第10話 相談事
蔵を飛び出したお香は、白部藩の江戸屋敷へと、その足を向けた。今日は午後から、お勤めが入っていたからである。内神田の方角を目指して、黙然と歩く。晴天の霹靂――お凛の博打癖におどろいたお香であったが、今は、異なることに思いを馳せていた。それは、彼女の性についてであった。
お香は、女である。そのことについて、疑いの余地はない。体の作りがそうなっているのだから、拒むことはできない。残念に思いはしなかったけれども、不自由に感じたことは、一度ならずあった。それは、どのように言い表せばよいのかも分からぬ、けったいな思いであった。
(なにが婿養子だ。武家の養子など、生活が苦しいに決まっている)
お香は、通りすがりの侍を幾人か、横目に追った。太平の世になってからと言うもの、いかなる職にありつけるかは、旧来のツテで決まってしまう。武功で出世を狙うということができないのであるから、なんとも窮屈な人生であった。金のない者はますます貧しくなり、内職で糊口をしのぐ浪人も少なくない。そこで、身分の欲しい商人と、金の欲しい武士とのあいだに、妥協が生まれるわけである。
(武士は食わねど高楊枝、とは、さすがにいかぬからな)
お香がそんなことを思いついたとき、ちょうど白部の屋敷がみえた。漆喰の壁ぞいに歩いて、表の門番にあいさつをする。頭をさげた門番の横を通り過ぎれば、すぐにも玄関が見えた。大大名とは異なって、白部は外様の小藩であった。
「八木香之進、ただいま出仕つかまつった」
土間で声をかけてみたものの、しばらく返事はなかった。勝手にあがってもよいことにはなっているので、お香はその場で草履を脱ぐ。すると、奥から足音が聞こえた。
「失礼致しました」
現れたのは、下っ端女中の着物に、たすき掛けをした、色白の女であった。
年は、お香と同じほどにみえた。
「お初、急かぬでもよいぞ。おひいさまは、いかに?」
お香は、主人である白部銀、通称、銀姫さまのことを尋ねた。
「それが、どちらへ行かれたのやら、お姿が見えませんで……」
お香は、タメ息をついた。彼女の仕事は、剣術指南である。指南と言っても、白部の家臣に対するものではない。銀姫の日頃の鍛錬として、特別に呼ばれているのであった。女に教えるため、女を雇い入れる。これもまた、お香の悩みと、妙に絡んでいた。
お香は、玄関のあがり口に腰掛けたまま、しばらく虚空を見つめた。
「香之進様、いかがなさいましたか?」
「なあに……少々、思うところがあってな」
お香は、内心を語ったものかどうか、迷った。その迷いのひとつには、話題が御法度に及んでいるという、そのような懸念があった。もうひとつは、年端もいかない少女に騙されていたという、羞恥もあった。そう、お香は、騙されたと感じていた。
けれども、お初は口が堅い。否、堅いというよりも、噂話に興味のないたちであった。それゆえお香も、胸のつかえを取るため、話をしておきたいと思った。
「ここでは、都合が悪い。奥の間へ」
お香は、将棋の家元、宗英を案内する客間へと、場を移した。
畳の香りが鼻をくすぐり、それもじきに止んだ。
「お茶を持って参ります」
「いや、それには及ばぬ」
お香は、なるべく人目につきたくなかった。
「して、香之進様、本日は、いかがなさいましたか? お顔の色が優れませんが?」
「うむ……実はな……」
お香は、さきほどのやりとりを、細部へ立ち入らずに伝えた。
お凛の名は、出さないでおいた。
「はあ……博打、でございますか」
「昨今、江戸をはじめとして、醜聞沙汰が目にあまる。御上も、博打のとりしまりには、難儀しておるからな。女子とて、容赦はしてくれまい」
「法度がどのようなものか、つまびらかには存じませぬが、厳しいのでございますか?」
お香は、厳しいと答えた。
「近時は、名主でも許されぬようだ」
と、気合いを込めて説いたにもかかわらず、お初の返事は、かんばしくなかった。
「はあ……左様でございますか……」
「なにか、妙案はないか?」
「妙案と申しましても……香之進様は、なにがお目当てなのでございますか?」
お香は、肝心なところを訊かれて、はたと困ってしまった。
両腕を袖口にさし込み、しばしのあいだ思案した。
「その女子が、博打から足を洗ってくれぬか、と思ってな」
「金がなくなれば、おのずと止めるのではございませぬか?」
この答えには、お香もあきれた。すかんぴんになれと言っているのである。
「それでは、間に合わぬ。よいか、博打というものはな……」
「なに、博打の話とな」
ふすまの向こうから声が聞こえて、お香はぎくりとした。
が、聞き覚えのあることに気付いて、ふすまをサッと左右にひらいた。
「おひいさまッ!」
吹輪に結った年下の少女が、顔をのぞかせた。松葉をあしらった赤い着物に、金色のかんざしを挿していた。気の強そうな眉毛を、ニヤリと曲げている。無作法な振る舞いであるが、彼女こそ、白部藩主の長女、銀姫であった。歳は、数えで十五になる。
銀姫は、着物のすそをズズッと引きずりながら、客間にあがりこんだ。
お香は席を空け、お初がそこに座布団を置く。
ふすまを閉め直すと同時に、銀姫はコホンと咳払いをした。
「おぬしたち、昼間から博打の話とは、物騒よのぉ」
「博打の話をしていただけで、博打をしていたわけではありませぬ」
お香は、お初に伝えた話を、銀姫にも繰り返した。銀姫は、これを笑い飛ばした。
「女子が博打をするというのも、この頃はよくあることじゃ。一々気にしておっては、別式女は勤まらぬぞ」
これまた拍子抜けな応じ方で、お香は、ほぞを噛んだ。とはいえ、肝要なところを、すなわち、お凛は賭けられるがわだということを、ふたりには教えていなかった。このことが、やりとりを能天気なものに変えているようであった。
埒があかぬということで、お香は、もうすこし深く話を伝えた。
「賭場に出入りしておるじゃと……? 信じられぬ」
「なぜでございますか?」
「賭場は、侠客が仕切っておる。それとも、遊女かえ?」
「いえ……遊女ではございません」
銀姫は、なにをしている女かと、お凛の生業をたずねた。
これには、どう答えたものか、お香も迷った。
「算術などで、生計を立てているようです」
「算術? ……店の勘定か?」
「まあ、そのようなことです」
曖昧な物言いのよこで、お初がポンと手をたたいた。
「つまり、賭場の勘定係というわけでございますか」
お香が訂正するよりもはやく、銀姫は嘆息した。
「なんじゃなんじゃ、大した話では、ないではないか。さすがに奉行所も、賭場で働いていたというだけでは、お縄はかけんじゃろう。女子なら、なおさらじゃ」
話が明後日のほうへ飛んでしまい、お香は難儀した。それとともに、誤解を改めるまでもないと感じた。銀姫は、いかにも知ったかぶりな様子をしているが、大名の娘である。賭場の事情になど、通じているわけがない。お初も、のらくらな性格であるから、世事にはとんと疎かった。
お香は、ふたたび咳払いをして、背筋を伸ばした。
「それでは、鍛錬と参りましょう」
このひとことに、銀姫は顔をしかめた。
「ま、待たぬか……今日は、休みということに……」
「わざわざおいでいただき、探す手間が省けました……お初、支度を」
「相談を受けてやったのに、この仕打ちはないじゃろうッ!」
お香とお初は、銀姫の右肩と左肩をそれぞれ持って、客間を出た。
パシリとふすまが閉まり、あたりは、それっきりになった。