23 真実の海
大きな船の影を進む小舟に、星明かりは少しも届かなかった。真っ暗闇の中、船に叩きつけられないよう必死に波を越えていた。
ふわり、ふわり、と、淡く白い光の球が船尾に近づく。
「さっそくおでましか」
光は近づいたかと思えば戻り、跳ねたかと思えば回り、少しずつ少しずつ小舟の方へやってくる。
『ふん♪ ふん♪ ふーん♪』
いつの間にか、少女の姿を見せる。
『殊勝じゃなあ。言った通りに三人か。けっこう、けっこう』
タタディアは瞳の無い目でじっくりと、三人を順番に眺めた。淡い光のおかげで、ドラギエルが座っていたのがカラットであることに気づき、慌てて尻を上げる。
『若い男ばかりか。まあ良いわ。お前たちは既に死ぬ運命、自らその身を差し出したのじゃ。セレニアもコカトも文句を言えまい?』
光が赤みを帯びていく。少女の外見に似合わず舌なめずりをする姿に、怖気が走る。
ヘイスは恐怖を飲み込む。
「生け贄を差し出せば魔法を解く約束だったな」
――幼い頃からずっと、精霊の力を使う訓練をしてきた。感情を揺らすと、殴られ蹴られた。恐れは常にあることで感じなくなっていた。
余計なことを考えず、ただ目的だけを頭の中に置く。
「命を差し出すかもしれないんだ。先にあの船が助かるところぐらいは、見ておきたいんだ。お前が約束を守るのかどうか」
ヘイスは遠くに見える船を見つめる。
――何もない部屋に何日も閉じ込められ、“第三王女エッカーナ”を奪うことだけを考えさせられた。食事や排泄の要求をしようものなら訓練が足りないと言われ罰を受けた。
『そして、次は死にたくないと言うのじゃろう?』
タタディアは人間には真似できないくらいに首を大きく傾ける。
「頭の中を読むんだったな」
――人間は頭の中を読めない。強い意志でエッカーナを願うことに、ヘイスが成功しているか失敗しているかなど、父親にも兄にも、誰にもわからない。“訓練”はひたすら繰り返された。
頭の中で、ただ一つのことを考える。
廻り海の魔法を解け、と。
『ふん。まあ良いわ』
タタディアは言った。
空に。満天の星に。みしりと、踏みつけられた硝子のように無数の亀裂が入った。支えが崩れ、空が落ちる。
粉々の破片が次々と降ってきて、海が揺れる。海面はぐんぐん上がり、船と小舟とを押し上げた。ついに船を沈め、波模様の床が空をも飲み込み、そして――まやかしは解かれた。
うねる大波が小舟を高く持ち上げた。黒い空は雷を撒き散らしながら、木の葉のように翻弄される小舟とエッカーナ号の甲板に、強く雨粒を叩きつける。
碇を下ろしているエッカーナ号は高波に大きく船体を揺らし、小舟は一波で遥か遠くまで流れた。
「捕まれ、ドラギエル!」
波が何度も小舟の上を通り過ぎる。カラットが目を覚まして起き上がろうとするのを、ヘイスは咄嗟に押さえつけた。
「二人とも、助かることだけ考えろ!」
ヘイスの怒鳴り声は風と水と雷音にかき消される。
「これは魔法か!?」
目の前に浮かんでいるタタディアに怒鳴る。頭の中では、三人が生き延びることを一瞬たりとも途切れさせないよう考え続けている。
『これが現実の海。妾の優しさがわかったかえ?』
ヘイスは船にしがみつきながら、空を見上げた。少し離れた場所の空は、雲が途切れ、晴れ渡っている。セレニアの加護の中、オルミスの陸地の方向に違いない。
(お前も知らなかったんだろ。じゃなきゃ、とっくに魔法を解いているはずだ)
もはや喋ってはいられない。
『ふん、賢しい小僧め。……ん?』
タタディアは突然、エッカーナ号を気にした。ヘイスたちを無視して、ふわりとそちらへ飛んでいく。
(まさか……!)
波に視界を阻まれ、タタディアの姿が見えない。遠くから、言葉だけが伝わってくる。
『そうじゃな、妾は失敗を認めよう。さっさと魔法を解けば良かったのう』
少しして、光は上機嫌で小舟の元に戻ってきた。
「誰を食った! 落ちたのは誰だ!」
枯れるほどの叫び声を上げ、ヘイスはタタディアを問い詰める。
『誰、など関係あるか』
タタディアはにんまりとした笑みを浮かべ、『お前たちを見逃しはしない』とヘイスに伝える。
『さあ、どの順番で食おうか?』
気を緩めれば、いっそ諦めたくなるような状況だ。
「俺たちはまだ、死ぬと決まったわけじゃない!」
ヘイスは言った。
「自分の意志でこの舟の上にいるんだ。捨てられた命じゃない。俺たちを食うことがセレニアに、許されるのか?」
『当然、約束を反故にするか。悪あがきじゃのう』
(お前の力で俺たちを助けろ!)
ヘイスの思考を聞いたタタディアは、烈火のごとく怒った。
『生け贄が、殺さないでくれと言うならまだ可愛げもあろうに、助けろと妾に命ずるか!』
「俺たちだけじゃないぞ。あの船を遭難から救うと約束したはずだ。エッカーナ号を安全な所へ戻せ!」
あまりに不遜なヘイスの言い様に、タタディアの姿形が揺らめく。
(エッカーナを……無事にオルミスに返せ……!)
その意志はあまりに強く、タタディアを惹きつける。己の持つ力を使いたいと、タタディアの本能が叫び始める。
(助けて、助けて、)
(助かれ、早く助かれ)
小舟からは他の二人からも、声が延々と聞こえ続けている。
タタディアの金切り声のようなものがヘイスの頭の中に響いた。
その叫びに、願う言葉が霧散しそうになる。
小舟はどんどん流されていった。波に浮き沈みしながら潮流に乗り、ぐんぐん、ぐんぐんと、エッカーナ号から遠ざかって行った。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




