、解くのは早かったぞ」
剣之介はそれを聞いて、笑った。
「そこが不満なのか? てっきり、菓子が食えなかったせいかと思った」
「どうやら、貴様と出会ったのが、そもそもの間違いのようだな」
お香はそう言って、すたすたと歩き始めた。あとを追う剣之介。
皐月の風はどこか、不穏なものを運び始めていた。