第8話 サイコロ
お香は、店から店へ、辻から辻へ、こっそりとお凛のあとを追う。まず安心したのは、お凛が日本堤の方角へは向かっていないことであった。道のりは、天王寺を指している。まっすぐに天王寺というわけではなく、だんだんと北のほうへ逸れて行った。
お凛の足取りは、通い慣れた道だと物語っていた。途中で左右を見回したり、道を尋ねたりすることもない。まちがいなく職場であろうと、お香は推測した。買い物にしては、やや辺鄙な場所であった。そして、お凛はついに、狭い裏道へと姿を消した。あの先に、なにか私塾でもあるのだろうと、お香は早足になって、のぞき込んだ。
「……なに?」
そこは、なにやら薄暗い、蔵の立ち並んだ一角であった。
お凛の足取りは、そこでふつりと途絶えていた。
(消えた……蔵に入ったのか?)
物の怪でもなければ、そうとしか考えられなかった。
これ以上、追ったものか。お香は悩んだ。
「お武家様、どうかなさいましたか」
お香が振り返ると、いかにも柄の悪そうな、体躯のよい男が立っていた。睨みこそ利かせていないものの、黒い帯に手をかけ、用心しているようである。服装は縞模様の古着に草履という出で立ちで、およそ裕福そうにはみえない。
「お武家様、どうかなさいましたか。道にお迷いで」
「いや……」
お香はしばらく思案して、お凛の容姿を伝えた。そういう娘がこのあたりを通りかからなかったかと、そう尋ねたのである。すると男は、ますます腰を据え、今や相対峙するような気配のなか、こう返してきた。
「そのお嬢様に、なにか御用で」
「用というほどではないのだが……む」
お香は袖口から手を引き抜き、抜刀しやすいように腰まで下ろした。男のほうもこれに気づいたか、帯から手をはなし、宙ぶらりんの構えをとる。その位置からして、ふところに得物があることを、お香は察した。
「おぬし、『お嬢様』と言ったな……知り合いか?」
「お武家様、あっしはちょいと口が下手なだけでさ」
いかにしたものか、お香は迷った。この男とお凛とのあいだに面識があるのは、もはや疑いようのないことである。けれども、男の柄が悪いからと言って、無闇に恫喝するわけにもいかない。丁寧に聞き出そうかと思い、お香はわざと警戒をゆるめた。
「拙者は、お凛の友人だ。このあたりで見かけたゆえ、声をかけたに過ぎぬ」
「ご友人……」
男はぼそりとつぶやき、こう返した。
「このあたりは、とある大店の持ち物です。あっしは見張りをしているだけで、あれこれ案内するわけにもまいりません。もうしわけありませんが、お引き取りください」
急に丁重な扱いを受けて、お香は鼻白んだ。
「左様であったか……失礼した」
お香は背をむけて、大通りへともどった。そのあいだ、ずっと男の視線を受けていることに、彼女は気づいていた。お香は、諦めて角を曲がったようにみせてから、すぐとなりの路地に忍び込み、もういちど、さきほどの辻をのぞきこんだ。男は彼女を追っ払ったことに満足したのか、すでに姿を消していた。
お香は、背後に回られていないかも確かめて、蔵の角に近づいた。樽や木箱の隙間を、縫うように歩く。子供の頃に近所の悪童どもと遊び回った思い出が、胸中を去来した。
蔵に最も近い樽の裏に隠れたとき、ふと背後から、聞き慣れた声が聞こえた。もういちど耳を澄ますと、たしかにお凛の声であった。なにやら叫んでいるようであるが、木壁越しに聞こえてくるもので、判然としない。すわ、悲鳴かと思い、お香は飛び出した。入り口を探し出し、それを右手で叩いた。
「頼もう、頼もう」
シンと、あたりは静まり返った。お香は戸に耳をつけ、中の様子をさぐる。バタバタという足音が、奥のほうへいくつも消えて行った。人さらいではないかと思い、お香は戸を破るため、一歩退く。体当たりした矢先、戸がひらいた。
「なッ!?」
