第17話 大凡算
カコンと、獅子脅しが鳴った。その軽快な音につられて、小鳥が一羽鳴いた。クロツグミであろうか。縁側から見る庭は、こじんまりとしている。どのあたりか、漠然と見当をつけただけで、お香はしばし、鳥の唄に耳を澄ませた。
「お待たせいたしました」
足袋のこすれる音と一緒に、男の声が聞こえた。神社で会った、あの中年であった。
男は、上等な盆に、これまた上等な白い釉薬を塗った湯のみを乗せていた。
茶の香りが芳しい。お香は礼を言って、まず湯のみに見蕩れた。
「曇り空に、薄い夕焼けのような色合い……萩の焼き物でございますか」
「左様です。手に入れるため、ひと苦労致しました」
一楽二萩三唐津――茶人が陶器を褒め讃えるときの常套句であった。長州藩、毛利輝元の命により、李勺光と李敬の兄弟が、高麗茶碗をもとに焼いたものである。
「高麗の茶碗は、枯淡の味わいが深く、拙者も好みです」
「お若いのに、渋いことをおっしゃりますな。さあ、どうぞ一服」
お香は念のため、男の気配をもういちど確かめた――毒は入っていないようだ。
お香はひと口飲んで、のどの渇きを潤した。饅頭を食べたもので、喉が渇いていたのである。半分ほど飲み干してから、ようやく感じるところを述べた。
「茶そのものも、上等なようで」
「京の永谷です」
「なんと、煎茶の本家ではございませんか」
江戸の庶民が古くから飲んでいた茶は、番茶であった。煎茶を考案したのは、山城の国の永谷宋円であった。その煎茶が庶民の口に入るようになったのも、ここ最近の出来事であると言ってよい。お香も、店で飲んでいるものは専ら番茶であった。浅緑色の茶が出るのは、大店との会合か、白部でお勤めのときと、相場が決まっていた。
お香はあらためて礼を述べ、湯のみを脇に置いた。ここからが本題である。
「して、貴殿が拙者をお招きくださったのは、いかようなご用件で」
「いえいえ、お侍さまのほうこそ、わたくしに用事があったのではございませんか」
「……いかにも」
お香は居住まいを正した。縁側に座したまま、話を切り出す。
「拙者は、八木香之進、名は香と申す者。白部藩の大名屋敷に勤めております」
「ほほぉ、やはりお侍さまでしたか」
「いや、禄は受けておらぬゆえ、侍ではありません……それはさておき、拙者の実家は、八木堂という本屋を営んでおります。もしや貴殿が、お立ち寄りくださったのではないかと思い、声をかけさせていただいた次第」
男は、丸渕の眼鏡の奥で、柔和な笑みを作った。
「ああ、神田のあの本屋でございますか……いかにも、立ち寄らせていただきました」
「そのとき、算術書をご所望なさったと伺ったのですが」
「左様でございます」
「貴殿は……算法家ですか?」
男は、かるくうなずき返した。ここまでは、当てずっぽうではなく、道理であった。並の客は、算術書など見向きもしない。そのようなものを買いたがる客がいれば、算法家か物好きに決まっていた。
しかし、次の問いかけには、多少の度胸がいった。
「これは拙者の勘ですが……もしや、お凛という女をご存知ではありませぬか?」
男がどのように応じるか、お香には皆目予想がつかなかった。
ところが、意外にも、あっさりと次のような答えが返ってきた。
「ええ、よく存じあげております」
見当違いか、はぐらかされるかの二択だと思っていたので、お香は慌てた。
「八木さまがお考えになられたことは、おおよそ分かります。わたくしが、そのお凛という少女を捜しに来たと、そうお考えだったのではありませんか。本は口実である、と」
「いや、拙者は……」
「ハハハ、顔にちゃんと書いてあります」
お香は顔に手をあてかけ、急いで引っ込めた。威厳を取戻すために腕組みをして、
「見ず知らずの者に、ずいぶんと明け透けな話し方をされますな」
「わたくしは、持って回ったことが嫌いなのでございます。二と二を掛け合わせると、四になりましょう。そのように、すっぱりとした方が、わたくし好みですな」
男の口調には、いやみったらしいところもなく、お香は訝る心を押さえた。
「貴殿のお考えは、承知しました……して、お名前は?」
おかしな話であるが、ふたりはここに来るまで、名乗りをあげていなかった。神社で声をかけたお香を、男はのらりくらりとここまで引っ張って来たのである。お香ほど豪の娘でなければ、逃げ出していたであろう。
「わたくしは、才助と申します」
「それは通り名でしょう」
才助は、くったくなく笑った。
「わたくしがどのような素姓の者かなど、どうでもよいではございませんか」
「そうはいきませぬ。この庭、屋敷、茶器、茶葉といい、大凡人ではございますまい」
「いえいえ、わたくしは大凡人でございますよ。ただ少々、算法の才がありましてな」
お香は、前後のつながりが、とんと見えなかった。
「算法の才と裕福な暮らしに、どのような関わりがあるとおっしゃるのですか?」
「八木さまは、富くじをお買いになられますか?」
お香は、買わないと答えた。
「なぜでございます?」
「当たらぬからです。それに、運否天賦で金を得るのは、よからぬこと」
「ハハハ、いかにもお侍さまらしいお答えですな」
「才助殿は、お買いになられるのですか?」
「見返りによります……例えば、今、五千人の買い手があって、ひとりだけ百両が当たるとしましょう。富くじ一枚の値が五百文のとき、買ったほうがよいでしょうか?」
百両とは、およそ四十万文である。
