25 入江
小さな入江の砂浜に、一艘の小舟が打ち上げられた。浅瀬の岩礁を泳ぐように進んでくる。岩の上にいた艶やかな黒い毛並みをした一匹の膃肭臍は、はじめ、その小舟を生き物だと勘違いした。
なので、下顎を岩につけて舟が入るくらいの大口を開けて待っていた。
小舟がすい、と不思議な角度で避けていったとき――泡立つ深海の色をした目がそれを追い、半刻ほど経った後、残念そうにゆっくりと口を閉じた。
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ドラギエルとカラットは、光り輝く薄い青色をした波打ち際に降り立つと、小舟を流されないように、浜の上までしっかり押し上げた。ずぶ濡れの服を脱いで海水を絞り、既に脱いでいた靴と一緒に、小舟の縁に干した。
この暖かく穏やかな浜辺に着くまでは、とても酷い目に遭ったはずだった。しかし、二人がすっかり気を失っているうちに、それは過ぎ去っていた。
ドラギエルは、岩場にいる黒くて得体の知れない生き物に気がついた。小舟の陰に隠れたり、恐る恐る寄ってみたりしたが、海を見つめてまったく動かないのに呆れ、放っておくことにした。
二人はぴくりとも動かないヘイスを抱え、船から下ろした。湿った小舟の木の板よりもじわりと暖かい砂浜の方がいいかと思ったからだった。
「冷たいな……」
カラットが呟く。ドラギエルの手が震える。生気を失った――死んだ動物は、こんなふうに冷たい。
カラットはわざとらしく明るい声で言った。
「水と食べ物だ! それがなきゃ、目を覚ましたとき困るよな!」
「う、うん」
ドラギエルもうなずく。
ふと小舟を見やると、半透明に水のように揺らめく少女――タタディアが、小舟の先に座っていた。
「あ、あれ……」
「あの精霊じゃないか! まだ俺たちを狙っているのか?」
二人が慌てていると、
『早く飢えて動けなくなれ』
と、タタディアの言葉が伝わる。空中に浮かび、じりじりと迫り寄ってくる。
カラットは慌てて視線を外し、後ずさる。
しかし、突然。
『悔しい……悔しいぃいい〜!』
タタディアは、全身に波を立てながらひっくり返って暴れた。カラットとドラギエルは驚いて岩場に身を隠したが、それ以上何もしてこなかった。
「変な木だが、森みたいだな。食べ物を探しに行くか。俺たちだって、何か食わなきゃ動けなくなる」
カラットはタタディアを見ないことにして、ドラギエルに言った。
「その前にあの箱を見てみよう。……ドラギエル、取ってきてくれ」
「えっ……俺が……?」
ドラギエルはあからさまに嫌そうな顔をした。タタディアに近付くのはドラギエルだって嫌だ。
「お前には、コカトの加護とやらがあるんだろ。俺には何もないんだよ!」
カラットは開き直り、無理やりドラギエルの背中を舟の方に押す。
「ヘイスを助ける……ためだ……!」
「! わ、わかった……」
一歩一歩、タタディアの様子を窺いながら進んでいく。カラットも、急かしはしない。
(コカト様コカト様……)
ドラギエルは夢中で祈った。遠く離れたコカトの森を思い出しながら。
『きいいぃい〜! 腹が立つ!』
タタディアは頭を掻き毟るようにして、ドラギエルをキッと睨みつける。それだけで心臓が止まってしまうのではという思いがした。
ドラギエルはようやく小舟に触れる。銀色の箱は、腰掛けの裏側に紐で括り付けてあった。紐を解き重たい箱をそろそろと取り出すと、一目散にカラットの方へ駆け戻った。
「はあ、ああ、怖かった……」
「よくやったドラギエル。俺が隠れた時からずっと積んであったんだ、非常用の食料や道具が入っていると思うんだよ」
しかし、箱を開けようとした二人はギョッとした。銀の細長い箱には、牙を剥く狼の絵が彫られている。
「変わった飾りだな……」
