7 したいこと
「やさいはたけ、にせいれいが、たね……」
トゥヴァリが黙りこんでしまうと、
「蒔く」
背後にいたアイピレイスが、穏やかに読み上げる。
「野菜畑に、精霊が種を蒔く」
「まく?」
「こうして散らすことだ」
アイピレイスは握った手からこぼし散らす動作をして見せた。
「これはどういう意味ですか?」
「うーん、野菜というのは、種――種子とも言う。耕した土にそれを蒔くと、芽が出て苗となり、やがて花が咲き、実がなる。その実を食べるものを、野菜と呼ぶ」
「ミズハ草とか?」
「ミズハ草……ロースウェイが昔、名付けたものだ。ダイコンに似ているが、葉ばかり伸びて根が太らないと……」
うーん、と呟き続けるアイピレイスに、トゥヴァリは首を傾げる。こういうことはよくあるので、黙って待っている。
「……しかし、栄養成分はブロッコリーに近いと言っていた。ミズハ草には消化を促進するアミラーゼが……」
「ショウカって?」
「消化というのは、胃の中で食べ物を溶かすことだ」
アイピレイスはそう言って、自分の腹をさすった。
「お腹が空いたんですか?」
「うーん、いいや? この中に胃という器官がある。食べ物は口に入り、喉を通って胃に落ちるのだよ」
(キカン? アイピレイス様の仰ることは、まだまだ知らない言葉ばかりだ……)
トゥヴァリは申し訳なく思って、それ以上聞かなかった。
(アイピレイス様は賢人で俺とは違う人間なんだ。同じように本を書けるようになるなんて、できないのかも……)
だが、トゥヴァリはひと月あまりでほとんどの字を書けるようになっていた。今は本をどうやって書いたら良いかを知るために、昔の人が書いた本を読んでいる。ルディの家にはまともに書かれた本がないので、アイピレイスが他の家から借りて来てくれた。
アイピレイスは、トゥヴァリの肩に手を置いた。
「遠慮することはない。君は知りたいことを何でも聞いて良いんだよ。私が知っていることはすべて教えよう。では、私は町を一回りしてこよう」
「ありがとう、アイピレイス様。俺も出かけます」
トゥヴァリは大切に閉じた本を抱え、東の野菜畑に走って行った。
東の広場の一画では、緑の葉がそよいでいる。精霊の光の球が畑の上や畝の間を、見守るように漂っている。
トゥヴァリは畑に近づいてみた。葉や実をよく見ようと思ったのだ。真っ赤な三角の実が瑞々しく実っている。手を伸ばすと、精霊がひとつ、近付いてくる。トゥヴァリの体が、こわばる。
西の林で、熊――大きくて黒い毛むくじゃらの動物――がペルシュを襲ったときのことを思い出した。
「精霊は心を読む」と、アイピレイスが言っていた。心というのは、思っていることや考えていることだ。
(見てるだけ、見てるだけです!)
強くそう思いながら手を引くと、精霊は離れていった。トゥヴァリは緊張が抜けて、長く息を吐く。
「“野菜畑に種を蒔く。精霊は雨と太陽を与え育てる“」
トゥヴァリは座って本を読む。書かれているのがどういうことか、わかってきた。
夕食の時間、家に戻る。
アイピレイスも戻ってきた。賢人は食事を必要としないが、トゥヴァリとともに北の広場に向かい、テーブルにつく。
アイピレイスには食事が用意されないが、一緒にいてくれるようになってから、トゥヴァリは食べるのが楽になった。食事の量がだんだん増えている。
「精霊は働き者ですね」
「うーん、そうだね。それはそうだ」
「本に描かれている絵と本当の畑は全然違いますね」
トゥヴァリは皿の赤い三角の実を手に取り、まじまじと眺める。
「そうとも。植物はこの三百年でずいぶん姿を変えたのだ。精霊が育てたから、かもしれない」
「人間は、すべきことは無いんですか。みんな毎日、ただ起きて、食べて、眠るだけです」
「うーん、あとは、適度な運動、かな」
と、アイピレイスが顎髭を撫でると、くるんと丸まる。
それがおかしくて、笑ってしまうのを誤魔化すために、トゥヴァリは赤い三角のトマトにかぶりつくのだった。
▪︎
暗い空に星が、蒔かれたように輝いている。
(空のことも教えてやろう。姿の変わる雲、星までの距離、周る月。……もしオーウェンがいたならば、彼がトゥヴァリの良い師になっただろうに)
アイピレイスは空を見上げながら、ゆっくりと階段を上った。
一人の人間が成長する過程を見ること――それに自分の手が加わること――が、これほどまでに自分に喜びをもたらすとは思ってもみなかった。
(きっと、今は世界の誰も知らないのだ。子どもは精霊の元で勝手に育つのだから。これが人間だ。学び考えるこの姿勢こそが……)
精霊王の像が星空の下に、ぽつりと立っている。アイピレイスはその像を見つめ、果たしてセレニアはこんな姿だっただろうか、と考えた。
姿を見なくなって七十年は過ぎている。それでも、忘れるはずがない。もし忘れたとすれば。アイピレイスが賢人に選ばれた意義が失われてしまう。
(……満足か?)
