第15話 運
「姉上、夕食の支度ができました」
店で仕事をしていたお香は、山積みの本を脇にどけて、座敷へと向かった。
縁側を歩むと、左手の障子が大開きになっていた。右手にはこじんまりとした、猫の額のような庭があり、まさに一匹の三毛猫が、毛繕いをしているのがみえた。
お香が座敷をのぞくと、若衆髷を結った少年が正座していた。
弟の銀太郎であった。
「銀太、待たせたな」
「いいえ」
ふたりは膳を挟んで向かい合い、手を合わせた。
麦飯にみそ汁、だいこんのお新香、それに煮豆の椀がひとつ。
一菜一汁であった。
お香はみそ汁で箸を濡らして、麦飯を少々、口に運ぶ。
弟は、姉の様子がいつもと異なることに気付き、箸を持ったまま尋ねた。
「姉上、いかがなされました? 帳簿が合わなかったのでございますか?」
お香は、なんでもないと答えた。しかし、身内をごまかせるはずもない。母親う大火で失って以来、ただひとりの女手として、育ててきたのであった。お香は、銀太郎のことを息子のように分かっており、銀太郎もまた、お香の振る舞いに敏感であった。
お香は両膝に手をそえ、今日のできごとを語った。
「札を覚えて勝ち筋を……? 姉上、どうも容量を得ません」
「捨てられた札を覚えて、残りの札の組み合わせを考えるのだ」
話せば長くなるということで、お香は詳しい仕組みを省いた。そもそも、お香が悩んでいるのは、そこではなかったからである。
「白部藩の女中に、えらく物覚えのよい女がいてな。札をすべて覚えてもらったのだが、存外に勝てなかった。つまり、勝ち負けの要所は、そこにないのであろう」
お初は、ひと勝負ごとに、すべての札を覚えることができた。それにもかかわらず、必勝というわけにはいかなかったのである。必勝どころか、その抜群の物覚えで勝ち筋を見つけられたのは、指折り数えるほどしかなかった。
「相手に見えない札が分かるのなら、鬼に金棒かと思いますが」
「拙者も、そう思ったのだが……残りの札が、どうも定かにならぬ。相手の手札と山札とのあいだに、いくつかの組み合わせが残ってしまうのだ」
例えば、お香が覚えているのは、次のような勝負であった。
【お初の手札】
【銀姫の手札か山札】
このとき、銀姫の手札はなんであるか。
カス、一揃い、二揃いの、いずれもある。
どれだけ覚えていても、手のうちは分からないのであった。
結果、お初は勝負に出て、銀姫は十三の一揃い。銀姫の勝ちとなった。
「ひょっとして、お凛さんのほうが、物覚えがよろしいのでは?」
「それはない。詰め将棋を紙に書き写すなどしていた。おそらく、拙者と同じくらいであろう。となると、物覚えで勝負しているわけではないと思う。なにか、他の手管で勝っているのではないだろうか」
お香たちの出した結論は、まさにこれであった。
弟はしばし黙考して、それからやおらに、
「お凛さんは、運がとても強い方なのではございませんか?」
と尋ねた。お香は、予想だにしなかった案に、しばし閉口した。
「運の強弱と言っても、限りがあろう」
「戦国の世には、矢の雨に降られても鉄砲の嵐にあっても、傷ひとつ負わない足軽がいたと聞いたことがございます。かと思えば、陣中、弁当を食べているときに、大筒の弾に当たって死んだ武将もいると聞きます。もはや兵法を超えて、運の良し悪しでしか論じえないように思われますが」
「拙者が言っているのは、そのような奇談ではない。よいか。おぬしのあげた話は、一時の運に過ぎぬ。なるほど、神君家康公は、幼少の頃、今川の質に取られていたのであるから、運が悪かったのであろう。他方、元服なさってから、武田信玄、上杉謙信など、名立たる将が先立ったのは、運が良かったのであろう。されども、同じ境遇に置かれたとて、だれもが太平の世を築きえたわけではない。家康公には、名君の才覚と相応の努力があった。運のみで最後まで勝つことは能わぬ」
弟は、姉の説教を聞きつつ、両腕を組んで、
「天下取りの話をしているのではございません。博打の話でございましょう」
と答えた。
「戦の話を始めたのは、銀太、おぬしではないか」
「左様でございますが……姉上は、お凛さんと百番勝負をしたわけでもなく、此度の負けにより、買いかぶっておいでなのではありませんか。お凛さんは、どうも夜郎自大なところがあるように見受けられます。博打で負けたら足を洗うというのも、姉上を気合い負けさせる方便ではありますまいか」
だんだん物言いが曖昧になってきて、お香は嘆息した。
「飯が冷めてしまう。この話は、またにしよう」
お香は、白部藩の勤めに出ていたあいだの出来事を、弟にたずねた。
弟は彼女に似て利発で、朝から夕方までの品出しを、丁寧に告げることができた。
「そう言えば、おひとり、めずらしいお客様がおられました」
「めずらしい、とは?」
「算法書をお探しでした」
算法書と聞いて、お香の箸がふたたび止まった。
「お凛か?」
「いえ、お凛さんのお顔は、存じあげております。男の方でした」
眼鏡をかけた四十路の町人で、裕福そうにもそうでないようにもみえた、というのが、銀太郎の人物評であった。衣服は新調であったけれども、大店のように悠々としたところがない、というのである。
「成金かもしれぬな」
歩が金に成ると書いて、成金。江戸でも使われつつある言葉であった。
「あまり貪婪なところもなかったように思いますが……」
「して、どのような算法書を買ったのだ?」
「それが、聞いたこともないような書名を言われまして、見当たらないとお答えいたしましたら、すこし世間話をして帰られました。そのとき、『この店には、他に算法書を買いに来た女がいないか』とお尋ねになられました」
お香は、ふと背筋に薄ら寒いものを覚えた。
(……博徒か?)
