第11話 家元の知恵
「ハハハ、それでわしに相談したというわけか」
剃髪に僧衣という出で立ちの若い男が、将棋盤を挟んで笑った。その豪放磊落な笑い方と同じように、顔つきは勇ましく、いかにも意志の強そうな太い眉が、ななめにせり上がるような格好で、逆ハの字を描いていた。
彼こそが、将棋三大家元のひとつ、大橋分家の宗英であった。鬼宗英とも呼ばれるほどの終盤力、それでいて綿密な理論家でもあった彼を、お香はずいぶんと尊敬していた。
「笑いごとでは、ございませぬ」
「ハハハ……失敬、失敬。それにしても、博打打ちの少女とは、おもしろい」
おもしろいとは何事かと、お香は思った。けれども、宗英の口調には、それほど茶化したところもなかったので、お香はその真意を尋ねた。
「久留島喜内殿の名前は、かねがね伺っておった。破天荒な御仁であったらしいが、その弟子筋も破天荒とは、いかにも流派の血というものだ」
宗英はそう言いながら、サッと一手指した。
【先手:八木香之進 後手:大橋宗英 角落ち】
(そう来たか……)
お香は、袖に両腕を突っ込み、沈思黙考した。
「どちらについて考えている? 将棋か? その少女についてか?」
「……双方にございます」
いかんいかんと、宗英はお香をたしなめた。
「武芸諸般においてそうであるが、いずこかに集中せねばならぬ。その少女について思うところがあるならば、ひとつ聞かせてみよ。このまま絶縁、というわけにはいかぬから、悩むことになるのであろうが。違うか?」
宗英の言葉は、お香のもやもやした心の具合を、正確に言い当てていた。お香は両腕を袖から引き抜いて、背筋をあらため、宗英の顔をまっすぐと見据えた。宗英もまた、彼女のまなざしをまっすぐと受け止め返した。
「できましたら、お凛に足を洗わせたく存じます」
「ふむ……博打から足を洗わせる、と……なかなか難しいことを申す」
宗英は、博打癖の治りがたいことを告げた。
「貴賤を問わず、博打を打つ者は、あとを絶たぬ。博打にうつつを抜かすやいなや、その魔力に引き寄せられ、やめることあたわぬからだ。なるほど、公許の富くじを見ても、そうであろう。江戸の三大富くじと言えば、感応寺、龍泉寺、湯島天神と決まっているが、このほかにもおよそ三十は富くじを売る寺社がある。ひとびとがこれほどまでに熱中するのも、博打の魔力の現れであろう」
お香は、富くじというものを買ったことがなかった。なぜ当たりもしないのに、せっせと買う者がいるのか、解せないでいた。もちろん、富くじの収入は、寺社の修繕に使われる。したがって、名目は寺社復興であり、正当であるが、近年は金が横流しされているのではないか、という噂が広まっていた。
「しかし、治らぬと諦めたのでは、話が進みませぬ」
それはその通りだ、と宗英はうなずいた。
「ひとつ望みがあるとすれば、そのお凛という少女は、賭けるがわではなく、胴元に雇われているのであろう。つまりは、胴ということだ。胴は、必ずしも博打を好んでいるわけではなく、おのれの技量を頼りにした風来人。独り身で野心の強い女とあれば、そのようなところに出入りしてしまうのも、若気の至りではあるまいかな」
お香には、若気の至りというものが、よく分からなかった。幼い頃に江戸の大火で母を失った彼女は、一家の女手として、また、別式女として、周囲の少女たちよりも、大人びた存在になってしまっていたからである。もっとも、そのような差異が、まだ二十歳にもならぬ彼女に、分かるはずもなかった。
「若気の至りなどと、笑って済ませられるものではございませぬ」
「お香、おぬしは堅過ぎる……いや、一途と言ったほうが、よいか」
法度の尊重を、一途云々で言い表せるものかと、お香はいぶかった。
「とはいえ、わしも将棋一筋で、ほかのことはからっきしであるからな。ここは、父上に相談してみてはどうか」
「宗順様に、でございますか?」
宗英は首を縦に振った。お香は、即断しかねた。というのも、宗英とは異なり、宗順のほうとは、どうも気が合わないからであった。将棋が強いのは認めざるをえないのだが、女遊びが激しく、宗英も愛人の子であり、はじめは里子に出されていた。
(しかし、そのような遊び人だからこそ、博打の機敏も分かるというものか)
お香は自分を納得させて、宗順へのお目通りを願った。