自分自身に問いかける。
(私のすべきことが、何か、他に……)
瑠璃色の扉は、入る意思を持つ者の為だけに開く。宮殿に入れなくなる日が来るのではないか、とアイピレイスは思う。
今やほとんどの時間を町で過ごし、宮殿にいる時間は、以前よりもさらに少ない。
「臆病者め」
頭の中で、ナリファネルの酒臭い声がした。
あの日以来、宮殿の、自分の部屋以外へ行くことはない。
▪︎
▪︎▪︎
▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎ーーーー。
トゥヴァリがペルシュと出会うまでに生きたのと同じくらいの年月が過ぎた。
ルディの家の書棚には、古い本と新しい本がたくさん並んでいる。アイピレイスがくれたもの、町の人から借りたもの、そしてトゥヴァリ自身が書き表してきたもの。
それぞれの家にある本は、日記や手記と呼ばれる種類のものらしい。
ドーデミリオンから借りた本をめくる。
“我々の要求を精霊王は承諾し、我々にとって必要なものを用意した。まるでホテルのサービスのように。”
「“ホテルのサービス”って、何ですか?」
トゥヴァリが問いかけると、アイピレイスは目を伏せ、唇をわずかに噛みながら考えこんだ。
「うーん……それは……今君たちに精霊がしていることの、たぶん、そんなものかな」
答えは曖昧で、言葉の端々に何かを隠している気配がある。トゥヴァリは気付いていた。アイピレイスは全てを自分に教えようとはしていないのだと。
町の人々ともよく話すようになり、知り合いが増えた。
「私は次で四十歳。もうじき精霊の迎えが来るだろう。君と話すようになって、楽しい時間を過ごせたよ。ありがとう」
差し出された手を苦い顔で握り返すトゥヴァリに、南地区のサキタリは言った。
「私は退屈な日々を埋めるためだけに、物語を読んできた。だがトゥヴァリ、君は違う。君は、この町の何かを変えてしまうかもしれないね」
トゥヴァリはサキタリに死んでほしくないと願った。心の、奥で。
親しい人が増えれば増えるほど、“順番”が来るということが当たり前になっていく。誰かと別れる悲しみが、自分の順番が来た時のための学びに変わっていく。
アイピレイスと暮らすトゥヴァリの名前は、今や町のほとんどの人が知っていた。
西地区の人々だけは、もう一つ知っていた。
トゥヴァリというのは、死んだ子どもが遊んでいたルディの名前であること。
だからトゥヴァリは、西地区にだけは近寄らなかった。
しかし、行く必要ができてしまった。サキタリが言ったのだ。
「昔、西地区のミスラに読ませてもらった本には、よくわからないことが書かれていた。
人間が一か所に集められたときのことでも、大精霊同士が三日三晩戦い、狼犬の大精霊が封印されたことでもない。賢人様が選ばれた時のことでもない。
知らない言葉が多すぎて読めなかった。君が知りたいことは、もしかしたらその本に書かれているかもしれないね」
サキタリが生きているうちに借りてもらえばよかった、とトゥヴァリは後悔していた。
(お前のせいでペルシュは死んだ!)
