20.海へ行こう2
そうして貝殻を手渡してきた彼女に、今度は私が近くにあった別な貝殻を拾って差し出す。
丁度掌に収まる程の大きさの渦巻き状をした貝殻である。
「その貝殻の穴が開いている部分を耳に当てて、耳を澄ませてご覧。波の音が聞こえてくるよ」
私がそう言うと、彼女は素直に貝殻を耳にやり、眼を閉じてその音を聞こうと集中して耳を澄ます。
「本当だ! 不思議ね」
少しすると彼女は眼を見開き驚いたようにパチクリとさせてそう言った後、胡桃色の薄茶色の瞳を輝かせ私に微笑んだ。
――満面の笑みでもって。
私も、そんな彼女の笑顔を見ていて自然と顔が綻ぶ―――というより、今日は朝から顔が弛みっ放しだった。まあ、彼女といる時は大抵顔が弛んだままではあるのだけれどもね。
……そんな私の事などどうでもいい。
――彼女が喜んでくれれば、笑顔でいてさえくれれば。
そして彼女は、どうしてこの貝殻から波のような音が聞こえてくるのだろうか? と、不思議そうに渦巻き状の貝殻を観察するように見つめ続けている。
私は音が聞こえてくる現象について知っていた。風の属性を持つ、音に敏感な私だから気付けたのかもしれない。
愚かにも、君が見詰めているその貝殻になりたいと、馬鹿な考えが浮かぶ。
そして、素直に直ぐ教えてしまっては面白味に欠ける――そんな意地悪な考えすら思い浮かんで来てしまった。君の疑問を取り除く事は容易いというのに。
年上ということもあり外面状は余裕を取り繕っている私ではあるが、そんな彼女の一挙手一投足に常に翻弄されている。
――そんな自分も悪くない。
そう素直に思える自分がいた。
でも、そんな意地悪な考えをやめて説明してあげれば、彼女の私に対する好感度ももっと上がる筈だという打算的な考えも浮かんできてしまうあたり、自分の意気地の無さに少々呆れてしまう。
しかし、何よりもいい思い出にしたいので、私は彼女に何故なのか教える事にした。
例えそれが、決してロマンチックなものでは無かったのだとしても。
「不思議だろう? だけれどその音は、実はその貝殻から発せられているものでは無いんだ。波のように聞こえてくるその音は、人間の耳の中にあるとある部分から発せられているもので、貝殻を耳に当てる事により、その音が反響して聞こえてくるものなんだよ」
ロマンチックなものでも、ましてや普通の人にとってみれば面白みの無い残念な話のようにも思えるが、役に立つかはどうかは兎も角として、医療の道を志している彼女にとっては興味深い話だろうと踏まえて、この話題を振った。
案の定、私が告げた言葉に彼女は興味を示し、『成る程ね』という具合に相槌を打ちながら耳を傾けている。
「なかなか興味深い話をしてくれて有り難う。これはもしかしたら、お婆ちゃんですら知らない話かもしれないわね。帰ったら話してみようかしら」
「どう致しまして」
彼女は感謝の言葉と祖母に良い土産話が出来たと楽しそうに言った。
私はその感謝の言葉に応え、互いに微笑み合う。
そうしてから私達は、再び並んで砂浜を歩き出した。
他の人々がいる、近くて少し遠いそんな場所へと近付いて来ると、彼女はその場に履いていた靴を脱ぎ捨て、裸足で砂浜を踏みしめ出した。
そしてその裸足のまま、海の波が押し寄せて来る方へと歩いていく。
海の波が彼女の素足へと迫ったその時、彼女は慌てるように穿いていたスカートを少したくしあげた。
彼女はそのまま浅瀬で足を海に浸け、水の冷たさに心地好さ気に涼んでいる。
彼女の普段は見ることの出来ない素足が、私の目の前で無防備に晒されている。白くて細いその素足に、唯見つめているだけでどぎまぎとしてしまい、いけないことをしているようなそんな僅かな背徳感に苛まれ、思わず私は視線を逸らしてしまう。
今度はその自分の情けなさに呆れ返る。
――滅多にない機会なんだから、じっくり見ておけよ。
そんな如何わしい衝動と共に突き動かされた私は、ついこんな欲望混じりの言葉を口に出していた。
「海に来たのだから、折角なんだし泳がないかい?」
その言葉を聞いた彼女は、心地好さ気にしていた顔色を朱く染め上げていたのだった。
***
彼の思い掛けない…という訳ではないのだけれど、その一言に私は内心大いに狼狽えていた。
彼にそう言われたものの、何故だか彼の前で肌を晒すのが恥ずかしくなったのだ。着替えは持ってきていて、用意してはあるのだけれど。
ちらりと目線を合わせることの無きよう、密かに彼の姿を窺って見る。
――うん、矢っ張り無理です。だって、何だかとても照れてしまうのだもの。
今日のスカート姿だって本当は、彼に何時もとは違う私を見て欲しいだなんて思い、滅多に着ないその服を選んだ楽しさと共に、着る時は密かに少しの勇気が必要だった。
私のスカート姿を見て彼は一体どう思うだろう? 果たして喜んでくれるのだろうか?
