膝下3センチメートル
いかにエロを犯罪臭なく描くか。
「お待たせしました。担当の桜木です」
実家から車で15分。職場にはいつも7時に着くようにしている。まずは1日のスケジュールを確認して、店内の掃除をする。そのうち先輩や店長が来て、ミーティングが始まる。
俺がカットでお客様を担当するようになって3年が経つ。まだまだ立場はしたっぱだけどこの仕事にもだいぶ慣れてきた。
「髪全体が重たいかんじがするんですよぉ」
「そうですね、だいぶ髪の量も増えてきましたね。今日は軽くしましょうか」
「あと毛先もちょっと切ってください」
「わかりました。うーん、3センチくらい切りましょうか」
「お願いしまぁす」
お客様の髪質を見て、希望を聞いて。すごく神経の遣う仕事だ。専門学校を卒業して、運良く地元の美容室に内定が取れた。最初の2年ほどはアシスタントで毎日のように先輩から怒られていた。
怒鳴られて、ねちねち嫌味をいわれて。くたくたになって家に着く。食事もまともにとらずに眠って、また仕事に向かう。
「桜木さんってオシャレ!」
「そうですか? ありがとうございます。いつも安売りセールを狙って買ってるんですよ」
「ええ! そうなんですか? アタシもバーゲン狙ってますよ」
「ちょっと季節が外れたころが狙い目です」
「わかるー!」
お客様からクレームをいただくこともあって精神的にも肉体的にも苦痛を感じる日々だった。
――それでも、今までこの仕事を続けてこられたのは、
「わあっ、めっちゃ好み! ありがとうございます桜木さん!」
この言葉が聞きたいからなのかもしれない。
***
「桜木さんって彼女いるんですか?」
「……俺ですか?」
そんな美容師6年目へと突入した矢先、いつもカットの担当をしているお客様――吉田さんにふと聞かれた。
「いや、もうずっと桜木さんに担当してもらってるけど指輪してる姿見たことないなって」
「指輪ですか。よく見てますね」
ピンで止めていた髪をほどき、櫛で丁寧にとかす。吉田さんは黒髪のストレート。だけど、実は右サイドの髪質はちょっと違う。クセがあるのだ。
だからここのカットにはいつも以上に気を遣う。うまくクセを見分けて慎重に刃を入れる。
「吉田さんはどうなんですか?」
カットをしながら話をする。これもまた美容師には必要とされる技術だろう。お客様のニーズに合わせてサービスを提供する。俺の勤める美容室は幅広い世代の人が利用しているから、より広い知識が必要だ。
「ああ! そうだ、聞いてくださいよ!」
「また何かありました?」
「あいつ私の誕生日忘れてたんですよ! もう四年も付き合ってるのに」
「あら、それはお気の毒で」
中でも、吉田さんとの会話は付き合いが長いためか自然と口調が緩む。もう6年目とは言え、やはり初めてのお客様相手では今でも緊張はするのだ。
「――あ」
ブローに取りかかったその時、『彼女』が通った。
「桜木さん?」
「あ、すみません。今回はこんなかんじに仕上がりましたが如何でしょうか?」
「うん! 素敵!」
「ありがとうございます」
……付き合っている人はいないが、気になる人は実はいる。正確に言えば、気になる『足』かもしれない。
***
毎日この店の前を通り過ぎて行く、『彼女』。朝方はまだ店の準備中だからガラス窓の半分を日除けカーテン(サッシ)で閉めている。下から60センチほどのガラス越しに彼女の足が見えるのだ。
「彼女、もう大学生かな」
昔のことを思い出した。
初めて彼女の『足』に気がついたのは俺が見習いの時。アシスタントとして毎日が怒涛のように過ぎていった。休息もろくに取れず、ストレスばかりが溜まっていく。社会に投げ出されて誰にも理解してもらえない、そんな孤独感を心の内に抱えていた。
……もう、辞めてしまおうか。
ふと、朝方一人で店の掃除をしている時に弱音が溢れた。言葉にすると内に溜まっていた感情がぼろぼろと溢れてくる。自分の技術が認めてもらえない悔しさと、同期との比較からくる焦りや不安。
くすぶる思いからやがて生まれるのは漠然とした、諦め。
――そんな瞬間だった。
しゃがんで塵取りでゴミを集めていると、視界に『足』が映った。
茶色いローファーに紺のハイソックス、そして絆創膏が幾つも貼られた膝小僧。
高校生なのは明らかで、でもその膝に貼られた絆創膏の数がなんとも痛々しくて。それでも周りを歩く社会人たちに負けないくらいしゃきしゃき歩いていて。
「……あはははは!」
――ただそれだけ。たったこれだけのこと。
ただ目の前を高校生が歩いただけで、俺の悩みは吹き飛んだ。なんて俺は馬鹿なんだろう。悲劇のヒロイン気取りの自分が途端に恥ずかしくなった。
「なんだ桜木早いな」
「あ、おはようございます!」
「おう。今日も頑張るぞ」
「はい!」
高校生だって変わらないじゃないか。傷だらけになったってその痛みを耐えて前に進んでいる。弱音を吐いてる暇があればさっさと働けってかんじだ。
――それから、俺はずっと彼女の足を見続けている。
傷だらけの膝はいつの間にか綺麗になっていて、俺は人知れずホッと息をついた。
平日は決まった時間に店の前を通り過ぎて行く彼女。でも時々慌てたように駆けて行く。寝坊でもしたのだろう。紺のハイソックスが冬になると黒のタイツだったりニーハイソックスになったりする。ときめく。