その声を頭の中で聞かずに過ごした日は、あの日以来一度もない。夜、眠るとき。同じくらいの背恰好の子どもを見たとき。赤毛の人を見かけて、隠れるとき。宮殿を見上げるとき、お腹が空いたとき、……。
ペルシュがどうして死んだのか、いまだにわからない。
けれど、あの時――ペルシュと冒険するにしても、他にやりようはあったはずだ。今のように町を歩いて見て回ることだってできたし、もっと安全な場所で遊ぶこともできただろう。
それを選ばなかったのは、トゥヴァリが他人を大切にする気持ちを、何ひとつ知らなかったせいだ。
(それでも……どうしてもミスラの家に残された物語を知りたい)
胸の奥で、好奇心が自制心を少しずつ押しのけていくのを、トゥヴァリははっきりと感じた。そして、そんな自分に苛立つ。――まだ、浅はかな衝動に突き動かされるのかと。
トゥヴァリは昼食後に、西地区の通りに立った。広場に何人か大人が集まっているのが見えた。
「こんにちは」
少しぎこちなく、その人たちに声をかける。小さく息を呑み、手のひらに汗がにじんだ。
「やあ、こんにちは」
返事をもらえて、肩の力が抜ける。
「アイピレイス様と一緒にいるルディだろう」
「この地区には来づらいかと思っていたんだ」
「アイピレイス様が信頼している子だ。レニスの言うことは何かの間違いだろう」
彼らは口々に言った。
(またアイピレイス様に助けられている)
トゥヴァリの中で、アイピレイスの存在はとても大きく、身近になっていた。
「へえ、俺が嘘つきだって言うわけだな」
心臓が跳ね上がる。
声が低く変わっていても、振り向く前からレニスだとわかる。声も言葉も鋭く棘を帯びていた。
「何しに来た。また子どもに赤い精霊を連れて来たのか?」
その言葉に、周りの空気がわずかに凍る。大人たちが窘めようとしても、レニスは気にも留めなかった。
トゥヴァリは口を開く。――レニスからも、逃げない。その覚悟を決めて来たのだ。
「……こんにちは、レニス」
喉がごくりと動く。
「……ミスラに本を貸してもらいたくて来た」
「本? ああ、お前、なんだかくだらないことをやってるんだってな」
レニスは乾いた笑いを浮かべる。
「ミスラがお前の頼みを聞くわけがないだろ」
「……どうして」
「ペルシュの母親だからだよ」
胸がぎゅっと締め付けられる。――よりにもよって、その人がミスラだったのか。
「……そうか」
それでは諦めるしかない、とトゥヴァリは思った。
すると、騒動の外にいた男が、間に入ってきて言った。
「レニス、お前はトゥヴァリに辛く当たりすぎだ。ペルシュは精霊に連れていかれただけだ。トゥヴァリが死なせたわけじゃない」
その男の髪が赤いことに気付き、トゥヴァリは目を見張る。
「こいつのせいさ。じゃなきゃ、何で子どもだったペルシュが死んだんだ」
「それはわからない。……精霊が間違えたとしか言えないだろ」
「はっ。今日こいつと話した後、赤い精霊が来ても知らないぜ」
レニスは面白くなさそうに、トゥヴァリに背を向ける。
男は諌めるように言った。
「お前ももう、いつまでも子どもじみた真似をするな」
レニスはカッとなり、トゥヴァリを睨みつけ、顔の前に指を突き付けた。
「受け入れることが大人なのかよ! じゃあ、誰がこいつを罰するんだ! こいつは謝りもしない。俺が言わなきゃ、ペルシュは可哀想なままじゃないか!」
トゥヴァリは真っ直ぐにレニスを見据えた。
「……俺は謝るよ。何が起きてペルシュが死んだのか、俺が何をしてしまったのか、俺が何について謝ればいいのか知ることができたら、心から謝る。だからもう少し待ってくれ」
しかし、レニスは目を逸らす。舌打ちをして、その場を立ち去った。 大人たちは、レニスがいつまでも子どもで困ると口々に言う。
庇ってくれた赤毛の男は、トゥヴァリに振り向いた。
「俺はミスラの息子、アーチ……ペルシュの兄だ。母さんの気持ちは、俺にもわからない。君に会うと何を思うのか。だから、本は俺から貸すよ。どうだい?」
「……! ありがとうございます」
トゥヴァリはもう一度お礼を言い、深く深く頭を下げた。