お香は、この問いの意図が、よく分からなかった。
「買ったほうがよいかどうかは、ひとそれぞれに思いますが」
「ほほぉ、そうお考えですか」
「……才助殿は、いかようにお考えか?」
男は、盆に乗っていたもうひとつの湯のみをようやく取り上げて、
「買わぬほうが、よろしいでしょうな」
と答えた。お香は、相手の出方を待った。
「さて、べつの富くじについて考えてみましょう。五千人の買い手があり、ひとりだけ百両が当たるところまでは同じなのですが、富くじ一枚の値が五十文だとします」
「そこまで安い富くじは、ないと思いますが」
お香の突っ込みに、男は笑った。
「いやはや、もちろんありませんが、仮に、のお話です……買いますか?」
「失礼ですが、さきほどからお尋ねの意趣、とんと解せませぬ。いずれにせよ、拙者は富くじは買わぬと決めていますので、いくらの値でも買いませぬ。一文であろうと」
男は、ふたたび笑った。
「なかなか頑固なお方とお見受けしました」
「して、才助殿は、買うのですか?」
「買います」
そう答えて、才助は茶を飲んだ。
「ふむ……宇治では、天気がよろしかったとみえます」
「茶をおごってもらったうえの不躾になりますが、算法と金の話ではなかったのですか。もしや、富くじでこれだけの財を築いた、とでもおっしゃるおつもりですか?」
「いえいえ、わたくしも、富くじを買ったことはございません」
お香は、だんだんとじれったくなってきた。
「さきほど、遠回りなことは好かぬとおっしゃったではありませぬか。ならば、すっぱりとした言い方をしていただきたい」
才助は眼鏡をはずして、
「一本取られましたな……けれども、ここまでの話で、筋道は明らかなのでございます」
と返した。
「どこがどのように明らかなのか、それを説いていただきたい」
「五千の富くじのなかに、ひとつだけ当たりがある……このとき、だいたい何度買えば、当たりを引くことができましょうか?」
「何度……答えは、だれにも分からんでしょう。当たるときは当たりますが、当たらないときは当たらないものです。一度で当たる者もいれば、一生当たらぬ者もいます」
「それは、半分正しく、半分誤っております」
才助は眼鏡をかけなおして、すっと賽子を取り出した。
「八木さまにお伺いします。この賽子を十万回振ったとき、一の目は何度出ますか?」
お香は両袖に腕を突っ込み、眉間に皺をよせた。
「振ってみねば、分かりますまい。だいたいが、十万回も振れぬでしょう」
「いえ、分かるのです……おおよそ、一万と六千六百六十六回出ます」
「なに……? 拙者をからかっておられるのですか?」
「からかってなどおりません。これこそが、久留島喜内殿の一門で見つけられた、大凡算という秘伝なのでございます」
お香は、飛び上がりかけた。喜内の名前が出たからである。
「喜内殿をご存知なのですか?」
「はい。わたくしとて、和算家の端くれにございます」
「お凛を知っているのも、その筋からですか?」
才助は、そうだと答えた。
「信じられぬ……大凡算などというものは、一度も聞いたことがない……」
「秘伝でございますからな。喜内殿の弟子が、将棋向手前持馬有駒成不成変数という、組み合わせ算から着想を得まして、それを発展させたものでございます。その発案者は既に亡くなって、今これを知るのは、わたくしと、もうひとりのみとなっております」
「もうひとり、というのは……まさか……」
「はい……お凛でございます」
お香は、目の前の男とお凛とのあいだの奇妙な繋がりに、感じ入った。
と同時に、背中に雷のようなものが走った。
「そ、そうか……カラクリが解けたぞッ!」
「どうか、なさいましたか」
これにはさすがの才助も驚いて、ワケを伺った。
お香は、絶対に他言無用と断ったうえで、南蛮かるたの勝負を伝えた。
「なるほど……間違いありません。お凛は、大凡算を使っております。というのも、大凡算は、数を多くすればするほど正しくなるもので、お凛が長丁場を好んだのは、そのためかと思われます。賭け札を十に限ったのも、一発勝負でまくられることを避けたのでしょう。大凡算は、一か八かの賭けに対して、必ずしも勝てるとは限りません」
「大凡算は、南蛮かるたにも使えるのですか?」
「組み合わせによって決まるものには、ほぼすべて使うことができます」
お香は、そうか、と一言つぶやいて、縁側をおりた。
そして、袴が汚れるのも構わず、その場にひざをついて頭をさげた。
「お侍さま、なにをなさるのですか?」
「家元の秘伝なのは重々承知……だが、その大凡算、拙者に教えてくださらぬか」
「知って、いかがなさるおつもりですか?」
お香は、お凛が賭場で働いていること、お凛に南蛮かるたで勝てば、足を洗わせられること、このふたつを才助に伝えた。才助は、次のように問うた。
「わたくしは、賭場もひとつの仕事場と考えております。お凛は女です。いくら算法ができても、出世はまかりなりません。しかし、賭場で花形となれるなら、それでよいではありませんか。少なくとも、長屋で暇をかこっているよりは、本望なはずです」
「賭場は、お凛が花開く場所ではござらん」
「では、どこで咲くと言うのですか?」
お香は、頭を下げ続けた。庭の砂利が、彼女の目の前をおおっていた。才助の表情は見えない。けれども、上方から向けられてくる眼差し――それは、憐れみを含んでいた――は、痛いほどに感じた。
お香は問われていた。あなたもまた女の身ではないか、と。