6.遭遇
そこに現れたのは、黒い毛皮を持ち、血のように赤く明確な殺意の籠もった眼を此方に向け、獰猛な牙を剥き出しにしてグルグルと唸り声をあげている狼のような姿をした、ヘルハウンドと呼ばれる魔物だった。
しかも、その数は一頭だけではなく、複数頭いた。
何でこんな処に魔物が……。何時も森の中へ行く際は、念のために予め魔物除けの匂い袋を胸元のポケットに入れておいてあるのに。
しかし、そう思いながら胸元のポケットを確認するようにして手を当ててみるが……無い!?
……そうだ、昨日の夜に匂い袋に穴が開いているのを見つけ、繕ったのはいいが、そのままテーブルの上に置きっぱなしにしてしまったようだ。
何てことなの! と、レティシアは自分の迂闊さを呪い、己を叱責した。
ヘルハウンドは脚が速い。走って逃げようとしても、直ぐに追いつかれてしまう。ましてや、相手は一頭だけではなく、複数頭いるのだから逃げ切るのは困難だ。
どうしよう、このままじゃ……。
これからこの身に降りかかるであろう最悪の事態を想定して、恐怖で身体が竦み出す。
そんなことを考えている間にも、ヘルハウンドは前脚に力を入れ、背中を後ろに突き出すようにして今にも襲い掛からんとしている。
そんなヘルハウンドと私の様子を見てブランは、
「大丈夫だから、安心して。ここから動かないで待っていてね」
と、私の方を向いて安心させるように微笑んだ。
その直後、私を中心として淡く白い光を放つ魔法陣が足元に展開され、輝きが増すと、半円形の透明な膜が私を包み込むように形成されていた。
そこへ、ヘルハウンドが彼へと目掛けて跳びかかって来る。
結界を張り終えたブランは、直ぐ様ヘルハウンドへと向き直り、そちらへ向かって走り出した……ように見えた。何故こんな曖昧な言い方かというと、その直後に彼の姿が忽然と消え失せ、その姿を見失ってしまったのだ。
次に彼の姿を捉えた時には、こちらを向いているヘルハウンドの後ろで背を向け、その手には先端が血に濡れた剣が握られていた。
その剣は、白銀の刀身に魔術文字のようなものが刻み込まれ、鍔には紫水晶が填め込まれた金色の竜の翼が象られた意匠を凝らし、柄は紫色をした剣だった。
そして、次の瞬間彼の背にいるヘルハウンドが真っ二つに裂け、血飛沫をあげて地面へと崩れ落ちた。
いつの間に……。いや、そもそも剣何て持っていなかった筈なのに何処から出してきたのよ、それ?
私は、呆気にとられて再び速すぎてその動きを目で捉えることすら出来ない、忽然と消えては現れを繰り返す彼の姿をそれでも追いながら、ヘルハウンドが無残な姿を晒して行くのを唯見つめるだけだった。
そうして私が唯唖然としている間に、その圧倒的なまでの戦力差を見せ付けた戦闘と言うのも烏滸がましい行為は、あっという間に終わりを告げていた。
魔物の死体と血溜まりの先に佇むブランの姿は、右手に血のついた剣を携えながらも、戦闘をし終えたばかりだというのに、衣服には血糊などの戦闘による汚れは一切ついておらず戦闘前の状態を維持したままで、こんなことは些細なことだと言わんばかりに涼しげな表情をしている。
襲ってきた魔物を倒し終えたブランが此方に振り返る。その瞬間私は、ビクリと僅かにその身を震わせた。
そんな私の様子には気付かなかったのか、彼は涼しい顔からぱっと目を輝かせ人懐こい笑みを浮かべて此方に駆け寄って来る。
その姿は先程の泰然とした姿とは打って変わり、まるで御褒美をおねだりする子犬のように見え…ヤバい、何か耳と尻尾を振っている犬のような姿が見えてきた気がする。私より遙かに年上の彼に対して不覚にも可愛いと思ってしまい、駆け寄ってきて私の顔を覗き込むようにしていた彼の頭を無意識に撫でていた。