カラットが開けようとしたが、いくら力を入れても隙間すら開かない。
「はあ。頼むよ、ドラギエル」
しかし、大きな手でも蓋は微動だにしなかった。
「何だこりゃ。仕掛けがあるのかな」
「ヘイスに聞こう、あ、頭がいいから」
ドラギエルは言った。
「……そうだな。この箱は置いといて、何か食べられるものを探そう」
カラットは、砂浜の奥にある森を指差す。
「俺はヘイスを見てるからドラギエル、行ってきてくれ」
「え?」
「お前、森は得意だろ?」
「得意じゃない」
「ん?」
「コカトだからって得意じゃない! トガの実で死にかけたし転ぶし迷うし森のことなんかわからない!」
と一息でまくし立て、肩を上下させた。
カラットは面食らって尻もちをついた。
「そ、……そうだったのか。悪かったよ」
そして立ち上がり、「じゃあ俺が行ってくる」と手足に付いた砂を払った。
膝がガクガク揺れ、太陽の光に立ちくらみがした。
(俺も、そろそろ限界だ。急がないと……)
特にカラットはここ数日、ろくに食べていなかった。砂浜は足を取られるので、余計に歩みが遅くなる。
(ここは巨大大陸なのかな。だとしたら、まさか俺たちがはじめて足跡をつけることになるなんて……本当に……すごいことなのかもしれないぞ)
ふと――久しぶりに、家族のことを思い出す。
(やっと、誰かに話したいことができた……)
地面が湿っぽく柔らかい感触に変わった。サラサラとした砂ではなくなり、短い草がちらほら生えている。
「痛っ」
小指の外側に鋭い痛みを感じて、カラットは右足をあげた。足に赤い小さな点がついていた。
「何だろう。裸足だから、草で切ったのかな」
迷ったが、浜辺に放り投げてある靴を取りに行く。
「くそ……結構痛いな……」
どんなに絞っても靴は濡れたままだ。仕方なく気持ちの悪いまま、靴を履く。足はさらに痛みを増したが、カラットは我慢した。軽く右足を引きずりながら、森へ向かった。
カラットが初めて見る、不思議な木だった。枝が一本もない幹は毛羽立っていて、高く伸びた上の方にだけ、大きな緑色の葉を広げている。
背の低い植物も、変わっているものばかりだった。濃い緑色で弾力のある大きな葉。柔らかい棘がついている草。小さな白い花や、ひょろっと上に伸びた赤い花。
黒い斑点かと思ったら、小さな虫がびっしりついている青い実や、連なって幹から突き出している、緑や黄色の細長い実。
(とりあえず、持って行って考えよう)
棒を拾い、足のひりつきに耐えながら、甘い匂いがする実をもぎとって抱え込む。
来た道がわからなくなる前に、浜辺へ戻ることにした。
ヘイスの横に座っているドラギエルの背中が見えた。ヘイスは相変わらず、動かない。
「いい加減、現実を見なきゃならないかもしれない……」
カラットの声に、ドラギエルが振り返る。
黄色い細長い実を地面に落とした。右足を引きずってきた跡が砂浜の向こうまでずっと残っている。
「ヘイスは……もう……」
カラットは倒れ込むように、ドラギエルの隣に座った。右足の靴を脱ごうとして、「痛っ……!」と呻いた。頭まで突き抜けるような激しい痛みに、これ以上動けなくなった。
「だ、大丈夫?」
息が止まって、返事ができない。目をきつく閉じ、痛みに耐える。焼けるように熱い足に、濡れた靴の革が擦れると、右半身に激痛が走った。
「大丈夫じゃない……、い、痛い……!」
カラットはナイフを出し、靴を破いてしまおうとした。なかなか刃が通らず、ドラギエルが見かねて、カラットの震える足を押さえつけた。ふくらはぎに触れられただけで、叫び声を上げた。
「ぬ、脱がせてくれ」
と、やっとの思いでカラットが言うと、ドラギエルは泣きそうな顔をして、しかし思い切り靴を引っ張った。
「――っ!」
視界が白く弾ける。カラットはそれっきり、意識を失った。