宗順は、すぐに現れた。宗英とおなじく、剃髪の僧体であったが、着ているものは宗英が半袈裟なのに比べて、気取った縞入りの着物であった。丸みがあって、愛嬌のある顔をしている。よく笑うからか、額の皺は深かった。無論、歳もあるであろう。すでに五十近いはずであった。
宗順は、茶でも飲んでいたらしく、いかにも上機嫌であった。
「これはこれは、お香さん、いかがなさった?」
「実は……」
お香は、これまでの出来事を、手短に伝えた。
すると、宗順はひざを叩いて、
「おもしろい女子だな」
と笑った。宗英とおなじような成り行きで、お香はタメ息をついた。
「おやおや、そんなに心配か?」
「女が賭場の胴などやって、ろくなことになりますまい」
「然り……とはいえ、近時は女も子供も、賭博三昧ではないか」
宗順が言っていることは、事実であった。道を歩いていると、あちらこちらに、うさんくさい露店がみえる。はじめは、なんの店であるか分からなかったものの、白部藩の女中などに尋ねてみれば、なんのことはない、賭け事屋であった。飴売りなどを装って、堂々と賭場を開帳しているのである。
「将軍様のお膝元で博打が横行しているのは、見るに耐えません」
「そうは言うがね、お香さん、ひとつ考えてごらんなさい。博打、博打とひとことで言っても、さまざまなものがある。そのなかで御法度扱いになっている遊びは、それほど多くはないのだよ。例えば、サイコロ博打は、古くから禁止されている。確かなことは知らんが、綱吉公の時代には、御法度になっていたように思う。けれども、サイコロが禁止されたときは、サイコロ以外の道具を使えばよいわけだ。カルタが禁止されたならば、カルタ以外の道具を使えばよい。あれが駄目ならこれ、これが駄目ならあれと、民草は、勝手気ままに次の博打を考えてしまう。まさにイタチごっこではないか」
「ごもっとも。一時期は、俳諧の添削と称した博打があったそうですからな」
お香が言っているのは、次のような遊びである。まず、胴元が、俳句の一部、例えば最初の五文字だけを詠む。応募者は、俳句の残りの部分を考えて、これを応募する。応募するときに、応募料を払う。優秀な付け句をした者には、景品が出る。この景品と応募料の差が、胴元の収入になる。運任せの富くじとは異なり、実力も多少は反映されるが、儲かる仕組みは富くじとおなじであった。
「というわけで、お香さん、そうそう目くじらを立てることでもないと思うが」
お香はこれに強く難をみせて、
「なりません。周りがやっているからやってもよい、という道理はござらん」
と吠えた。宗順も、お香の性格はよく分かっているから、剃髪を撫であげて、
「まあ、お香さんのおっしゃることにも一理ある。そのお凛という少女、博打打ちにしておくには、もったいない才の持ち主のようだ。昔、魏の曹操は、張燕という人物を平北将軍に就けたが、彼は山賊であった。これもひとえに、曹操が才を重んじたからである。山賊においてそうであるならば、いわんや博徒においてや、咎める者もおるまい」
「して、宗順殿、なにかよいお知恵は?」
宗順はしばし考えたのち、こう切り出した。
「博打打ちには、博打で勝つしかないであろう」
お香は、眉をひそめた。
「冗談をおっしゃっている場合ではございません」
宗順は、軽快に笑った。
「いやいや、冗談ではない。お凛さんに会ったことはないが、お話を聞くかぎり、一本気のようであるな。だとすれば、『博打に負けたら足を洗え』と約束させ、これを負かすだけで足りるように思う。いかがか?」
「いかがか、と申されましても……」
お香は、はたと困ってしまった。なるほど、言われるまでは気付かなかったが、お凛は口約束を破る質にみえない。となれば、宗順の発案にも、妙な説得力があった。
しかし、お香が決心をつけるには、もう一山越えねばならなかった。
「お言葉ですが……それは、相手の土俵で戦うことになりはしませぬか?」
「ほほぉ、どのような意味でかな? ふた通りあるように思われるが?」
博打という、お凛の得意な芸で戦うこと。これが、ひとつ。もうひとつは、博打を止めさせるために博打を打つという、自家撞着した振る舞いのことであった。お香もこれは承知していたので、「どちらも気にかかります」と答えた。
「そこは、お香殿がとくとお考えになられよ。本来、女のいざこざに、男が口を出すものではない。知恵は出すが、口は出さぬ」
お香は黙して、じっと将棋盤をみつめた。
「なあに、急ぐ必要はない……そうそう、口は出さぬが、茶は出すぞ。どうぞ一杯」