第12話 金回り
「なに? 博打だと?」
湯のみを口に運びかけていた黒田は、ふとその手をとめた。紋入りの袴姿で、怪訝そうにかたちのよい眉をひそめた。そして、座敷のむかいに座ったお香の顔を、穴があくほど見つめかえした。昼過ぎの、蕎麦屋の座敷であった。
「本気で言っているのか?」
「ひとの話を聞け。博打だとは、だれも言っておらぬ」
「お凛と勝負するのだろう?」
博徒との勝負がすべて博打だとはかぎらない。お香は、そう諭した。
「詭弁だな。賭けているのだろう」
「賭けているのは、お凛の身の振り方だ。金ではない」
「金でなくても、博打は成立するぞ」
「ならば、家元が名人の座を賭けて勝負するのも博打か?」
黒田は一寸、苦虫をかみつぶしたような顔をして、それからひらきなおった。
「あいかわらず口が達者だな」
「これでも本屋をあずかる身だ。口が達者でなければ、商売はできぬ。黒田こそ、口下手なくせに、よく水戸徳川の家臣が勤まるな」
「ひとこと多いぞ……俺は、こっちが専門なのでな」
黒田はそう言って、畳のうえの太刀を軽く持ち上げてみせた。
「で、お凛との勝負を手伝わせるつもりなのか?」
「そうだ」
これには、黒田も落胆したようであった。
「それならば、もっと軽装で来たのだが」
「む、それは、どういう了見だ?」
「なんでもない……決着は将棋か?」
お香は正座をくずさずに、しばらく蕎麦のざるを睨んだ。
「……将棋は申し込まぬ」
これには、黒田もやや意外の様子であった。彼は、わけを尋ねた。
「将棋では、一度きりの勝負になる。負けたら取り返しがつかぬ」
「ほぉ……自信なさげだな」
お香はキッと顔をあげて、
「大事をとっているだけだ」
と答えた。黒田は細かいところには触れず、ただ、
「勝負の中身は? まさか、金を賭けぬだけで、品は博打というわけではあるまい?」
とたずねた。
「そのまさか、だ」
「なに? 正気か?」
「お凛は、博打の腕に、相当な自信があるらしい。ならば、拙者が負けたとしても、二度三度と、勝負を申し込むことができるだろう。将棋では、そうはいかん。一度負ければ、それまでだ。再戦の見込みはない」
「……おまえ、それをだれに入れ知恵された?」
黒田の問いに、お香は自分で考えたことだと答えた。けれども、黒田は信用せず、しつこく尋ね返してきた。お香は、だんだんとじれてきて、
「拙者の思いつきでは、なにか具合が悪いのか?」
と声を荒げた。
「おまえは、そこまで人情に機敏ではないだろう」
「本屋の娘だぞ。人情に機敏でなくて、どうする」
「それなら、おまえから文を受け取ったとき、俺がなにを考えたかあててみろ」
この謎かけに、お香は面食らった。
(一緒に蕎麦を食べたいと、そう書いただけではないか。なにを尋ねているのだ)
お香は十を数えるあいだ思案して、
「蕎麦屋でなにを喰うか考えた」
と、当てずっぽうに答えた。
「ちがう」
「ならば、拙者と指す将棋の戦法だな」
「それもちがう」
「今夜の飯だ」
黒田はかぶりを振って、あきれたように蕎麦湯を飲み干した。この態度に、お香も思うところがあって、「ならば、答えを言ってみよ」と迫った。すると、黒田はバツが悪そうな顔をして、答えなかった。お香は怒って、
「答えを言わぬのなら、とぼけた者勝ちになるであろうが」
と咎めた。黒田は彼女を左手で制した。
「そういきり立つな……で、だれの入れ知恵なのだ?」
「……おひいさまだ」
「ほぉ、白部の姫様だったか。歳のわりに、ませているのだな」
「だれにも言うでないぞ」
黒田は承知して、いよいよ、お凛攻略の算段に入ることとなった。
「敵のふところに飛び込むわけにはいかぬ。こちらから、お凛を呼び出す」
「場所は?」
「宗順様が、弟子筋の家を紹介してくれた。麹町にある」
「江城のすぐそばではないか。剣呑だな」
「怖じけづいたか?」
「いや、続けろ」
日時は、明日の辰の刻――黒田は、朝早いことを訝しんだ。