会った瞬間彼はすかさず「似合っているね。可愛いよ」と、褒め言葉を述べてくれた。
嬉しいような、同時に気恥ずかしいような感覚。
それから何時もと変わらぬ、森の中を2人並んで歩いている事でさえ急に気恥ずかしく感じられ、私は今までどうやって彼に接して来ていたのだろうか? と、それすら思い出すのが危ぶまれる程、混乱に満ち溢れていた。
でもそんなことはすぐに忘れた。あまりに沢山の素晴らしい景色などと共に。
なのに―――忘れていたというのに。
私の顔は今、朱くなってはいないだろうか?
頬が熱を帯びている気がする。……これは誤魔化せないかも。
1人心中でそんな事を思い、葛藤していた。
でも、このまま黙ったままじゃいけない。何か答えなくちゃ……。
少し間が空いてしまったけれど、何とか考え出した返事を口にする。
「……泳ぐのは止めておくわ。それはまた何時か別の機会にしましょう。今はこれだけでいいの」
私が口にした答えに、彼は少し残念そうな落胆したように顔を俯かせる姿を垣間見せたが、直ぐに立て直したように顔を上げる。
「そうか。なら、また何時か必ず来よう」
彼はそう口にして微笑む。
「そうね。何時か必ず……きっとよ」
私もその言葉に微笑みながら、同意を返した。
―――この時私は既に何かを予感していたのだろうか? もう此処には来れないのだと―――。
今日という日があまりにも素晴らしかったから、また此処で楽しい時間を彼と過ごしたいと思えた。
例え此処とは違う海を眺める事が出来たとしても、もうこうやって同じ海で砂浜を歩くことも、この海に泳ぎに来る事も叶わないのだと……。
このまま時が止まってしまえばいい……。そんな事を心の中で思っては、消す。彼との幸せな時間がこのまま続けばいいのに、と願う。
その時の私の言葉には、そう願わずにはいられない何かがそこには確かに込められていた。
それから私達は、海で商売をしているお店で食事───彼の奢りで。自分で払うというのに、強引に押し切られる───をしたり、また砂浜を歩き、其処に生息する生き物達を眺めたりなどして、暫くの間そうやって過ごした。
日が傾き、夕陽に染まり始めた海の美しさに、私は来た時とは違うその光景に又も眼を奪われる。
夕陽が反射して、海もまた夕陽色に染め上げられ、赤く煌めいていた。
その光景を目に焼き付けるように、暫しの間食い入るように私は見つめていた。
「そろそろ日も暮れることだし、今日はもうこれでお終いにして帰ろうか」
海をじっと見つめていた私に、そう彼から声が掛けられる。
―――今日はもうこれでお終い。
その事にとても名残惜しさを感じた。
でも、浮かれてしまい少し疲れてはいたけれど、今日は本当に楽しかった。
何よりも、私を喜ばそうとする彼の気遣いが嬉しかった。だから自然に彼への感謝の言葉が、笑顔と共に浮かぶ。
「ブラン、今日は海に連れてきてくれて本当に有り難う」
その言葉を聞いた彼から齎された言葉は、私にとって意外なものだった。
「初めて名前を呼んでくれたね。とても嬉しいよ」
心から嬉しそうな微笑みを見せている彼。
「……あれ? そう…だった……?」
私はそうだったかな?と首を傾げながら、頭を巡らせた。
―――今まで本当に彼の名を呼んだ事がなかったのだろうか、と。
自分の記憶をフル活動させ、思い出そうと試みる。私の記憶にその覚えは………確かになかったようだ。
その事に、今更ながら彼の名を口に出して呼んだことが無かったのだなと、私は気付かされた。
「ねえ? もう一度名前を呼んでくれないかい? ………ダメかな?」
彼からの甘く囁かれる懇願に、私は気恥ずかしさを覚えながらも、今日の楽しい思い出をくれた彼の名前を口に出して呼ぶ。
―――ブラン、と。
この日は2人にとって生涯忘れることのない、夏の日の楽しい思い出となった。
―――この後にあんな出来事が起きたのだから。
これから嵐が――2人にとって選択と決断の時が、迫って来ようとしていた。




