第16話 転々
翌朝、店の棚卸しを終えたお香は、ふらふらと神田の川岸を歩いていた。とくに何ということもなく、ただ気晴らしをしたかっただけである。菖蒲園の近くまで来ると、はや旬も過ぎたというのに、紫色の花々が、満々と咲き誇っていた。
(花の移ろいは速いというが、これでは、あべこべだな)
お香は、川面の緑と自分の境遇を重ねつつ、そんなことを思った。花の移ろいも、人の心の移ろいには敵うまいと、そう感じたのである。しばらく見入っているうち、にわかに空しさがこみ上げて来たので、お香は青空の下を、ふたたび歩き始めた。風に揺れる柳の葉を暖簾のようにくぐって、初夏の心地を楽しむ。だんだんと人通りも増えて、神田明神へ続く通りに出た。
行き交う参拝客を尻目に、お香は引き返したものかどうか、悩んだ。店をふらりと出たのも、なにか故あってのことではない。奥で掃除をしていた弟は、今頃不審に思っているであろう。お香はそう考えて、来た道を戻ろうとしたが、足は左に曲がった。朱の鳥居が見えるところまで来て、彼女は左右を丹念に見回した。
(ん……詰め将棋屋は、まだ出ていないのか?)
例の詰め将棋屋がいたところには、べつの屋台が立っていた。なにやら美味しそうな香りがしてくる。店主の顔に見覚えがあったので、お香は立ち寄ってみた。するとやはり、あの詰め将棋屋の主人であった。今日は男物の割烹着に力だすきをして、頭には手ぬぐいを巻いていた。お香が覚えている、気合いの足りない初老の男ではなかった。てきぱきと店を切り盛りし、参拝客に声をかけていた。
お香が近寄ると、主人ははたと気づいて、
「おや、いつものお武家さまではございませんか」
と挨拶した。お香もかるく挨拶してから、屋台のなかをのぞいた。
真っ白な饅頭と茶色い饅頭が、ほかほかと湯気を立てていた。
お香は、朝飯も済まさずに出て来たものだから、腹が鳴りそうになるのをこらえて、
「饅頭屋に鞍替えしたのか?」
とたずねた。主人は、へへっと笑った。
「いえいえ、こちらのほうが本業です」
「なに? ……詰め将棋屋は、副職か?」
「先々月、屋台の釜が壊れてしまいまして、新しい品を頼んだのですが、すぐには売れないと言われました。はめ込み口にぴたりとしたものが、なかったのです。こう見えても、わたくしは根っからの商売人です。家でごろごろしているのは、性に合いません。無聊をかこっているうち、碁仲間の旦那から、あの詰め将棋を譲り受けたのでございます」
「譲り受けた? ……買ったのか?」
「はい。その旦那も、よそから譲り受けたらしいのですが、将棋はやりませんので、たまたま将棋が好きだったわたくしに、売ったようでございます。わたくしは、指すのも打つのもできますし、どちらかと言えば、指すほうが好きなもので……とはいえ、値が張りましたから、ああして儲けさせていただいたのです。わたくしでは解けないお題もございましたもので……お武家さまには、お世話になりました、へっへっへ」
お香はその先を訊こうと思ったが、ひとりの老婆があらわれて、饅頭を請うた。どうやら孫への土産物らしく、主人としばし談笑して、参拝道を折り返して行った。お香も本屋の娘であるゆえ、このあたりは敏い。九十六文の銭さしを相手に握らせ、
「これで饅頭をくれ……して、おぬしに詰め将棋を売った男というのは、何者だ?」
とたずねた。主人は、饅頭入れの葉を取り出しつつ、
「へぇ、お名前は申し上げられませんが、紙屋の旦那で、持ち込まれた障子の張り替えをしていたら、たまたま見つけたそうでございます」
と答えた。
「障子に貼られていたのか?」
「はぁ……おそらくは……」
お香は、主人が饅頭を詰めるよこで、これまでの見聞を思い起こした。
(あれは、喜内殿の作……弟子が障子に使うとは思えぬ……つまりは本人……)
喜内が亡くなったあと、部屋の整理をするため、弟子が障子を持ち出し、そのとき紙屋が詰め将棋をこっそり剥がしたのではないか。その裏紙がたまたま、饅頭屋の主人の手元に転がりこんだのではないか。そして、お凛の目に留まったのではないか。
ここまで推し量ったとき、主人に声をかけられた。
「お品です」
お香は、差し出された包みを受け取りながら、
「仮に、だぞ……『あの詰め将棋をすべて売って欲しい』と頼んだら、どうする?」
と遠回しにたずねた。すると、主人は一寸、申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「へぇ……あれはもう、売ってしまいましたので……」
これには、お香も飛び上がりかけた。
「売った? 誰にだ? 女ではあるまいな?」
主人の返答は、曖昧であった。どこぞの金持ちとも貧乏人ともつかぬ、一風変わった様子の男が、言い値で買い上げたのだと言う。なぜ金持ちのように見えたかと言えば、主人の言い値がそこそこの額だったからであり、なぜ貧乏人に見えたかと言えば、履物などの細かなところに、心配りがないからであった。