「夜ではかえって怪しまれる。昼間のうちに片をつけたい」
「博打の中身は?」
お凛に任せると、お香は答えた。これには、黒田が難色を示した。
「こちらが決めたのでは、お凛に再戦しない口実を与えてしまう」
「なるほど……すべてお凛に任せるというわけか。上策だ」
「紋入りの袴は着てくるな。拙者も衣装を変える」
ふたりは、卯の刻に神田で落ち合うことを約して、蕎麦屋をあとにした。
翌朝、八木堂をおとずれた黒田は、のれんをくぐるなり、その目を見張った。
「香之進……なんだ、その格好は?」
黒田の絶句も、無理からぬことであった。お香は、普段うしろで結んでいる馬の尾のような髪を下ろし、島田髷を結っていた。着物も、白地に紫の菖蒲柄で、帯は鮮やかな緋色に輝いていた。
「どうした? なにをじろじろ見ている?」
黒田はハッとなって、決まりが悪そうに咳払いをした。
「いつもと様子が違うな」
「別式女の姿で麹町を歩いては、さすがに目立つ」
「その格好も目立つと思うが……」
「近所の娘に合わせたものだ。傾いてはおらぬ」
いや、これほどの美女が歩いては、男どもが振り返ってかなわんだろうと、黒田は内心で思った。が、口には出さなかった。むしろ、役得だとさえ感じたし、同時に、もう少し粋な着物にすればよかったと後悔もした。黒田は、知り合いから借りた藍染めの着物を、慣れぬ格好で身につけているだけであった。
お香はそのようなことなど露知らず、さっさと店を出て麹町への道を選んだ。
「お凛は、来るのか?」
「分からん。書状で呼び出したが、返事はなかった」
「となると、無駄足かもしれないな」
まあ、そのときはそのときだと、お香は答えた。道中、ふたりは最近指した将棋や、剣術の話などに華を咲かせつつ、江城の堀を西回りに歩いた。そして、立派な庭を持つ一件の空家のまえで立ち止まった。売り家と書かれているが、お香はかまわず、玄関で声をかけた。すると、栗色の渋い着物を着た四十路頃の男が、にこにこ顔で現れた。
「香之進さん、おはようございます。ずいぶんと、めかしこんでおられますな」
「枕山殿、本日はよろしくお願い申し上げる」
「支度はととのっております。どうぞ、奥へ」
枕山と呼ばれた男は、ふたりを客間へ案内した。鶴の絵の掛け軸が、床の間にかけられているだけで、これまたこざっぱりとしたものであった。人は住んでいないのだろうと、黒田はそう推察した。枕山が茶を持ってきたところで、彼は礼を述べつつ、この家の素姓を尋ねた。枕山は正座しながら笑って、
「ここは、もともと偉い儒者のかたがお住まいだったのですが、妻子もないまま亡くなられてしまいまして、売り家になっているのでございます。ただ、人が使わぬと痛んでしまうゆえ、こうして学者仲間で持ち回りに手入れをしております」
「貴殿は、儒者なのですか」
「いえいえ、どちらかと申せば、国学を志しております」
お香は本屋の娘であるから、書物に詳しいのは当然のことであったが、黒田も水戸徳川の家臣とあって、学問には明るかった。今や、この三人は意気投合し、いにしえの聖人の言葉などに思いを馳せつつ、歓談にふけった。
黒田は、茶で喉を潤しながら、
「『論語』に、『奢るときは則ち不遜なり、倹なるときは則ち固し。その不遜ならむよりは、むしろ固しからむ』とあります。贅沢な暮らしをしていると傲慢になり、ケチな暮らしをしていると卑しくなるが、傲慢であるよりは卑しいほうがよい、という意かと思います。しかしながら、傲慢と卑賤とのあいだに、そのような差があるのでしょうか」
と尋ねた。枕山は、感心した様子で、
「その段の解釈は、いろいろと分かれております。わたくしが思うに、『顔氏家訓』の講釈が、正鵠を射ているように思います。すなわち、困窮した者に対する礼の精神を述べているものでありましょうな。施しをするにしても、やったからと言って奢ってはならず、また、やるまいとしてケチになってもいけません。しかし、やって奢るよりは、やらずにケチであるほうがよい、という意なのです」