お香は素っ頓狂な声をあげて、敷居の向こうに突っ込んだ。柔らかな感触とぶつかり、お香は前のめりに転倒する。慌てて起き上がってみれば、土間にお凛が倒れていた。お香は、てんやわんやになりながら、彼女の手を引いて起こしてやった。
「いたた……あんた、なにやってるんだい……」
「す、すまぬ、おぬしの身に、なにかあったのかと思い……」
お香は、平謝りに謝った。お凛は着物の土を払い、煙管を拾い上げ、吸い口を手拭でふきながら、くちびるを動かす。
「なんでここにいるんだい」
「近くを通りかかってな。おぬしの背をみかけたので、声を掛けようと思った」
「ずいぶんと、大仰な声の掛け方だね。『頼もう』だなんて。道場破りみたいだ」
お香は袖口に両腕を突っ込み、赤面した。
「いや、あれは……うむ、すまぬ……中から、おぬしの声が聞こえたゆえ」
聞き間違いだったのだろうか。お香は、お凛の怒鳴るような声を聞いた気がした。けれども、なにを叫んでいたのかなど、尋ねられるはずもない。お香はもういちど謝って、室内をつぶさに観察した。そこは、何の変哲もない物置小屋で、大小の箱が、あまり整然とは言えない格好で並んでいた。木張りの床には、あちこちに土埃がみえた。
(土足であがるのか……けったいだな)
商品が汚れるではないかと、お香は思った。
煙管を拭き終えたお凛は、ため息混じりにお香をみつめた。
「ここは人様の小屋だから、そろそろ出てくんな」
「おぬしは、なぜここにいる? 荷物番か?」
「そうだよ。あたいは忙しいんだ」
お凛の答えは、素早かった。その素早さが、かえってお香を不審がらせた。
(女が荷物番で三両を稼いだのか? ……ありえんだろう)
「ほんとうに、ここで働いているのか?」
「そう」
「給金は、いくらだ? もしや、三両は返さねばならんのではないか?」
お香の追求に、お凛はチッと舌打ちをした。
「あんたもしつこいね。おとなしく収めておきなよ」
「そうは、いかぬ。客の家計を傾けないように手立てするのも、商人の役目だ。三両がすぐに払えぬなら、割賦でもよい」
「分かったから、その話は次に回そうよ。さあさあ、出てった」
お凛は、ふたたびため息をついて、お香を追い出そうとした。
彼女がお香の背中を押したとき、からりと何かが袖口から落ちた。
お香はそれを見咎めて、目をほそめた。
「さいころ……?」
お凛が血相を変えて拾い上げるまえに、お香は彼女の腕を掴んだ。
「な、なにするんだい」
「そうか……分かったぞ!」
お香は小屋に乗り込むと、お凛が止めるのも聞かずに、奥の戸をあけた。すると、八畳ほどの広間があらわれる。中央には、白い布でこしらえた盆ゴザがしつらえてあった。そのうえには、さきほどまで賭けられていたであろう木札が、乱雑に散らかっていた。
お香はふりかえって、お凛を睨みつけた。
「おぬし……博打で稼いだな!」
お凛は煙管を手にしたまま、しばらく気まずそうな顔をしていた。
けれども、いつもの気取った表情にもどって、煙管を小粋にくわえる。
「だったら、どうだって言うんだい?」
「江戸市中、博打は御法度であろうが」
「でも、みんなやってるだろう」
お凛の言っていることは、事実であった。幕府や諸藩がいくら法度を出そうとも、博打はいっこうに減る気配がない。それどころか、世の景気が悪くなるにつれて、増える一方であった。富くじとおなじで、射幸っ気が出るのである。
「罪は罪だ。となりがやっているから我もやってよい、ということにはならぬ」
お香は、あの三両を返すと告げた。すると、これにはお凛が顔をしかめて、
「あの金が穢れているとでも言うのかい?」
「そのとおりだ。博打で得た金は受け取れぬ」
「金は天下の回りもの。どうやって手に入れたかなんて、気にすることじゃないだろう。それともなにかい、あの三両を賽銭箱に放り込んで取り出せば、浄銭にでもなるのかい」
お香とお凛は、今や友の顔をやめ、真剣に対峙していた。