「長く商売をしておりますと、お客の身代に、察しがつくのでございますよ」
それはそうだ、と、お香は思った。彼女も、初見の客が来たときは、とりわけ履物に目を凝らす。衣服は立派でも、履物が貧そうなのは、高楊枝な証拠であった。
が、あくまでも武士と思い込ませるため、わざと、
「そうか。商人は、目のつけどころが違うのだな」
と空とぼけしておいた。
「わたくしたちは、禄というものがございませんので」
主人の愛想笑いに、お香は、
(昨今は、商人のほうが儲けているであろうに)
と、心のなかでひとりごちた。禄と言っても、米で賄われるわけである。
「長話をしてしまったな。かたじけない」
「まいど」
お香は饅頭の包みをかかえて、参拝堂を左右に見渡した。話を聞き出すために買ったとはいえ、このままでは身動きもままならない。子供にでも配ろうかと思ったが、あいにく親子連ればかりであった。
(白部の屋敷に持参して、女中たちに配るか……)
店のほうは弟を信頼して、お香は白部藩の江戸屋敷へと向かった。ところが、これは甚だ誤算であったと言わねばならない。というのも、百文近い饅頭を運ぶのは、思っていたよりもめんどうだったからである。
「しまったな……饅頭が冷えてしまう」
お香は、包みの位置をなおすため、どこか座れそうなところをさがした。すると、手頃な神社が見えたので、御免とばかりに境内へ踏み入った。縁側に腰をおろして、包みをほどき、中身を確かめた。
「下のほうが潰れ始めているな……すこし減らすか」
朝飯を済ませていなかったこともあり、お香は潰れかけているほうの饅頭から、ひとつ頬張った。ほんのりとした甘さが舌のうえに広がり、幸せな心地になってくる。
「あの饅頭屋、なかなかやるな……むッ」
お香は視線を感じて、サッと身構えた。
しかし、昼間から辻斬りに会うわけもなく――ひとりの童であった。
童は人差し指をくわえて、じっとこちらを見ていた。
お香は、童と饅頭を見比べたあと、
「ひとつ食べるか?」
とたずねた。童は、にこりともせずにうなずいて、ひとつ受け取り、
「あんがと」
と言っただけで、そのままぼそぼそと食べ始めた。
お香が黙って続きを食べていると、童は突如、
「おさむらいさん、ここでなにしてるの?」
とたずねてきた。お香は、一寸案じて、
「これから出仕先に参るのだが、饅頭を買い過ぎてしまってな」
と答えた。童は、いくつ買ったのか、とたずねた。
お香は、すこしいたずらをしてやろうと思い、
「三で割ると二余り、五で割っても二余り、七で割ると四余る数だけ買った」
と答えた。童は饅頭を食べる手を休めて、ぼんやりと宙を見上げた。
「どうだ? 拙者がいくつ買ったか、分かるか?」
「……三十二」
「!?」
童が数を当てたので、お香は驚きのあまり、饅頭を落としかけた。
空中でハッしと掴み、ふたたび手の内に収めた。
「なぜ分かった?」
「三で割った余りに七十、五で割った余りに二十一、七で割った余りに十五を掛けて合した数から、百五をどんどん引いて残った数だから」
お香は感心した。
「百五減算を知っているとは……その歳で『塵劫記』を読んだのか?」
童は、師匠から教わったのだと返した。近くの寺子屋で手習いを受けているのだが、習字がつまらないので遊んでいたところ、さきほどと似たお題を出された。今ではむしろ、算法に興じているのだと言う。
「習字も大切であるから、おろそかにせぬようにな」
「おさむらいさんは、なんで髪を馬の尾に結ってるの?」
「拙者は武家ではない。別式女だ」
「べっしきめ?」
大名の姫君や女中に剣術指南をおこなう役目だと、お香は答えた。
「ふぅん……強い?」
「そこいらの野良侍には負けぬぞ。現に、このあいだの試合も……」
お香が胸を張って太刀の束に手を当てたとき、ふと人の気配を感じた。
ふりかえると、眼鏡をかけた中年の男が、なんとも言えぬ柔らかな表情で、童を手招きしていた。渋柿色の羽織を着て、やや猫背であった。額の皺は深い。
「坊、こんなところにおったか。帰るぞ」
童は縁側から飛び降りて、男へと駆け寄った。男は童の手にある饅頭を見て、どうしたのかとたずねた。童は、そこのべっしきめさんからもらった、と答えた。
男は恐縮して、
「お武家様から物をいただくとは、とんだご無礼を」
と言い、童にも礼を述べさせた。
「いや……かまわぬ」
「あのひと、おさむらいさんじゃないらしいよ」
「こりゃ。余計なことを言うでない」
男はふたたび謝って、その場を去ろうとした。お香は、その男の身振り、衣服、ふところ具合に、どこかしら辻褄の合わぬところを見出して、にわかに立ち上がった。
「そこの御仁……詰め将棋を買うたことはないか?」