「桜木、この2年でだいぶ変わったな」
「そうですか?」
「あ、わかります! 以前よりずっと明るくなりましたよね」
「……そろそろカット、やってみるか?」
「は、はい!」
彼女の顔はまったく知らない。名前も年齢も、アドレスも電話番号も。俺が知っているのは彼女のプリーツスカートから覗く足だけだ。そしてその足がとても魅力的であること。
――これが俺と『彼女の足』との出会い。
名も知らぬ彼女の足を見続けて3年目。俺は立派なストーカーだろう。
***
「――もしもしお電話ありがとうございます。美容室、EARTHでございます」
本日のピークが過ぎたころ、一本の電話が来た。いつもならアシスタントの梶さんが対応するのだが、生憎彼女は他の作業で手が離せない。
近くにいた自分が電話を取ると、奥にいる梶さんが必死に頭を下げている。
「ご予約ですか? はい、ありがとうございます。ご希望の日時をうかがってもよろしいでしょうか?」
手元の予約リストを捲りながら相手の声に集中する。電話対応は自分が最も苦手とする仕事だ。久しぶりに担当したせいか、ペンを握った右手にじんわりと汗が吹き出る。
「明日の午前10時から……はい、大丈夫です。はい、はい、カットのご希望で」
『キノシタサクラ』、とリストに記入をしてカット希望にチェックを入れる。メンバーズカードを持っていないとのことだから初めての利用だろう。カウンセリングの時間もしっかり設けたほうがよさそうだ。
「それでは明日の午前10時に、お待ちしております」
失礼します、と相手が電話を切るのを待ってから受話器を置く。ほっと息を吐いてメモした内容を確認する。
「桜木さんすみません! 中の掃除始めちゃって」
一人確認作業を行っていると、奥で仕事を終えた梶さんが寄ってきた。
「いーよいーよ。ちょうど手空いてたし」
「すみません。ありがとうございます」
「明日カット入ったから後で確認しといてね」
「はい! わかりました、……新しい方ですか?」
「みたいだね。担当は俺かな、店長かな」
ここのところずっと常連さんばかりを担当してきたせいか、今入った予約の人のことを考えると緊張でお腹が痛くなってくる。11時には店長のお得意様が入っているからこれはもう俺の担当だろう。
「桜木さんってすました顔して意外に人見知りですよね」
……年下にさえ、この扱いだ。
キリキリと痛みはじめた胃を擦りながら仕事に移った。
***
俺がアシスタントを卒業して、半人前スタイリストとなった頃、『彼女』を見かけなくなった。いつもの時間になってもなかなか通らず、休みかと思ってはチラチラと通りを見ることが多かった。
もちろん、そのことで店長にはよく叱られた。
そうして、ある時気づいた。『彼女』はもう高校生ではないことに。
「桜木! ちょっとこっち来られるか? 今日の予約確認したいんだ」
「はーい、店長。すぐ行きます」
紺色ハイソックスとローファーを卒業した『彼女』はすっかり大人の足になっていた。毎朝決まった時間に店前を通っていたが、今ではまちまちで。足だってスキニーやタイツで隠すことが多くなった。
……もったいない。あんなに綺麗な足なのに。
何より、彼女の素足を見られなくなったことが残念である。
「じゃあ今日の10時のカットはお前が担当な」
「わかりました」
「うっし! 今日も自分の仕事をしっかりこなすこと」
「はい!」
「店開けていいぞー」
うちの店は10時オープンの21時クローズで午前中よりも午後、特に夜のお客が多い。比較的遅い時間までやっているので仕事帰りのOLや大学生に利用されている。料金もまずまずで、ネット限定のクーポンもあるので財布にやさしいのだ。
「ピン、ブラシオッケーっと」
道具の確認をして、いくつか雑誌を用意しておく。最初に簡単な書類記入をお願いするので、ボードやペンの準備も忘れない。
「桜木さーん。最初のお客様カットでしたっけ」
受付カウンターでがちゃがちゃと準備を進めていると、店の奥から声をかけられた。梶さんだ。
ショートカットの彼女は笑顔の絶えない明るい性格で店長からも気に入られている。
「予約の段階ではね」
「飲み物どうしますか?」
「一応準備しておいてくれる? 電話では最初カウンセリング受けたいって言ってたからメニュー変わるかも」
「はーい。わかりましたあ」
梶さんがまた奥に戻って行ったのを見て、俺は最終確認へと移る。使う予定の席へ行って、ゴミが落ちていないかチェック。
そうしてふとガラス越しに外を見たら、『彼女』がいた。
――ピンクの淡いパンプスを履いて、白くて綺麗な足を晒した『彼女』が。
いつもならこの店の前を足早に通り過ぎて行くのに、今日はなぜかそのままだ。少し迷ったように足踏みをし、また歩みを進めたところでガラス越しから姿を消した。
その直後、店の扉が開くベルが鳴った。
「こんにちは。昨日予約した『キノシタ』です」
……俺の話はここまで。まあ、俺は正式なストーカーにならずに済んだということだけ知っといてもらえればいいかな。
「膝下3センチメートル」 ―END―
え?題材?経験談?
そんなまさか。ねぇ?