そのことに気付いた時、私は変な奇声をあげて慌てて手を引っ込める。
手を引っ込めると、彼は残念そうに少し名残惜しそうな顔を見せていた。そのしょんぼりとした子犬のような顔が、私の心の中の何かを刺激する。
いや、だからそのワンコのような顔は反則ですってば! いい、レティシア。あれは幼女に求婚する変態なのよ……そりゃあ、助けてくれた姿は格好良かったけれど。
そう自分に言い聞かせ、変な衝動に駆られそうになる気持ちを抑える。
そして、一度深呼吸して心を落ち着かせてから、私は彼に感謝の気持ちを伝えた。
「有り難う。御陰様で怪我もなく、この通り採った薬草も無事に済んだわ。後で、何か御礼をさせてね」
「君が無事ならそれでいい。……でも、そうだね。良ければ君の手料理が食べてみたいかな」
ブランは嬉しそうに笑顔にしながら、そう提案して来た。
祖母は忙しい中でも自分を育ててくれている。自分が遣ってみたいと言った事には頭ごなしに反対せず、失敗しようと納得いくまで遣らせてくれていた。育ててくれている事とその事に感謝をし、少しでも祖母の負担を減らせられたらと、出来ることは自分でやって来た。だから、料理は当然の事ながら出来る。但し、それはあくまでも普通の家庭料理の範囲内で、である。
「いいわよ、今度御馳走するわね。でも、普通の家庭料理しか作れないから余り期待しないでおいてね。一応聞いておくけど、何か食べたいものはある?」
「うん、それで構わない。君の作ったものなら何でもいいよ」
特に希望はなかったけれど、私はそれに頷きながら「わかったわ」と応えた。
そこでふと、彼の姿に何か違和感を感じた。
そういえば、いつの間にか彼の右手にあった剣が姿を消している。そう気が付いて、マジマジとその右手を見つめていると──
「あっ、もしかしてあの剣のこと? あれは“竜刃骨”と言うんだ。人型の時は、魔法を駆使することは出来るけれど鋭い爪や牙といったものはないから、その代わりに予め自分の体内の一部を使って武器を成形しておいてるんだ。竜の骨はとても頑丈なのは知っている? 大抵は支障のない尾の部分の骨で作るのだけど、形状は各々によって様々で、私の場合は剣が扱いやすいのでこの形にしている。差し詰め、“竜刃骨剣”というところかな。普段は体内に納めていて、必要な時に呼び出しているんだ。因みに、この竜刃骨は悪用されない為に、持ち主かその者が心許した者、つまり許可した者しか扱えないようになっている」
「ふ〜ん、そうなの。だから、武器なんて持ってなかったのにいつの間にか剣を持っていた訳ね。普段収納しているから荷物にならなくて、出し入れ自由自在って便利ね。でも、もし許可していない者が扱おうとしたら?」
「持ち主や許可した者には軽く、許可無き者には重くなるように出来ている。だから、重くて持てない。普段は体内に収納しているからそんな事は先ず無いけれど……人にとっては骨だけに限らず竜の身体は貴重な素材になるから予防策ってところかな」
竜は貴重な素材――そのことを口にした彼の表情はとても悔しげで、寂寥感に満ちていた。
そんな理由から、竜に闘いを挑む者も少なからずいる。それで狩られた仲間を想えば、それは当然の事だといえるだろう。
「ごめんなさい。悲しい事を思い起こさせてしまったみたいで……」
「自分から口にしたんだ、君が気に病むことじゃないさ。それよりも、そろそろ戻ろうか」
ブランはそう言って、悲しみを払拭させるかのように明るい笑みを零した。
それからは、気不味い雰囲気を拭い去るかのように話題を明るいものに変え、私達は村への帰途についたのだった。