算法書を買いに来たというのはでたらめで、お凛が店に出入りしたことを突き止めたのではないだろうか。お凛の金回りがよいことには、お香も疑いを持っていた。彼女の正体を突き止めてからは、博打で稼いだ金だと決めつけていた。しかし、あの手付金は、賭場の金をくすねたものではあるまいか。
俺は、おまえの身を案じているのだ。詐欺には気をつけろ。
黒田の忠告が、今さらながらに思い出される。
お香の箸が止まっているのを案じたのか、銀太郎は声をかけた。
「姉上は、お心当たりがございますか?」
「……いや、客の詮索をあれこれするのは、よろしくない。ここまでにしよう」
食事を済ませたふたりは、食器を片付けて、布団を敷いた。江戸の夜は早い。道楽者が吉原へ向かう時刻、町民たちはすでに寝床を求めていた。行灯の油代も馬鹿にならぬし、お香も銀太郎もまだ若者であったから、夜更かしをする道理もなかった。
「それでは、お休みなさいませ」
「うむ」
障子が閉まって、隙間から漏れ出る灯りも消えた。
お香も寝間着に着替えて、行灯の火を吹き消し、布団にもぐりこむ。
遠くで、拍子木がひとつ鳴った。
(父上の留守だというのに、たいへんなことになってしまった……)
お香は、自分のおこないを恥じた。お凛の商談に乗ったのは、軽卒ではなかったか。後悔先に立たずとは、まさにこのことであった。寝返りを打つたびに、胸のうちが苦しくなる。だがその一方で、お凛と初めて出会い、将棋や算法について語らい合ったときのことを思えば、自分のおこないが間違いであったと、断じるわけにはいかなかった。
自分たちのあいだには、どこかしら似ているところがある。ひとつは、同世代の女たちから、やや浮いているところであり、もうひとつは、女の身でありながら、男の真似事を好んでいるところであった。お香にとっては剣術、お凛にとっては算法である。将棋という趣味にも通じていた。
とはいえ、違う箇所もまた、容易に見つかるのであった。
(拙者には父上と弟がいる……お凛には、身内がいないのではないか……)
あの年で長屋にひとり住まいというのは、よくよく考えてみれば大層奇妙であった。その奇妙さに思い至らなかったのは、詰め将棋のほうに頭が行っていたのもあるが、お凛の態度が飄々としていて、とても小娘に見えないからでもあった。また、部屋が汚くて、そちらに気を取られたのもあろう。
お香は、ふたたび聞こえた拍子木の音に、天井を見上げた。
「運か……」
自分に母親がいないのは、運が悪いのかもしれぬ。しかし、家族が皆焼け死ななかったのは、運が良いのかもしれぬ。大火で孤児になった者は大勢いたし、そもそも焼け死んだ者こそ運がなかったのかもしれぬ。運否天賦など、だれにも読み取ることはできない。
(博打にだけ運が向く、などということがあるのだろうか?)
お香は、弟の述べた説について、深く考えてみた。古今東西の、僥倖者たちの言い伝えなどを、いろいろと思い出してみる。兄弟が皆死んで、摂政の座を得た藤原道長、信玄の病気で三方ヶ原を乗り切った織田信長、いずれも幸運の為せる業であったが、しかし道長や信長には、もともとそのような才覚があったのだと思われた。
将棋でも、そうだ。指運というものはあるが、指運だけで勝てるわけではない。
「えーい、考えても埒があかぬ」
お香は布団をかぶると、今日は運が悪かったと思い、そのまま寝てしまった。