と講釈した。黒田は目を細めて、
「逆ではありませんか? たとえ奢っていようとも、施しをした者のほうが、しなかった者よりも、徳において勝っていると思いますが」
と反論した。
「なるほど、一見するとそうなのですが、孔子の偉いところは、人間の心魂に深く通じていらっしゃったことです。例えば、武士が金に困っているとき、奢りたかぶった金持ちから、金を受け取れますかな? 末代まで、なんやかやと恩着せがましく言われるくらいならば、いっそう貧乏暮らしのほうが良いと思いませんか?」
「ふむ……そう言われると、そのような気も……」
黒田が納得しかけたところで、お香が割り込んだ。
「拙者は解せませぬな。金は天下の回りもの。手から手へ移してこそ、経世済民の役に立つ代物です。もらえるものはもらっておき、相手には、とやかく言わせておけばよいのではありませぬか」
黒田は嘆息して、
「そういうことを言えるのは、おまえが女だからだ」
とつぶやいた。お香は血相を変えた。
「なに? 拙者が女だから、どうしたのだ? 理に男女の別はないぞ?」
「女は台所をあずかるから、財布が第一なのは分かる。しかし、男には体面がある」
「体面で飯は喰えぬ」
「孟子曰く、『王は何を以て吾が國を利せんと曰い、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰い、士庶人は何を以て吾が身を利せんと曰い、上下交々利を征れば、國危うし』。利ばかりを求めると人心は荒廃し、国が傾くという意味だ。おまえも知っているだろう」
「しかし、老中の田沼殿は、貨幣を鋳造し、商いを奨励しているではないか。これは商売というものが卑しくない証左であるし、商人が儲かれば、そこから税を取る幕府も儲かるのであるから、一石二鳥だ。それとも黒田は、田沼殿の政に反対なのか?」
「待て待て、話題が危うくなってきたから、俺はもう黙るぞ」
それは負けを認める意なのかと、お香が尋ねかけたとき、縁側で声が聞こえた。
「いつまでぺちゃくちゃ喋ってるんだい?」
振り返ると、煙管を持ったお凛が、縁側の沓脱ぎ石に腰掛けていた。茄子紺の着物に藤紫の羽織をまとい、いかにも小粋な感じの出で立ちをしていた。
「玄関で声をかけても出て来ないから、勝手に入らせてもらったよ」
「これはこれは、失礼いたしました」
枕山は席を立ち、お凛を座敷にあげた。
だれが上客かも分からぬ面子であったが、お凛は勝手に床の間を背にした。
お凛は、付き添いの黒田をしげしげと眺めてから、
「あら、ずいぶんといい男だね。あんたのコレかい?」
と言って、小指を立ててみせた。
「違う。立会人だ」
お香はそう言い切ったあと、勝負の中身について問答を始めた。
「拙者の書状は読んだか?」
「読んだよ」
「ならば、話は早い。そこに書かれていた通りの順で進めたい」
ひとつ、勝負の内容はお凛が決めること。ひとつ、お香が勝った場合、お凛は博打から足を洗うこと。ひとつ、金銭のやりとりは一切しないこと。他にも細則はあったが、おおまかに言って、このみっつが決め事であった。
「ほんとにあたいが決めてもいいんだね?」
「うむ、好きな勝負を選べ」
まさか将棋とは言うまい――お香は、若干そのことを心配していた。黒田の手前、互角のような素振りを見せていたが、はっきりと勝てる自信はなかったのである。
お凛は、気をもたせるように煙管をくわえたあと、フッと微笑んだ。
「それなら、ひとつ、変わった勝負をしようじゃないかい」
※江城
江戸城のこと。
※田沼殿の政
天明元年(1781年)から始まった田沼意次の重商主義政策のこと。新しく貨幣を鋳造し、鎖国を緩め、商業活動を活性化されることを目指した。天明の大飢饉など、政情不安が発生したため、最終的に失脚。農業を中心とする時代にあって、近代経済学を先取りしたような人物であった。一方で、農村は疲弊し、賭博や犯罪が増加するなど、徳川幕府は混乱期に突入した。